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021 お堅いのはダメ。柔軟でなくっちゃ。 [写真を動かす試み]

021 〈動く写真〉こそ、人の「分身」に迫るもの。 

        アンシュッツ / グリーン / ドゥメニ

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●19世紀末。ジャン・ペロー描く、ブーローニュの森のセレブたち  馬を自転車に乗り換えて… 

〈動く写真〉を実現させるには、連続する被写体の動きをレンズの前で一瞬、停止させなければならない。前にお話したマイブリッジやマレー、それに今回お話しする三人も、「間欠運動」の仕組みを考えるとき、例外なく突き当たっていた機構上の壁…それは写真を定着させるメディア(媒体)がガラスだということでした。
  〈動く写真〉の開発者たちは、誰もがガラスと同じ透明度を備え、しかもしなやかで丈夫なものが必要であることが分かってきました。その発明もあと一歩というところまで来ていましたが、開発者たちはそれを待てずに、依然としてガラスやゼラチン、はては丈夫な紙を用いて
研究を続けていたのでした。

●ドイツ  オットマール・アンシュッツ
   19世紀の終わりも近い1880年代。欧米で鳥の飛翔を分析しようとしたのはエチエンヌ・マレーに留まりません。走る馬を撮影したエドワード・マイブリッジはもちろん、ベルリンの写真家で科学者でもあったオットマール・アンシュッツもその例外ではありませんでした。彼もやはり鳥の飛翔を撮影するために高速シャッターの必要性を感じていました。

エティエンヌ・マレー.pngマイブリッジ.JPG IMGP7708.JPG
●マレー        ●マイブリッジ     ●マイブリッジの「ゾーアプラクシスコープ」

オットマール・アンシュッツ 3 .gif●オットマール・アンシュッツ

  アンシュッツは、1888(M21)年にフォーカルプレーンシャッターを発明したことで有名です。このシャッターの仕組みがのちにスチルカメラの機構に大きく寄与するのですが、彼が1885(M18)年に公開した「エレクトリック・タキスコープ」と呼ぶ動画装置では、まだシャッターの重要性をそれほど重く見ていなかった節があります。

  
「タキスコープ」はマイブリッジの「ゾーアプラクシスコープ」1880(M13)
にヒントを得て、大型の円盤に24枚のゼラチン乾板による写真を配置したもので、彼が撮影した動物や鳥などの連続写真がはめ込まれていました。
★マイブリッジの関連記事 http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/2009-07-20


アンシュッツのタキスコープ1895.jpg
●アンシュッツの「エレクトリック・タキスコープ」1885
 観客は上の窓の向こう側から観覧する

 
それぞれの写真の下には金属製のピンが植えられていて、電極に接するようになっています。つまり、手動ハンドルで円盤を回転させると、ピンが電極に接した瞬間、ガイスラー管が光り、その連続で写真が動いて見えるという仕掛けでした。絵の送りと光の点滅とを連動させて、間欠運動に似せた働きを作り出した訳です。
 所詮は円盤ですから、同じ動きがエンドレスで繰り返されるだけでしたが、〈動く写真〉に初めて接する人たちには珍しく、「ラピッド・ビューアー」とも呼ぶこの装置を用いた興業は、あちこちで人気を呼びました。
ガイスラー管/1857年、ガイスラーが発明した高圧放電管。蛍光管の元祖

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●ガイスラー管高電圧装置の公開実験 1894

1894 IMG_3327_R-2.JPG  1894 IMG_3332_R-2.JPG
●1894年に覗き見方式に改造されたアンシュッツの「シュネルゼア」。左の凸部が覗き窓。
  写真2点は映写機研究家・永吉洋介氏提供


●イギリス  
ウィリアム・フリーズ・グリーン

イギリスでは写真家で発明家のグリーンが「動く写真」の先鋒でした。1884(M17)年、彼は幻灯機を動画用に改良することを思いつき、7枚の連続写真を動かす方法を考えました。これには初歩的なシャッターが付いていましたが、たった7枚の絵では大した動きは作れません。

  彼はその限界がガラス板にあることに気づくと、もっと柔軟な帯状の材質に写真を写し込めないものかと考えました。彼の頭の中にはすでに、平らな円盤に写真をはめてエンドレスで同じ動きを繰り返す、というような動画ではなく、お話として見せたいという構想があったのでしょう。
  そのためには何が何でも継続する長い帯のようなメディア(媒体)が必要でした。
「円」ではなく、「直線」という発想です。それはとりもなおさず、「時間」という見えないものを「帯」に記録することによって可視化させるという、当時としては先端的な発想でした。

