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010 日本映画の起源は、江戸時代? [影を動かす試み]

010 日本映画の起源は、江戸時代?
静止画を動かす―2
日本の影絵芝居-1
  
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●イメージ・日高川 逃げる安珍を追って、清姫は蛇身と化して川を押し渡る

 前回は映画の大事な要素としての「投影」」に関連して、
東南アジアに伝わる影絵芝居をみてきました。それは、動かない絵を人がそのキャラクターに成り代わって演じるライブアクションでした。では日本はどうだったのでしょうか。 


●昭和の頃、東洋のハリウッドと呼ばれた調布市で
 21世紀を目前にした2000(H12)年3月。東京都調布市で恒例になっている「調布フィルムフェスティバル」で、19世紀のはじめに日本で考えられたという影絵芝居を観る機会に恵まれました。

 
ご存知の通り、調布市には映画全盛時代、大映撮影所と日活多摩川撮影所がありました。国際的に有名な監督や男優女優が華やかに行き交い、たくさんの名作が生み出されていました。当時映画は娯楽の王者。調布は西の京都・太秦と肩を並べ、「東洋のハリウッド」と呼ばれて名声をほしいままにしていました。
 
「調布フィルムフェスティバル」はその誇りをベースに、日本映画の振興を願って毎年すばらしいプログラムを組んで開催されているのですが、その年の番組の一つに「江戸写し絵」とあるのが目に付きました。

IMGP6879.JPG●左/「江戸写し絵」のチラシ
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●左/元「大映撮影所」、現在は「角川大映スタジオ
●右/映画全盛時代に活躍した映画人をたたえる碑  いずれも調布市


 「写し絵」とは、西洋でいうマジック・ランタン(幻灯機)による投影のことではないでしょうか。映画産業を支えてきた地元が、映画の原点ともいうべき幻灯を見せてくれるというのです。
 活弁つきの無声映画を初めて見せていただいたのも「調布フィルムフェスティバル」でした。以前から映画の歴史に興味を持っていた私は、「これは必見!」とワクワクしながら観に行きました。
 そこで私が見たものは、東南アジアの影絵芝居と大きく異なる、まさしく映画の起源そのものの技巧を駆使した、大迫力の大影絵でした。


※昔、無声映画を「活動写真」と呼んでいた頃には、スクリーンの脇で映画の場面を説明をしたり、登場する何人ものスターの声を一人で演じ分ける「弁士」という職業がありました。略して「活弁」。
 


●表現のために考えられた盛りだくさんのアイディア
 会場は市民ホール。そのステージの上に「江戸写し絵」の舞台が乗せられています。横4~5m、縦2mほどでしょうか。ちょうどシネマスコープのような横長のスクリーン。その裏で演じるのは平成玉川文楽さん率いる劇団民話座のみなさんです。(大きな会場では横14m×縦5m、演技のためのバックヤードは5mほどにもなるそうです)
 
非常灯も消されて場内が完全に暗くなると、いよいよ本来は動かない絵を動かしてみせる出し物が始まりました。

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●「江戸写し絵」の様子 催しのチラシより

 
まずは「両国の花火」です。真っ暗だったスクリーンに色とりどりの明かりを灯したたくさんの小船が漕ぎ出してきて、ゆらゆらと波間に揺れています。一そうの屋形船が大きく拡大されると、舟遊びの客が浮かれて踊っています。
 ドーンという太鼓の音と共にパッと上部に赤い光が映り、とどろきと共に火花が大きく広がったと思うと、もう一つ変わって見事なしだれ柳に。それが次から次へと繰り返されたあとは、今度は遠くの方にも打ち上げられる花火。そのあとは遠くと近くで「鍵屋」「玉屋」の打ち上げ競演となります。

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●「江戸写し絵」の種板の一部 数枚の絵を組み合わせて演者が動きを作り出す

 
次は「花物」と呼ばれるものです。スクリーンに盆栽が、ひとつ、ふたつ、みっつ…。どれもつぼみのままです。そこへチョウチョが登場します。こちらのつぼみからあちらのつぼみへとヒラヒラ舞い遊ぶ様は本物さながら。するとチョウに触れられたとたん、つぼみが次々と弾けるように変化して、赤、青、黄色と大輪の花を咲かせていくのです。(江戸時代、チョウは「花から花へ」ではなかったようです)

 
二番目はスクリーン中央にもみじの植木鉢。葉はみどりです。ところが春、夏、秋を表す背景の変化とともに、緑の葉はいつの間にか黄色に変わり、秋には真っ赤に変化しているではありませんか。それはカラフルで見事な光景です。場内は大喜び。拍手喝采です。

IMGP6873.JPG●「だるまの夜話」 催しのチラシより

 
次の出し物は「だるまの夜話」。これはちょっとした小話になっています。ある裕福なお屋敷の座敷。中央に床の間が設定されていて、ダルマを描いた掛軸がかかっています。その前でお膳のご馳走を食べている主人。やがて主人が出かけて居なくなりますと、なんと掛軸の中からポ~ンとダルマが飛び出してきたかと思うと、拍子に合わせて両手両足が現れます。
 早速主人が残したご馳走を食べ、お酒まで戴いたものですからすっかり上きげん。両手両足を交互に動かして、ヨッコラサ、ヤッコラサと踊りだすのですが、隣り部屋のおかみさんが異変に気づいてやってくる気配。ダルマはあわてふためいて、もう一度ポ~ンと掛け軸に飛び込み、何事もなく納まってチョン! これには観客一同大笑いでした。