グリーン.JPG●ウィリアム・フリーズ・グリーン

そこで彼は、オイルに浸した半透明の紙テープに感光剤を塗ったペーパーフィルムを使う撮影機を完成させました。彼は毎秒10枚ほどのスピードで撮影することを考えていたのですが、フィルムの幅が広かったのでうまく平均的に送れません。

  その問題を解消するために、彼は、フィルム送りを担う丸棒(ドラム)の両サイドに一定間隔の突起を付け、ペーパーフィルムの両サイドにはその突起に見合う位置に穴を開けて噛み合わせることを考えました。これによってフィルムはスムースに送られることとなりました。これが後にパーフォレーションと呼ばれるものです。セルロイドのフィルムが登場したのはちょうどその頃で、グリーンが早速それを採用したことはいうまでもありません。

  1889(M22)年に特許を取得した彼のカメラには、1コマにつき1回転するシャッターと、それに連動して1コマずつ間欠的にフィルムを送る機構が組み込まれていました。もちろん手回しですが、これらのメカニズムは今日でも映画用カメラと映写機に必須の機構となっているものです。彼はこれを「マシン・カメラ」と呼びました。

Fグリーン.JPG グリーン3.JPG
●フリーズ・グリーンの「マシン・カメラ」 の撮影機部と パーフォレーション付きフィルム

  「マシン・カメラ」は、カメラであると同時に映写機としても使えるように設計されていました。つまり、撮影する時はフィルムを入れて裏ぶたを閉めた密閉状態で行い、上映する時は裏ぶたを開けたまま現像後のフィルムを掛け、その後ろに光源を置くことで投影することができたのです。撮影機兼映写機という合理的なこの方式は、後発の開発者たちに受け継がれていくことになります。

  彼は1890年6月に開かれたイギリス連合王国写真大会の会議の席でこのカメラを披露する準備を整えていたのですが、残念ながら会議に向かう途中で何らかのトラブルが起き、壊れたカメラとフィルムを提示できただけで、上映に至らなかったようです。

写真を動かすという「映画」の技術的な基本機構を考え出したフリーズ・グリーン。驚くべきことに、彼はこの他にも立体映画を撮影するカメラを開発したり、天然色写真の研究で特許を取ったりしているのです。そんな彼のことですから、写真がうまく動けば音声を付けたいということは当然の考えでした。
  現実の風景、人物、物体、事象はすべて色彩を備え、音声を持ち、立体で示されてこそ……それは彼が、どうすれば〈動く写真〉を現実そのままに見せることができるか、という視点を持っていたということに他なりません。
  それはまた、まだ誕生もおぼつかない「映画」というものの未来についてのとてつもない先見性を物語るものであり、更に映画誕生後の人々の願望を予言したものと言えるでしょう。

  こうした事実を以ってイギリスでは、フリーズ・グリーンを映画の発明者とみる人たちが多いそうです。けれども彼は、他の多くの研究者、開発者の例にもれず、その功績や特許を利益に結びつける商才には乏しかったらしく、晩年は私財のほとんどを研究に投入し尽くして、寂しい人生を送ったと伝えられています。

グリーン 立体鏡映画カメラ.JPG グリーン5.JPG
●フリーズ・グリーンの立体映画撮影装置 と そのフィルム

P1050547フリーズ・グリーン (2).JPG
●フリーズ・グリーンが開発した〈動く写真〉の装置  1890年代のものと思われる


●フランス ジョルジュ・ドゥメニ

  ジョルジュ・ドゥメニは、兄を通してアルチュール・ランボーと面識がある俊才で、前回お話したエチエンヌ・マレーの教え子でした。その優秀さを買われ、マレーが1882年に生理学研究所を設立した際に、研究のパートナーとして迎えられました。当時ドゥメニは40歳。マレーとは20歳離れていましたが、先に述べた固定乾板式「クロノフォトグラフ」の開発や生理学研究所で行われた大規模な撮影装置の開発・実験などで功績をあげ、今また次の段階の「クロノフォトグラフ」…フィルムを使用するための…の完成に向けて、マレーと研究を続けていました。

ドゥメニ.JPG●ジョルジュ・ドゥメニ            
 
1882マレーの生理学研究所.JPG
●マレーの生理学研究所全景 1882

  ドゥメニは、マレーの「クロノフォトグラフ」で撮影された連続写真を〈動く写真〉として再生する際に生ずるガタつきに、大きな不満を持っていました。それは1コマごとに中心がずれることに起因しているのですが、生き物の生態を分析することを主に考えいるマレーにとっては、〈動く写真〉の再現性については、それ程シビアに考えていなかった節があります。

  ドゥメニの考えは、大きく飛躍していました。〈動く写真〉こそ人の「分身」に迫るもの。そのためには連続写真はきちんと動きを再現するものではなくてはならず、更には声を持たせたい、とまで考えていました。
  「生きて、動いて、話している様子をそのまま残せるなら、いつでもそれを甦らせることができるではないか。それが何を意味するか……」。

  このあたりの考えは、なんと上記のウィリアム・グリーンと似ていることでしょう。

  それはともかく、視点の違いが研究にも反映し、マレーとドゥメニの間に次第に亀裂が生まれてくるのですが、それはまだ先のことです。


  ところで次回は〈動く写真〉の研究で忘れてはならない、もう一人のフランス人に
登場していただきましょう。
  その人の名は、オーギュスタン・ル・プランス。なじみのない名前かもしれませんが、そのエピソードを読んだら、忘れられない人物になるかもしれません。




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020 連発銃も平和利用にスピンオフ。 [写真を動かす試み]

020 みんな、鳥になりたかった。
    エチエンヌ・ジュール・マレー

1883 ティサンディエの推進式気球 2.JPG

1883 三輪車.JPG 1884蒸気自動車.JPG
●時代背景 
 上/ティサンディエ兄弟の推進装置付き気球 乗客を乗せて75分滞空 1878
 下左/社交用三人乗り自転車 1883     下右/蒸気自動車 1884

 前回は「写真を動かす」ことと反対に、「動きを写真によって止める」ことで動物や人間の動態を研究していたエドワード・マイブリッジについてお話しましたが。今回は同様の目的で、やはり映画の誕生に寄与したもう一人のフランス人生理学者、エチエンヌ・ジュール・マレーをご紹介したいと思います。この話は前回の続きになります。


●鳥はどのようにして空を飛ぶのか
 1881(M14)年。マイブリッジが自分で開発した「ゾーアプラクシスコープ」を携えて、アメリカやヨーロッパのあちこちの学会で、女性が駆け足をしている姿や体操選手の動き、そしてかの有名な馬の走りの動画を上映して絶賛を浴びていた頃、フランスではエチエンヌ・マレーが、カモメの飛び方を研究するための連続撮影装置について、試行錯誤を繰り返していました。飛ぶ鳥の羽根の動きを調べるのに、大きなカモメは絶好の対象だったのです。

1882-2.JPGマイブリッジ.JPG
●エドワード・マイブリッジと馬の走りの分解写真 1882

 当時フランスでは、「ラ・ナチュール」誌の編集長ガストン・ティサンディエがようやく推進装置付きの気球を実用化させたところでしたが、マレーが鳥の飛翔を研究している裏には、明らかに気球の先を見越して、別の手法で空を飛ぶ手がかりを掴もうとしていたのではないかと思われます。

 ちなみに飛行家のオットー・リリエンタールは、1889年に鳥の飛翔とグライダーの理論に関する本を著していますし、彼が手製のグライダーで初めて空を飛んだのは1891(M24)年のことでした。

 また、ダイムラーがガソリンエンジンの開発に着手したのが1883(M16) 年。ベンツが1気筒・3輪自動車の走行に成功したのは1885(M18)年といわれますから、この頃は空と陸の交通・運輸に対する開発が急展開を見せている時期です。マレーのカモメの研究はそれと無縁ではなかったと思われます。

IMGP7718.JPG●オットー・リリエンタールの飛行 1894

●カモメは狙って撮るしかない
 同年、マレーは巡回講演に来仏していたマイブリッジをティサンディエの仲介で自分の研究所に招き、取り掛かっているカモメの撮影に叶う方法についてのヒントを得ようとしました。彼も実は1869(M2)年に走る馬の連続写真記録装置を考案したこともあり、いい意味のライバルとして親近感を持っていたのでしょう。

 けれども、撮ろうとする対象は馬のように大きいものではないし、カメラを24台並べたところで撮れるものではありません。マイブリッジもやっては
みたのですが、一羽だけの姿をうまく捉えることができず、マレーに直接役立つヒントを与えることはできなかったようでした。

 カモメの早い動きを撮るには狙いを定める必要があります。そして動きを分解するには連続撮影できる仕掛けが必要です。それを1台のカメラでできないか、という発想から、マイブリッジは連発銃の機能をもつカメラを思いつきました。南北戦争の時に北軍大佐サミュエル・コルトが編み出した新兵器のリボルビングライフル。そのイメージがマレーの頭をかすめたのです。彼は1882(M15)年をそのための研究に充てることにし、「写真銃」はその年、一応の完成を見ました。