●「江戸写し絵」本領発揮の「日高川」
 
圧巻は「日高川入相花王(ひだかがわ・いりあいざくら)」です。能や歌舞伎、文楽などで親しまれている、いわゆる安珍・清姫の物語。舞台は紀の国・和歌山県です。
 夫婦になるという約束を裏切った安珍を追い、復讐の鬼と化して日高川を押し渡った清姫が、道成寺の鐘の中に潜んだ安珍を、蛇身を振り絞って紅蓮の炎で焼き殺すという女の執念を描いた名作。そのハイライトである<渡し場の段>が、激しく打ち鳴らされる三味線の音色と説教節によって演じられます。

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●左/能「道成寺」 右/文楽「日高川」 平凡社「国民百科事典」より

 スクリーン中央には斜めに日高川の太い流れ。青く澄んだ流れが揺らめいて見えます。上手(スクリーンに向かって右)の川のふもとに渡し舟と客を待つ船頭。そこへ逃げてくる安珍。仔細を話し、何がしかの銭を手渡して船に乗り込むと、漕ぎ出す船頭。
 
船頭が棹を操り、小船は揺れながら進むと、対岸の遠くに現れる道成寺。船が着くと安珍は道成寺へ向かってまっしぐら。その姿が遠ざかって、寺の奥に消えます。

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●イメージ・道成寺 息せき切って逃げ込んだ安珍は、鐘の中に潜むが・・・

 
そしていよいよ上手に清姫登場。渡ろうと思えど船頭も船も見当たらない。「可愛さ余って憎さ百倍。この恨み晴らさで置くべきか~」…説教節の名調子がひときわ高まったかと思うと変身です。きれいな女の姿だった清姫はアッという間に髪を振り乱した蛇身に早変わり。ざんぶと逆巻く流れに身を躍らせて日高川を泳ぎ渡ります。

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●イメージ・鐘楼 恨みを込めた清姫の蛇身が発するすさまじい業火に包まれて… 

 対岸に着くといつの間にか川は消え、遠くの道成寺がスクリーン中央に位置しています。
蛇身の清姫が道成寺に向かって進むと、寺はぐんぐんと大きくなり、スクリーン中央は鐘楼に変わります。
 真ん中に置かれた大きな釣鐘。その中に安珍が潜んでいることを知った清姫。急を告げる三味線の音と共に激しく身震いしたかと思うと一挙に釣鐘に巻き付いた姿に変わり、更には全身から炎を発して鐘の中の安珍を焼き殺そうと、自らも身を焦がしながら身悶えながらのその形相の恐ろしいこと……。


IMGP6872.JPG●「江戸写し絵」のチラシより

 
影絵芝居でありながら、能、歌舞伎、文楽に勝るとも劣らない大迫力の舞台に大変感動して、この日は大満足で帰途に着いたのでした。

 
「江戸写し絵」の様子を観客席側から描写しているだけでページが尽きてしまいました。「江戸写し絵」はどのようにして演じられたのか、影絵スクリーンの裏側で何が行われていたのかについては次回に譲らせて頂きます。(この項、つづく)

★15年前に観たものですから記憶違いがあるかもしれませんが、映画前史という視点からのポイントは押さえたつもりです





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009 動かないものを動かすには・・・ [影を動かす試み]

009 動かないものを動かすには・・・
     静止画を動かす-1 アジアの影絵芝居

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●ジャワ島の影絵芝居「ワヤン・クリッ」

 
前回までは「映画」の基本要素である「投影」についてお話ししてきました。
 
投影は、最初は西洋において、外の景色を中に映し込む「カメラ・オブスキュラ」に始まりました。次にそれが応用されて、今度は逆に、書いた絵を外に映し出す「マジック・ランタン」つまり幻灯機へ。さらにはその応用である「ファンタスマゴリア」と呼ばれた幻灯ショーに発展しました。ここまでは、動かない絵を投影するものでした。

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●西洋で開発された投影装置「マジック・ランタン」 1671

  
ところが、幻灯を観た人はその絵が動くのを見たいと思いました。幻灯を見せていた人は、何とかして動かして見せたいと思いました。双方のこういった願望は、いわば人間の本能のようなものではないでしょうか。
  
同様なことは東洋にもいえます。実はアジアの人たちは、西洋で「マジック・ランタン」が発明されるよりもはるか昔に、やはり「投影」という手法で動かない絵を動かしていたのでした。
 


●絵が動くというより、人が動く、タイの「ナン・ヤイ」
  
私が映画史に興味を抱き始めた1990年11月。動かない絵を動かしてみせる最も原初的なものと思われる、タイ国の影絵芝居を観る機会がありました。
  「ナン・ヤイ(大きな皮/
大影絵)」と呼ばれるその影絵には、1枚の絵に水牛1頭分のなめし皮を使っているという文字通りの超ど級。それにまず圧倒されました。

  出し物はインドの有名な長編叙事詩「ラーマ・ヤーナ」
(タイではラーマ・キエン)を素材にしたものでしたが、なめし皮にはキャラクターと背景が一つの絵として、実に見事としか言いようが無いほど精緻に切り抜かれていて、そのまま芸術品と呼べる立派なものでした。