エティエンヌ・マレー.png●エチエンヌ・J・マレー

●1秒間に12コマ。カモメの飛翔をみごとに記録
 マレーの「写真銃」の直接のヒントは、1878(M11)年に天文学者のピエール・ジャンセンが金星の運行を観測した際に考案したリボルヴァー式写真機でした。大きさは天体望遠鏡そのもので、彼は三脚に据えたこのカメラで、70秒間ずつ露光を与えた24枚の連続写真を円盤に記録することに成功したのでした。

P1050540.JPG
●ジャンセンのリボルバー式写真機 1878

  マレーの写真銃も、回転式シャッターとそれに連動して回転する感光液を塗った円盤(コロジオン湿板)が、ちょうど連発銃を撃つように時計仕掛けで1コマずつ回転する機構がポイントなのですが、ジャンセンのアイディアも、元はといえば円盤に絵を並べて回転させ、動かして見るフランツ・ウヒャチウスの「ヘリオシネグラフ」(1850頃)を応用したものでした。このあたりに、一つのアイディアが次々と他の研究に波及していく姿を見ることができます。

マレーの写真銃.JPG IMGP6985-2.JPG
●写真銃の機構には「ヘリオシネグラフ」(右)の考え方が応用されている

 さて、「写真銃」の仕組みですが、銃身にはレンズが仕込まれていて、空を飛ぶカモメに照準を合わせます。後部にゼンマイ仕掛けの駆動装置を持つ露光室があります。露光室は円形のドラム状で、その中に回転式シャッターとそれに連動する回転盤が仕込まれていて、回転盤には最新の感光剤を塗った12枚の小さなゼラチンの板(臭化銀ゼラチン乾板)がはめられています。

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P1110342-3.JPG  
●写真銃(上)とドラムの内部(下)1882   

 引金を引くと、歯車の働きでシャッターと回転盤が同期して1秒で1回転し、12枚の切手大の写真が連続的にガラスの感光板に記録されるという寸法です。回転シャッターは円盤に等間隔にスリット(細い隙間)を開けたもので、これがレンズの前を通過する瞬間に1/720秒の露光が行われる仕組みになっていました。

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●12枚の写真が撮影された回転盤  

 1882年4月。彼はこのカメラを初めて使い、カモメの飛翔の写真記録を成功させるのですが、青空を背景に飛ぶカモメの姿が真っ黒につぶれて写り、飛び方の分析には使えないものでした。
 そこでマレーはシャッターと回転盤の回転スピードを2
倍に増やしてみました。露出時間は半分の1/1440になりますので、今度は露出も適正となり、大成功をみたのでした。

●1秒12コマのスピード撮影されたカモメの飛翔


●多重露光はマレーの研究の役には立たなかった
 
けれどもマレーには新しい不満が沸いてきました。一つは写真が小さ過ぎること。もう一つは動きは分かるけれども、1コマずつの違いがつかめないということでした。彼の研究では、写真を動かすことよりも羽根の動きの変化をつかむことの方が重要なのでした。

 そこでマレーは翌1883(M16)年に、大き目の1枚のガラス乾板の上に連続写真を写し込むことを考えました。重ねて写す……つまり多重露光の出来るカメラを考えたわけです。乾板を固定しておいて、露出を与える回転シャッターはそのまま利用して撮影するのです。彼はこれを「クロノフォトグラフ」と名づけました。撮影対象は動物の他に人間の動きも加えていろいろテストしました。

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●マレーのクロノフォトグラフィ 1枚の乾板上に連続写真を重ねて記録 1882

 
1枚の乾板上に何枚もの撮像を重ねるわけですから、対象によっては訳が分からなくなったりします。露出を少なめにしたり背景も黒バックにするなど、いろいろ工夫を凝らしましたが、彼が求める動態記録写真としては期待したほどの効果はありませんでした。
 ところがこの「クロノフォトグラフ」は、1本のレンズを使って(単一レンズ)撮影するという極めて基本的な構造を確立したことで、後の「動く写真」の研究家たちに大きな示唆を与えることになります。


●マレーの研究のその先は?
 
折しもこの前年、マレーは幸運にも、フランス政府とパリ市が設立した生理学研究所の所長に任命されます。「クロノフォトグラフ」は、潤沢な研究費を得て、7年後の1889(M22)年、別のある発明によって復活します。そればかりではなく、まったく新しい機構でよみがえった「クロノフォトグラフ」こそ、のちに映画カメラのプロトタイプと呼ばれるほどの仕組みと機能を持つものだったのです。

1882マレーの生理学研究所.JPG
●マレ
ーの生理学研究所 1882

 その新しい発明とは、この2年後、1884(M17)年に登場するセルロイドのロールフィルムなのですが、この映画前史はまだまだそこまで話を進めることはできません。なぜならこの当時、「湿版写真」の処理に苛まされ、ガラスの感光ベースの限界に泣き、「乾板写真」の導入を見ても、いまだ写真を動かす機構的な問題の解決に苦慮していた人たちがたくさん存在するからです。

 と言うわけで
、フィルムの発明については稿を改めてお話したいと思います。そしてマレーの新式の「クロノフォトグラフ」についても。

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019 大金持ちは、やることも桁外れ。 [写真を動かす試み]

019 こんな賭けなら、世の役に立つ。

       エドワード・J・マイブリッジ (米)

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●マイブリッジが撮影した、駆ける馬の連続写真 1880頃

  19世紀後半。旧式な湿板写真から今日の乾板写真方式へと転換しつつあった写真技術のはざまで、絵や写真を動かそうと考えている人たちがいた一方で、逆に動物や人間の動きを止めて分析しようとした科学者たちがおりました。正反対のアプローチです。結果的にこの人たちも写真を動かすことに大きく寄与することになるのですが、今回はその一人、エドワード・マイブリッジに登場していただきましょう。


●19世紀における〈空の時代〉。

19世紀後半という時代に、陽気で破天荒な時代の空気を感じるのは私だけでしょうか。機械工業の発達とともに資本主義が円熟し、鉄鋼、金融、通信、出版事業などで成功した豊かな人たちは着飾って享楽をむさぼるようになりました。

 鉄道が延び、汽船の航路が広がると、次に求められたロマンは空の上でした。飛行機の登場はまだ先ですが、空へのアプローチはフランスが一歩先を進んでいました。
 作家で写真家でもあったフェリックス・ナダールは、1960年に、小型に改造された湿版写真機を携えて、パリ市街を気球の上から決死の撮影を行っています。また、1872年にはジュール・ヴェルヌが「八十日間世界一周」を著して人気を博しました。アルベールとガストンのティサンディエ兄弟は、1883年には電動推進器付きの気球を開発します。

P1050377-2.JPG  1883 ティサンディエの推進式気球 2.JPG
●ナダールのパリ空撮 1860 ●ティサンディエ兄弟の推進器付き気球 1883


 「八十日間世界一周」は1956年にシネマスコープで映画化されました。熱気球で世界を80日間で回れるか。新聞界を牛耳る大富豪が新聞の売り上げを伸ばすために酔狂で思いついたこの賭け事に、富豪たちはこぞって参加するのですが、現実に、似たようなお遊びが行われていたことは否めません。

P1110329.JPG80日.jpg
●70ミリ映画「八十日間世界一周」(1956)のメインタイトル


●アメリカの大金持ちは、やることも桁外れ?

 そこで、本筋の話に戻りますが、1870年代、写真がまだ「湿版写真」時代のお話です。「乾板写真」の発明は1871年ですが、当然すぐに実用できる訳ではなく、1870年代はまだ「湿版写真」が主力を占めていました。

 カリフォルニア州知事を務めたこともあり、セントラル・パシフィック鉄道を所有する鉄道王であり、のちにスタンフォード大学の創設者となる大富豪リーランド・スタンフォードは、俊足の誉れも高い名馬オクシデント号の馬主でもありました。

リーランド・スタンフォード b-2.JPGリーランド・スタンフォード

 その彼が、1872(M5)年のある日、友人に問いかけました。「馬が疾走する時には4本足のすべてが宙に浮く瞬間があるはずだ。それは違うというなら君に25,000ドル支払おう」。友人は「地を離れることはない」に賭けました。名馬を囲い、厩舎を持つことが名士のステータスだった
時代。お金持ち同士ではこんな身近なことが大きな賭け事のテーマになるようてす。

 そこで、サンフランシスコの南、パロ・アルトにあるスタンフォード所有の家畜農場で実際に馬を走らせて友人と観察してみたのですが、肉眼ではなかなか識別できません。
 「写真なら、瞬間を停めて観察できるぞ」ということで、内部の鉄道技師たちに研究させますが、彼らは機械技師なので「湿版写真」の処理の仕方を知りません。そこで白羽の矢が立ったのは、当時西海岸で名をなしていた写真家、エドワード・マイブリッジでした。

●「湿版写真」の限界に苦慮したマイブリッジ。

科学者であり写真家でもあったエドワード・マイブリッジは当時、1867年にアメリカがロシアから購入したアラスカ州を探訪し、帰国後に発表した雑誌記事や写真展が話題を呼び、一躍時の人になっていたのでした。

マイブリッジ.JPG●エドワード・マイブリッジ

 マイブリッジはスタンフォードの農場に出向き、早速馬の疾走写真の撮影準備に取りかかります。その彼の前に立ちふさがったのは、ガラスに塗られたコロジオン液が乾かないうちに撮影・現像を済ませなくてはならないという「湿版写真」の壁でした。カメラには駆ける馬の脚を静止画として写し取るシャッターもついていません。そのうちに幸運にも、何十枚も撮影した中から、たまたま4本足が宙に浮いている写真が見つかりました。