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●左/水牛1頭分のなめし皮でつくられたもの 2本の棒を両手で持つ
  右/操作棒が1本のものは、クルリと回転させ方向を変えることができる

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●「ナン・ヤイ」の演者たち 
 スクリーンの間近かの影絵はほぼ原寸大に映り、スクリーンから離れている影絵は大きく映る


  
本来は日が沈んで涼しくなった野外で行われるのでしょうが、その日の舞台は教室より一回り大きい程度の室内でした。その中央に、天井から床上1m程のところまで白い布が下げられていて、観客席とバックヤードをほぼ二分した形です。
  白布のバックヤードは大影絵を支えて動かす演者が往来するスペースです。その後ろに、ジャワ王宮で演奏される、小太鼓、両面太鼓、銅鑼、鉦(かね)など独特のガムランの楽器が置かれ、笛や木琴、弦楽器を受け持つ楽士たちと物語を歌い上げる唱者が座ります。

  上演に先立って、まず座頭はヴィシュヌ神とシヴァ神にローソクを捧げます。それはとりもなおさず、大影絵に描かれた人物に霊魂を吹き込み、命を授けるアニミズム(アニメーションの語源)の儀式に他なりません。
  
演者は大影絵に固定された2本の棒を両手で掲げるようにして、スクリーン布の前で音楽と語りに合わせて身体を揺らしながら往来するのですが、これはずいぶん骨が折れる動作だと思います。

  背景とキャラクターが1枚に描かれている場合はそれだけで一つのシーンを構成します。また、キャラクターだけがくり抜かれた絵を使う場合は、複数の登場人物とからむ動きが演じられました。動きは左右横移動の他に、影絵が大きくなったり小さくなったりという表現もありました。他には支える棒が1本しかないキャラクターがあって、それはクルリと180度向きを替えて演じる役割を担っています。つまり、右端まで歩いた人間がクルリと向きを変え、左に向かって歩き出すというような動きです。

  いずれにしても、音楽と歌唱に合わせて大影絵を掲げて動き回る演者の足腰の動作は、キャラクターの演技そのものでした。
 


●人が絵を動かすアジアの「影絵芝居」
  
アジアにおけるお話をもう一つ。インドネシアはジャワ島の「ワヤン・クリッ」という影絵芝居をご存知でしょう。起源は10世紀ころといわれるほど古くから連綿と続く伝統芸能だそうです。

IMGP6884.JPG●「ワヤン・クリッ」の一場面

  
人形の材料は「ナン・ヤイ」と同じく水牛の皮をなめしたもの。異なるところは1枚の絵ではなく、キャラクターの頭、両うで、両足がバラバラに作られていて、関節部分を紐でつないであることです。
  両手と首には細い棒が取り付けてあって、それを上下左右に操ることによって、話している、歩く、走るなどいろいろな動きを人形に与えることができます。それだけで「ワヤン・クリッ」は「ナン・ヤイ」よりもはるかに進んだ表現力を持つ進化した影絵だということが分かります。

  けれども両方に共通なものがあります。それは、動かない絵を、人が
操ることによって生命を与えようとしたところです。それがアジアの影絵芝居の特徴だと思います。このあたりが、絵を動かすために仕掛けや機械を考えようとする西欧と異なる点で、いかにも東洋的な発想だと思います。

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●「ワヤン・クリッ」のバックヤード スクリーンの向こうが観客席
 手前はガムラン音楽を演奏する楽士と女性唱者たち

 
 夜になると、椰子の樹の間に張られた大きな白い布の前に大勢の観客が集まります。スクリーンにあたる布の後ろには、影絵人形を操る演者たちと唱者、楽士さんたちが控えている広いバックヤードが設定されているのは「ナン・ヤイ」の場合と同じです。
  また、「ワヤン・クリッ」の演目の多くもインドから伝わった「マハーバーラタ」や「ラーマ・ヤーナ」などで、現地の人たちの誰もが知っている神様や英雄の物語です。

  
ガムラン音楽が鳴り響くと、影絵の演者は自分が担当するキャラクターの台詞を唱えながら人形を操るのですが、頭や両手両足を動かすためには演者の表現力に高い力量が要求されます。彼らは全身を使って人形に生気を吹き込みます。それは演者の顔が見えないというだけで、まさに生身のライブショーといった趣です。 

IMGP6883.JPG中国の彩色影絵 材料はロバの皮

  
こういったたぐいの影絵芝居は、インド、マレーシア、中国などでも見られるということなのですが、昔の日本でこの方式の影絵芝居はあまり聞きません。他の色々な文化のように、大陸から伝わったことは十分考えられますが、どうやら日本の影絵は、ある意味で独特な方式が考えだされたようなのです。
                       
(この項、つづく)

●「ナン・ヤイ」の写真はアジア民族造形文化研究所発行のカタログより
●他は平凡社「国民百科事典」より













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008 「恐怖の館」へ ようこそ! [影を動かす試み]

008 亡霊が信じられていた時代の「恐怖の館」
それは「投影」から始まった-2
ファンタスマゴリーとファンタスマゴリア

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フランス革命を描いた絵画  ベルサイユ宮美術館蔵

   
前回の「カメラ・オブスキュラ」は外の景色を内側に投影して絵を描く装置でしたが、17世紀に入ると逆転の発想で、描いた絵を外に投影しようと考えた人が出てきました。それが前回の終わりに登場したドイツのアタナシウス・キルヒャーでした。