 ところが、その写真が公開されると、「ねつ造ではないか」「ピンボケのインチキ写真だ」と当時のマスコミから突っ込まれてしまいました。また、絵画アカデミーの画家たちからは、「駆けている馬の姿はこんなに見苦しくはない」などと横槍が入ったりしました。画家が想い描く美の基準と現実の馬の姿が合わなかったからです。彼はそうした疑惑や反論を取り払わなければならなくなりました。

 そこで苦心の末、マイブリッジが考えたこと。それは、1台のカメラではなく複数のカメラで撮影する方法でした。馬が駆けるコースに添ってカメラを設置し、馬の走りに合わせて順番に撮影すれば、走る様子が連続写真として得られるはず。ではどのようにして…というところで、その方法が実行に移されるのは、なんと6年も後のことになるのです。


アメリカの大金持ちは、太っ腹。
 もちろん彼はその仕掛けを、夜となく昼となく一心不乱に考えていたのですが、それが仇になりました。実はここだけの話、マイブリッジと彼の妻はいわゆる父と娘のような〈歳の差婚〉。奥さんは寂しかったのでしょう。つい魔が差して、マイブリッジが留守の間に若い鉱山技師と密会を重ねてしまいます。雇いのメイドがその現場を写真に撮ってマイブリッジに見せたものですから、さあ、大変。収まらないのはマイブリッジ。すぐさまコキュのベッドに乗り込むと、轟く2発の銃声。1874年10月のことでした。

 マイブリッジは投獄されましたが、裁判では〈二人の密会の写真〉が動かぬ証拠となり、陪審員は騎士道精神を以ってマイブリッジの名誉を認めたためか
、彼は6カ月後に釈放されました。その裏に、知事であるリーランド・スタンフォードのフォローがあったとか無かったとか。

 スタンフォードは懸案になっている馬のギャロップの賭けを棚上げにして、マイブリッジにしばしの隠棲を進めます。マイブリッジはその間、撮影のやり方について熟考する時間はたっぷりできた訳です。その〈事業〉が再開されたのは、1878年になってからでした。


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●エドワード・マイブリッジの連続写真の一例

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●連続写真の検証には、当然「フリップブック(ぱらぱらアニメ)」の手法も使われたと思われる。


●高速な動きを見事に分解したマルチカメラ撮影

 1878(M11)年、マイブリッジはスタンフォードから無制限の信用貸しという底なしの資金援助を得て、この研究の実現に取り組みました。場所はおなじみのパロ・アルトの家畜農場です。

 マイブリッジは最初、馬の走りの連続撮影に12台のカメラを使うことを考え、実行しました。この頃にはカメラにはシャッターが備わり、100分の1秒の露光が可能になっていました。ただし、現像は「湿版写真方式」です。
 パロ・アルトの馬場には、長屋のような小屋が建てられました。小屋の内部は12のブースに仕切られ、それぞれのブースには馬の走りを捉えやすい低めの位置にカメラが設置され、傍らには現像液を張ったバットが置かれています。馬場のコースを横切って、カメラのシャッターと連動するように12本の細紐が張られています。馬がコースを走るとこの細紐が切れ、順に12台のカメラのシャッターが下りるという仕掛けです。

 「湿版写真」ですから、例によって撮影直前にコロジオン溶液をガラスに塗り、カメラにセットし、撮影後ただちに現像するために12人の助手が各ブースに配置され、マイブリッジのスタートの合図を待ちました。
 こうした緊張の中で撮影が行われましたが、うまく揃った状態で細紐が切れなかったり、途中で天気が曇ったりして、何度もやり直さなければなりませんでした。一番の問題はシャッタースピードが遅すぎるということでした。それもこれもすべて「湿版写真方式」の限界を意味するものでした。

muyb77.jpg1879頃

 そこでマイブリッジは1879(M12)年から1880年にかけて、いよいよ実用性を帯びてきた「乾板写真方式」を採用することにしました。力になったのはセントラル・パシフィック鉄道の技師ジョン・アイザックスでした。

 彼は1000分の1秒の高速シャッターを搭載したカメラを24台使い、等間隔に連続的に感光させることのできる極めて正確な音叉時計装置を用いて、電気的にシャッターを切る仕掛けを編み出しました。なお、その後の研究で、シャッタースピードは2000分の1秒にまで高められました。馬の走る様子をますます明瞭に撮影できるようになったわけです。

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●パロ・アルトの馬場で24台のカメラを並べて走る馬の姿を撮影 1880頃 


 こうしてマイブリッジは、ついにスタンフォードの賭けが正しかったことを証明することに成功しました。
結果的にリーランド・スタンフォードは、25,000ドルの賭けに40,000ドル以上費やしたことになるのですが、大富豪の彼にとってその差額はほんの懐マネーではなかったでしょうか。けれどもそれが〈動く写真〉の研究支援に役立ったことは確かです。

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●足が4本とも地上を離れた瞬間をとらえた写真


●動く写真は、まずマイブリッジによって投影された

 マイブリッジは、馬の走りの分析も静止画の連続写真で十分、というつもりだったのですが、それをきっかけに人間や生き物の動きを連続した静止画に分解し、その動態研究に力を注ぐようになりました。
 そのうち、科学雑誌「アニマル・ロコモーション」誌に2万点もの写真が掲載された彼の研究成果が広まると、アメリカ国内やフランスあたりから、分解写真の権威としていろいろお声が掛かるようになりました。

 彼は講演で、馬の走りの連続写真を動かして見せる必要に迫られました。静止画に分解した動作を、再び元に戻すわけです。馬の走りは連続運動です。その仕組みは簡単に考えられました。1880(M13)年。彼はエンドレスの繰り返しに適したあの円盤型の「フェナキストスコープ」と幻灯機を合体させ、上映可能な動画装置を作り上げました。その機械は「ゾーアプラクシスコープ(ズープラクシスコープ)」と名付けられました。

 彼はこれを持って、英国学士院、王立美術院をはじめヨーロッパ各国を回り講演を行いましたが、写真が動くということで大きな驚きをもって迎えられました。動画と静止画で馬が走る姿の詳細を見せられた画家たちが、疾駆する馬の姿を改めて美しいと認めたことは言うまでもありません。

 このようにマイブリッジの研究は、元々は「写真を動かす」ということではなく、それとは真逆の「動きを止める」ということが目的でした。そして同時期、同じような研究に取り組んでいた研究者がフランスにも存在しました。エチエンヌ・ジュール・マレーです。次回は彼に登場していただきましょう。

 

ズープ.JPG マイブリッジ ズープラクシスコープ用2.JPG
●ゾーアプラクシスコープ 1880

「フェナキストスコープ」関連記事

 http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/2009-04-23

■「マトリックス」はマイブリッジの超高度な応用例
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●「マトリックス」1999

 1999年、コンピュータによる特殊撮影とCG合成で、これまで見たこともないような映像を現出させたウォシャウスキー兄弟の「マトリックス」。その有名な屋上での銃撃シーンは、120台ものCanon EOS2を使ってスチル撮影されたものを動画化したものでした。
 マイブリッジがカメラを直列に配置したのに対して、「マトリックス」では、主演俳優の周囲180度の円形に、しかも1台ずつ高さを変えながら120台のカメラが配置されました。これにより、俳優の周りを高度を変えながらカメラが1回転するという見事な効果を出しています。
 撮影はワイヤーアクションによる俳優の演技を緑パックで撮影し、背景の建物はCG合成です。120コマは時間にして5秒ですが、このカットは10秒ですから、1枚の写真を2コマずつ使って2倍のスローモーションになっています。マイブリッジの直線の発想が円に置き換えられ、現代のテクノロジーで高度に洗練された形でよみがえった例だと考えます。

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018 ミラー・マジック、あやかしのイリュージョン。 [ステージ・イリュージョン]

018 ミラー・マジック、あやかしのイリュージョン。
          マジシャンの得意技だった合成トリック

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●ディズニーランド「ホーンテッド・マンション」                「Walt Disney World」 より
 亡霊たちの舞踏会シーン 


 前回までは、「映画誕生」の前提となる「写真の誕生と進化」について展望してきましたとはいえ、ようやく登場した写真もまだガラスに写す時代でした。硬くて割れやすいガラスの写真をどう扱えばいいのか。多難な状況の中で、絵や写真を動かす工夫がヨーロッパとアメリカで競われていた訳ですが、それについては次回以降に譲るとして、今回は少し視点を変えて、映画発祥時に大きな影響を与えることになる「トリック」について触れておくことにしましょう。

●光のマジックは映画と相性がいい
 
 映画の醍醐味。それは何かと訪ねたら、その一つにトリックが挙げられるのではないでしょうか。映画は光と影によるイリュージョン。ですから、映像を操って超現実的な世界を創り出してみせるトリックは、もっとも映画的な表現といえるでしょう。
 
映画の歴史を辿ってみますと、まずそれは芸術である前に娯楽でした。見世物として誕生し、世間にもそのように受け止められていた、そこから始まったのでした。それは、本来動かないはずの絵や写真が動くというきわどさ、まがまがしさによるものだったからかも知れません。