  
彼が1671年に発表した「マジック・ランタン」はいわば改良型というべきものでした。灯油ランプを光源として、ガラス板に描かれた絵をレンズを通して壁に映し出す仕組みは変わりませんでしたが、油の純度、ガラスの平面性、透明度、丈夫さなどの精度が向上していた上、それまで単コマだったものからガラス絵を8枚連ねて横にスライドさせる方式が考案されていました。つまり、物語性のある幻灯が誕生したのでした。

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●1671年の新型マジックランタンと発明者アタナシウス・キルヒャー

●恐怖の世界へようこそ
  
この、物語を語れる「マジックランタン」にヒントを得て、この投影装置の特長を最大限に発揮させたら、みんなをアッと言わせるほどすごいことができるぞ! そう読んで、「マジック・ランタン」を自分の事業に採り入れた人がおりました。実験家で芸人でもあり自ら興行師としても活動していたロバートソン(本名エチエンヌ・ガスパール・ロベール)というベルギー人です。

  彼の構想はなんと、何台もの「マジックランタン」を使って、いろいろな物にいろいろな角度から投影する、という破天荒で奇想天外なものでした。なんと柔軟な発想でしょう。
 当然スケールも大きくなり、操作は一人では無理で、複数の要員が必要だったでしょう。これは一つのイリュージョン・システムと呼べるものであり、
彼はこれを「ファンタスコープ」と呼んでいたようです。

  ロバートソンは、この「ファンタスコープ」を使い、光と影を巧みに利用した招霊術や怪奇な物語を作って「ファンタスマゴリー」…つまり「魔術幻灯」と銘打った見世物を始めたところ、これが千客万来の大当たり。
  自国での人気に自信を得た彼は、更なる成功を目指して構想を練り、胸に一物・手に荷物。満を持してその装置一式を携えて、勇躍パリにやってきます。時は1797年。
  パリの巷は、それより
8年前、1789年7月に起こったバスチーユ牢獄の占拠を端緒とするあの血塗られたフランス革命はいまだ終結を見ず、ナポレオンの登場によってようやく納まりかけている頃でした。

バスティーユ.jpg●左奥がバスチーユ牢獄

  
さて、フランス革命といえばルイ16世。ルイ16世といえばマリー・アントワネット。その二人が国外逃亡を図って捕らえられ、恐怖政治の象徴ともいうべき断頭台(ギロチン)の露と消えたのは1793年ですから、それからまだ4年しか経っていないというパリ。その地元でロバートソンは、フランス革命をテーマにした見世物を展開しようというのです。
  十分に計算され周到に演出されたロバートソンの「ファンタスマゴリー」は、凄惨な記憶もまだ覚めやらないパリ市民を、再び恐怖のどん底に陥れることになるのです。

ルイ16世-2.JPG マリー・アントワネット.JPG
●ルイ16世                ●王妃 マリー・アントワネット


●光と影、視覚と聴覚を揺るがす壮大なイリュージョン
  
ロバートソンの「ファンタスマゴリー」は、光と影の演出が巧みであったばかりでなく、現在のアトラクティブなイベントに欠かせない入場者を喜ばせるサービス精神、・・・彼の場合は恐怖に震え上がらせるための環境設定ですが、それが実に巧妙に織り込まれていたのでした。

  彼が目をつけた会場はうらさびれた修道院の聖堂でした。そこを借り切って行われた興行は多分夜だったはず。そこで彼が観客に見せたもの、それはフランス革命の立役者たちの悲劇と人間の命のはかなさでした。

  
フランス革命の経緯をパリ市民に改めて説く必要はありません。ロバートソンはストーリーを追って見せるのではなく、視覚とおそらく聴覚にも訴えかける一大スペクタクルショーに仕立て上げて展開して見せたのでした。

P1100337-3.JPG●どこかで見たような時代がかった墓地

●今はなじみのお化け屋敷も、当時の観客は大パニック
  
まず観客は、古い墓石をぬって続く細道を通って聖堂に導かれます。道はいつの間にか洞穴を通り、到着した大部屋にはランプの明かりに照らされたたくさんのどくろが・・・。

 
  不穏なドラムが鳴り響き、煙の柱が何本も吹き上がったかと思うと、赤い光が煙を染めて炎上のシーンです。観客はそれがまだ記憶に新しい革命の様子であることを思い起こします。突如ランプの明かりが消えて、あたりは真っ暗闇。ハッと思う間もなくいきなり正面の暗闇に浮き上がったのは、なんと、すでにこの世を去ったはずの皇帝ルイ
16世ではありませんか。続いて隣りに現れたのは、これも今は亡きマリー・アントワネットの姿。「おおっ」と思う間もなく、突如砲弾の炸裂音。すると観客席の両サイドに次々と浮かび上がったのは革命の指導者ダントン、マラー。対するはロベスピエール、そしてマラーを暗殺した女性コルデー。革命の立役者たちですが、共通していることは、最後はすべてギロチンにより非業の死を迎えたこと。

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●ロバートソンのファンタスマゴリー 1831年の「回想録」より

ロベスピエール.JPG処刑台に送られるダントンb.JPG
●ロベスピエール           ●ダントン

IMGP6848.JPG処刑執行人を処刑するロベスピエールP1100535.JPG
●左/マラーを暗殺したコルデー
 右/ギロチン(断頭台)で処刑執行人を処刑するロベスピエール

  重々しい
音楽の高まりと共に、1基、2基……観客の眼前に次々と大きくせり上がって来たのは陰惨な処刑の光景を思い起こさせるギロチンの影です。そのギロチンが落ちる大音響と共に目の前の人物が次々と消えたかと思うと、場内は再び真っ暗闇。と思ったら場内のあちこちでもくもくと立ち上る煙。観客が目を凝らすと、そこに現れたのは亡霊たちです。その中には共に亡霊となって空中をさ迷う6人の姿も。そして驚いたことに、その亡霊たちはあたかも霊界をさ迷うかのように、右に左に揺れているではありませんか。恐れおののきながら怖いもの見たさに目を凝らす観衆。その頭上に、なんと今度は亡霊たちが次々と覆いかぶさってきたのです。(講釈師、見てきたような嘘をつき)

 
 聖堂で演じられている上の絵は、のちの1831年にロバートソンが著した「回想録」に載っているものですが、観客の中には、恐怖の叫びを上げるもの、剣を抜いて果敢に亡霊に挑もうとするもの、悪魔を畏れてひざまずくものなど、「ファンタスマゴリー」の迫力に驚愕するパリ市民の姿が実に臨場感豊かに描かれております。多少の誇張はあるかもしれませんが、「ファンタスマゴリー」が娯楽の域を超えていたことは確かのようです。

IMGP6801d.JPG●観客驚愕の図
ファンタスマゴリー.JPG
●「金持ちも、どんなに偉い人間も、すべからく最後はこうなるのだ!」 おお、こわ!

  
そして最後に、ロバートソンが伝えたかったこのショーのテーマが、正面のステージに映し出されます。「私たちを待ち受けている逃れられない運命」、すなわち人間のなれの果ての姿……それを象徴するのは骸骨です。敵も味方も、大成した人物も、豪奢を極めた人物も、最後はすべからく骸骨と化して冥界をさ迷い続けるのである、という宗教観。ロバートソンはそれを、当時のニューメディアであった「マジック・ランタン」を駆使して、極めて具体的に説いて見せたのでした。

●ファンタスマゴリーは初期視覚トリックの集大成
  
「ファンタスマゴリー」はもうお見通しのように、紗のスクリーンや煙を場内のあちこちに設定して、複数の幻灯機を使って映写していました。ですから、順に登場させたり、いっせいに出現させたり、「ここと思えば、またあちら」というような演出もあったと思います。またスクリーンの後ろから映写したので、観客には「ファンタスコープ」(幻灯機)の存在が分かりませんでした。

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図  1.jpgファンタスマゴリー2.JPG
●上2枚/重ね合わせた紗を蝋に浸して透明度を得たものに投影
       普段は暗幕で隠しておき、投影時に暗幕を引く
       ガラススライドは亡霊の絵以外は黒く塗りつぶしてあるので、空中に浮かんで見える
 下/リア・スクリーン方式による投影 観客には目前に亡霊が現れたように見える


 そして特筆すべきは、幻灯機を車の付いた移動台に乗せて前進・後退させたことです。前進すればスクリーンの画像は次第に小さくなり、後退すれば次第に大きくなります。映画で言うズーミングの効果が早くも考えられていることです。

 
「ファンタスマゴリー」は、入場前の期待感を高揚させる演出も含めて、200年以上も前に、スモーク・スクリーン、マルチイメージ・プロジェクション、リア・スクリーン方式といった光と影を操る新技術を編み出したばかりでなく、現在の映画やテーマパークのアトラクションにも大きな啓示を与えるほどのアイディア溢れるステージを演出して見せたのでした。

 なお、革命の喚声やギロチンの落ちる音、音楽などについては、これほどの視覚効果を演出したロバートソンのことですから無音であったはずはありません。おそらくステージの背後に演者を配置していたのではないかという、これは私の推測です。
 また、今日の「映画」では実際にあった歴史上の事件を題材にした作品が数多くつくられていますが、ロバートソンの「ファンタスマゴリー」によるフランス革命の出し物はその嚆矢と見ることができるのではないでしょうか。



ファンタスマゴリーとファンタスマゴリア
  
「ファンタスマゴリー」はパリで6年間も人気を博していたそうですが、ご多分に漏れず、その間に亜流が発生してきました。中には「元祖ファンタスマゴリー」を名乗るふらちな輩まで現れる始末でした。
  
するとロバートソンに傾倒し、賛辞を送るマジシャンがロンドンに現れました。彼の名はポール・ド・フィリップスタール。彼は自分のショーをロバートソンに敬意を払って「ファンタスマゴリア」と呼びました。「ファンタスマゴリア」は彼によって、1800年代に入ったばかりのアメリカの主要都市で次々と上演され、大好評を博したのでした。


 
「投影」について、今回は「動かない絵をそのまま投影」していた事例をお話しました。この技法はやがて、動かない絵を動いているように見せかけて投影する技術に発展していきます。
次回はそのあたりを。



 








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007 3Dを2Dに変換する最初のマジック [「映画」が成り立つためには]

007 3Dを2Dに変換する最初のマジック
それは「投影」から始まった①
カメラ・オブスキュラからマジック・ランタンへ

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●chaos

 ようやく「映画前史」についてお話しする段階になりました。
 
映画前史とはつまり映画史以前のことですが、前回に記した通り、映画はいろいろな分野における発明が蓄積され、やがてそれぞれの相関関係が発見されることによって異なる分野の技術が縄のようによられて実現したものと言えます。

 
従って長期的に多岐にわたる発明発見をただ年代順に並べてみてもそれらの関係は見えてこなくて錯綜するだけですから、ここでは映画の要素別に展望してみたいと思います。
 
まず、映画の映画たるゆえんである「投影」についての歴史を紐解いてみることにしましょう。


●特定の人種は「投影」の心理的効果を知っていた
 
「光と影」が意識されたときから映像の概念が生まれました。ものを映し出す映像。それは光と影によるまぼろしです。まぼろしを操る訳ですから、それはどこか妖しげなところから始まりました。
 
 
古代において、光と影をつかさどるのは魔術師や預言者の役割でした。アーサー王伝説に登場する魔法使いマーリンも、シェークスピアの「マクベス」に描かれた三人の魔女たちも、火は決して煮炊きするためではなく、特別な妖術を行う場合に使いました。

 
中世においてのそれは教会に仕える聖職者の領分でした。18世紀には降霊術師(スピリチュアリスト)が加わり、19世紀には、有名な奇術師(マジシャン)たちが自分の舞台効果を増大させるために積極的に光と影を操作する装置を採り入れようとしました。

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いずれの場合も、光と影を操作すれば、何も無いところから何かを現して見せたり、目の前に見えていたものをアッという間にかき消して見せたり、実際のものより桁外れに大きく見せたりといったトリックが可能です。彼らはそれが科学的な現象であることを知っていました。

 ところが一般大衆は科学など知りません。目で見たものをそのまま信じてしまいます。そこで彼らはそうした科学に疎い人たちにまぼろしを見せ、心理的効果をあおって自分たちの目的を達しようとしました。そのために、最初は動かない絵だったものを、いろいろな工夫を凝らして動いて見えるように見せる研究を重ねて、視覚効果を増幅させていきました。


●三次元(立体)の事象を二次元(平面)に記録する手法の発見
 
「投影」の古い記述は1544年の「カメラ・オブスキュラ」です。ラテン語で「暗い部屋」と名づけられたその装置は、外の景色を小さい穴を通して壁面に投影するものでした。現在のカメラの語源は16世紀にさかのぼることになります。

 映画史に興味を覚えてからその図解を見たとき、「ああ、やはりこれが映画の原点なんだ」と大変感激したものでした。その図には私が小学校に上がる前、雨戸の小さな節穴を通して対面の白壁に写った外の景色に不思議を覚えたことと同じ現象が描かれていたのでした。
★関連記事 http://fcm.blog.so-net.ne.jp/2008-02-19

 
カメラ・オブスキュラ」の原理は、紀元前のアリストテレスがすでに触れているほど大昔から分かっていた現象でした。紀元後にはピンホールカメラの原理で日食を観測する要領が説かれたり、いろいろな科学者が太陽の観測や光学的実験などに利用していたようです。
  レンズは14世紀後半には
すでに眼鏡やルーペとして実用化されていましたから、世界初とされる1544年の図解にある「カメラ・オブスキュラ」には、レンズが付いていたと想定されます。
  

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●世界初とされるカメラ・オブスキュラの図解 1544

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●アタナシウス・キルヒャーによる「カメラ・オブスキュラ」 1646
  レンズを経て壁面の紙に投影された風景をなぞって模写した。

  
15世紀に入ると「文芸復興」と呼ぶルネッサンスの真っ只中で、画家が自然の風景をそのままに描写するための手段として、かなり大仕掛けな装置で絵画が制作されるようになりました。投影された風景を羽根ペンや鉛筆でなぞって下絵を描いていた訳です。これは実景である三次元空間を平らな紙、つまり二次元の空間に置き換える遠近法の描画技法を生み出します。

 カメラ・オブスキュラ」とは、とりもなおさず、3D(立体)の実景を2D(平面)に変換する装置と言うことができます。太古には洞窟の岩肌に描かれた絵が、この手法により、現実の情景をそのまま縮小した形で、持ち運んだり、机上で見ることができるようになった訳です。

  
このテクニックは、
学校や家庭でも広く風景の写生に使われた上、その現象の不思議を娯楽として楽しむことなどもあったようです。 これは写真の原型が16世紀にすでに芽生えていたことを物語っているといえるでしょう。

アテナイの学堂 ラファエロ.jpg
●代表的な遠近法の絵画 ラファエロ「アテナイの学堂」1509-1510 wikipediaより

IMGP6797.JPG●お絵かき教室、かな?

 カメラ・オブスキュラ」というと1646年にローマで「光と影の偉大なる芸術」を出版したドイツの学僧、アタナシウス・キルヒャーが有名です。けれども、実はそれより先にレオナルド・ダ・ビンチも透視図法などに利用したらしく、スケッチが残されているところからカメラ・オブスキュラ」の元祖はダ・ビンチという説もあるようです。 

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●左上/レオナルド・ダ・ビンチ 1452~1519 自画像
 右上/ダ・ビンチによる「ガラス透写機」のスケッチ 1500
 下  /ダ・ビンチが遠近法でリアルに描いた「受胎告知」 1472-73


●一方は写真機へ。一方は映画へ
  
さて、レンズを擁しシャープな画像を映し出す光学装置カメラ・オブスキュラ」は、16世紀以降、二つの方向に向かうことになります。
  一方は映画を上映する「映写機」の完成に向かって。つまり画像のアウトプットです。もう一方は現在のカメラの語源通り、「写真機」の完成に向かって。つまり外景のインプットてす。期せずして「逆転の発想」が行われる訳ですが、さすがに両輪がいっしょに回り始めた訳ではありませんでした。

  まずは
1645年。のちの映写機の原型となるものが「光と影の偉大なる技術」という書物の中で発表されました。その名は「マジック・ランタン」。分かりやすく言うと幻灯機です。この「マジック・ランタン」を発明したのもアタナシウス・キルヒャーでした。

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●アタナシウス
・キルヒャー           初期のマジック・ランタン

  キルヒャーはドイツのイエズス会の学僧と言う立場から、「マジック・ランタン」を布教に活用しようと考えたようです。初期の「マジック・ランタン」は、薄いガラス板に神や骸骨を描いた単駒スライドだったようですが、1671年の改良型「マジック・ランタン」の図を見ると、8枚の絵が描かれた横長のスライド方式になっています。
  これは明らかに物語に添って1駒ずつ場面転換しながら上映したものです。私たちはそこに、映画の原点が物事を語り伝えるためのメディアとしての方向性を持っていたことを知ることができます。

  この「マジック・ランタン」の登場が、映写機の進化と絵を動かすという映画の本筋につながってくるのですが、それはまだまだ先のこと。
   「マジック・ランタン」は電灯が発明される前の暗闇に咲くあだ花。摩訶不思議なイリュージョンの世界。しばらくの間は光と影に踊らされる妖やかしの世界が繰り広げられることになるのです。


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●キルヒャーが1671年に「光と影の偉大なる芸術 Ⅱ」で著した改良型マジック・ランタン
 ガラスに書いた8枚の絵を連続して投影できるように工夫されている

                                                          
                             
  (この項、つづく)






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006 映画誕生までの遠い遠い道のり [「映画」が成り立つためには]

006 「光と影」を動かすために 
   
映画誕生までの遠い遠い道のり
 

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●映画誕生前夜、1872年のニューヨークの様子 街灯はガス灯


●「映画前史」に入る前に
 
映画とはイリュージョン。光と影によって創り出される芸術です。それを、文学、絵画、彫刻、建築、音楽、舞踊、演劇に次ぐ第八の芸術と呼ぶ人もおります。
 
映画の誕生に直接・間接に影響を及ぼした発明・発見の数々は、古くは紀元前の歴史書にまで遡ることになります。映画誕生に至るまでにはそれ程古くからの遠い道のりがあります。そしてそれは光学だけに留まらず、化学や機械工学、はては心理学にいたるまで、幅広い分野にわたっている。そのあたりが私にとっては大いに興味を触発されたところでした。

 さて今回は、映画誕生の前提となるいろいろな要素について、それぞれがどのように映画のために洗練され、組み立てられていったかという大筋の流れをたどってみることにしましょう。


●映画誕生に至る4つの流れ
 
映画はご承知のように、本来動かないはずの絵を機械的に動かして見せるものです。基本は仕掛けであり、カラクリともいえます。そしてそれらが「映画」を完成させるために必要な流れは大きく4つあると考えます。これらはこの順に進められたものではなく、相互にクロスオーバーしながら並行して開発されたものです。

①画像を定着させるためのメディアの進化 紙からセルロイドフィルムへ
写真の発明と写真技術の進化      湿版写真から乾版写真へ
③写真を動かして見せる機構の進化    フィルム間欠給送の手法
④上映のための光源の進化        油からアークランプへ         

図1-2.JPG
●映画成立
の概念図
  ※「動力」は、小型モーターが実用化される1920年代初頭までは手回しだった。

①「メディア」・・・紙からフィルムへ
 
ひとつは「メディア」です。この場合は「原版」と呼んでもいいかと思います。人は昔から絵を書くことを知っていました。紀元105年、中国で蔡倫によって紙をすく技術が発明された後、人は書画を紙に描くようになりました。
 日本では絵巻物を開くに連れていろいろな動物たちが生き生きと活動している姿が現れる鳥羽僧正の「鳥獣戯画」(12世紀末・平安時代)をアニメの元祖と見る研究家もおります。
 
またそれよりも古く、飛鳥時代の法隆寺に伝わる玉虫厨子に描かれた「捨身飼虎図(しゃしんしこず)」(7世紀半)、これは崖下の飢えた虎のためにわが身を投ずる釈迦の落下のポーズが、厨子の一面に3つの連続した動作で描かれているものですが、これこそアニメの元祖、動画の源と見る人もおります。

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●左/玉虫厨子の側面に描かれている「捨身飼虎図」
 岩の上から身を躍らせて落下し、虎にわが身を与える様子が連続して描かれている。
 右/「鳥獣戯画」の一部 右には水浴しているウサギも動感たっぷりに。

 
それからずっと下って17世紀に「幻灯」が登場しますが、最初の「種板(たねいた)」と呼ばれたメディアは紙から出発しました。透明度を出すために蝋に浸したパラフィン紙を使ったり、薄い雲母を使ったり、ゼラチンを薄く延ばしたものを使ったり、いろいろと考えられたようです。
 ただ、これらは絵を動かすためには用をなさず、やがて登場するガラスが写真の発明と結びついてから、動く写真の研究に拍車がかかりました。

 けれども、ガラスに定着された写真を動かすには予想以上の困難が伴いました。どんなにがんばっても仕掛けの域を出ることができなくて、映画と呼ばれるものになるためには、柔軟で透明な「フィルム」の発明を待たなくてはなりませんでした。そのフィルムも最初は紙に感光剤を塗ったものでした。
 

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●幻灯機 光源の油の熱と煙を逃がすために高い煙突が付いている。

②「写真術」・・・湿板写真から乾板写真へ
 
二つ目の流れは「写真術」です。写真は1839年にダゲールによって初めて実用化されましたが、この「ダゲレオタイプ」はガラスに定着された銀盤写真で、ネガが無いため複製が作れず、もっぱら肖像写真などに使われていたようです。

 
1851年には湿板写真が考案されましたが、これも感光するまで長時間かかるため、頭をクランプで固定して肖像写真を撮影しなければならないという代物で、1秒間に何コマも撮影しなければならない映画には使えません。

 
結局1871年にハロゲン化銀を使った現在の写真の原型ともいえる乾板写真が考えられて、100分の1秒という高速シャッターが可能となりました。
 この乾板写真の発明が、柔軟で透明なセルロイド(硝酸セルロース)のフィルムと結びつき、写真を動かす仕掛けが求める条件に一歩近づいたのでした。

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●左/ニセフォール・ニエプスによる世界初と呼ばれる写真 1826年
   感光性アスファルトを塗ったスズ板に8時間もかけて露光させたといわれる。
 右/1860年代のリンカーン名刺写真 写真を名刺代わりに配ることが流行していた


③「機構」・・・静止画から動画へ
 
三つ目の流れは「機構」、つまり写真を動かすための仕掛けです。
 初めは「幻灯」のような動かない絵や写真でしたが、それを動かして見せたのは工学的な機構でした。それは残像現象を利用した一種の錯視を生むための装置ですが、映画の開発が本格的に進められた19世紀後半では当然、1コマの写真が1瞬間ずつスクリーンに留まることによってフィルムに連続して記録された写真が動いて見えるという「間欠運動」の原理は分かっていました。

 けれども、ガラス板の写真でどうすればその「間欠運動」と呼ばれる仕組みを作れるかということで大変な模索が繰り返されていたようです。その問題に最終的な解決策を与えたのも、連続写真を帯状に記録できるフィルムの発明によってでした。

 
なお最近の認知心理学では、写真が動いて見えるメカニズムは残像によるものではなく、脳の中に動きだけを感知する部分があり、物が動くとその向きを知覚するネットワークが働いて動きが見えるのだと定義して、「仮現運動」と呼んでいるようです。

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●左/画面が正方形で幅広の紙フィルム 1889年 

 右/フィルム間欠送り機構の図    1898年  


④「光源」・・・灯油ランプからキセノンランプへ
 
四つ目の流れは「光源」です。
 
映画がスクリーンへの上映という最終目的のために製作されるとすれば、映写機の光源の能力はとても大事な要素です。
 
映画以前の「幻灯」の時代には、油に火を点したランプが使われていましたが、1870年に電気が発明されると光源は電球に変わりました。その一方では、19世紀半ばに実用化されたアーク灯(アークランプ)も使われました。

 20世紀に入ると、1920年代にはライムライト(石灰光)が使われていたこともありましたが、映画産業が発達するに連れ上映する劇場も大きくなると、プラスとマイナスの電極につないだ2本の炭素棒(カーボン)をスパークさせるアークランプが開発されました。

 第二次大戦後は、特に1950年代あたりからカラー・大型映画の登場に対応するために、より強力な光源と演色効果を生むカーボンの開発が進み、性能が飛躍的に向上。このアークランプによる映画上映の期間がいちばん長期間に及びますが、
1960年以降はアークランプと並行して、次第により明るくて安定した光を発するキセノンランプに変わりました。
 ここでも映画は、多方面の技術革新に支えられて進化してきた姿を見ることができます。 

IMGP0260-2.JPG
●アークランプ
を光源にした35ミリ映写機

 
映画を形づくる根源は、古くは紀元前に端を発するものでした。それが「映画」として完成するには、あまりにも多くの分野の英知を必要としました。19世紀になってようやくそれぞれの分野の研究成果が顕著になって、それらがクロスオーバーして急激な技術革新が起こりました。それが映画の開発に拍車を掛け、「映画」は20世紀を目前にして一挙に実を結びました。
 それまではそれぞれがてんでに研究開発を行っていたために横の連携がなく、それだけ映画の誕生にはずいぶん余計な時間が掛かってしまったという感じがしないでもありません。

 
とにかくこれで映画誕生以前のおおまかな要素はまとまりました。次回からは「映画前史」をもう少し細かく見ていくことにしたいと思います。


★前回の写真クイズの答えです。
P1050114-2.JPG P1050114-22.JPG
  
答えは ビビアン・リー(1913~1967)
1930年代後半から60年代前半にかけての「絶世の美女」。
「風と共に去りぬ」(1939)、「哀愁」(1940)、「欲望という名の電車」(1951)など、話題作多数。












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