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●ロバートソンの「ファンタスマゴリー」1797 記事No.008参照

 この、光を用いたいかにもうさんくさい出し物、それが前にお話したジェームス・ロバートソンに端を発する「ファンタスマゴリア」ですが、19世紀半ばになると幻灯機で絵を操るだけのトリックから、次第に生身の人間が演じるようになりました。それは、それぞれの奇術師によって「生けるファンタスマゴリア」とか勝手に呼ばれていましたが、要するにマジシャンによるマジックショーです。

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●稀代のイリュージョニスト、ハリー・フーディーニ  ●ジョルジュ・メリエス  
 横顔が初代・引田天功に似ていなくもない

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「ムーラン・ルージュ」の中庭


 ステージ・イリュージョンがいちばん盛んだったのはパリです。当時パリでは、マジシャンはそれぞれが自分の劇場を持って公演を行っていました。その立役者が「近代マジックの父」と謳われたロベール・ウーダンをはじめ、ジョン・アンダーソン、アンリ・ロバン、ハリー・フーディーニといった大物たちです。

 また、後にロベール・ウーダン劇場を引き継ぐことになるジョルジュ・メリエスもマジシャンとして活躍していました。このジョルジュ・メリエスこそ、ストーリーのある映画を初めて制作した人物として映画史に残るキーパースンですが、そのお話は少し先のことになります。

 とにかくパリというところはカジノ・ド・パリとかムーラン・ルージュとか、もともと享楽的なショーが育つ土壌があったのでしょう。劇場の照明はガスランプとは比べものにならない、明るいライムライト(石灰光)に代わっていましたので、広い会場でたくさんの観客の前で演じることができました。また明るい光源は大規模なトリックを可能にしていました。

●大仕掛けだからこそ見破れないトリック

 一方ロンドンでも、マジックショーはパリと張り合う形で人気がありました。そこではどんなショーが演じられていたのでしょうか。
 アメリカ国会図書館に残されている英国王立工芸研究所で演じられた「聖アントニウスの誘惑」の図解をみてみましょう。ステージで演じられているのは、聖アントニウスと亡霊の戦いです。両者は生身の人間が演じています。


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●「聖アントニウスの誘惑」1880年頃 写真はまだ一般的ではなく、大抵はこのような銅版画。

 ステージの前、お芝居でいう「かぶりつき」はオーケストラボックスになっています。映画が誕生したばかりの頃、スクリーンの前でこんな形で場面に合わせて生演奏が行われていたのは、この流れを汲んでいるのだということが分かります。
 激しい戦いをイメージする演奏に合わせて襲い掛かる亡霊。果敢に剣を振るう聖アントニウス。幾度となくアントニウスが剣を繰り出しても亡霊の身体を貫くことはできません。切っても切れない腐れ縁、という訳です。危うし聖アントニウス。


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 さて、問題は舞台裏、いや、舞台上下の仕掛けです。ステージの上、そこには観客に見えないように背景を暗くし、反射が出ないようにライティングの角度が工夫された大きな透明なガラス板が一定の傾きを持って設定されています。これが実はハーフミラーの役目を果たして、ステージ下に隠れた亡霊役の演技をステージの上に映し出している訳です。亡霊役には投影機によって、ステージ上のガラスに反射させるに十分な明るさの照明が当てられているという訳です。 

 それにしてもこの時代に、このような大きくて平らなガラス板を生産できる技術があったということも驚くべきこと出と思います。


●誰もが自分の未来を見たがった
 ロンドンの王立工芸研究所のステージでは、観客を参加させて喜ばせるプログラムも組まれていたようです。下の図はやはりガラスを使ったトリック。ミラー・マジックです。
 
 司会者が観客席から一人の客を名指します。ステージには棺おけが立ててあり、客に入るように勧めます。こわい、と嫌がるとアトラクションになりませんので、「逃げたらあカン!」と無理やり棺おけに押し込まれてしまいます。

 ドロドロと鳴り響くドラム。次の瞬間、会場の明かりが消え、轟く悲鳴。ぱっと会場が明るくなると、なんと先ほどの観客は骸骨に変わっているではありませんか。満場、拍手喝采です。もちろんそのままにしておくのはかわいそうなので、ちゃんと元の姿に戻してあげれば、またまた拍手です。
 

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●英国王立工芸研究所のステージ・アトラクション「ペパーの幽霊」 1880年頃

 種明かしは、初期設定で棺おけと骸骨が合成されるようにガラスの反射位置を設定しておき、骸骨への照明を消しておきます。そして客が棺おけに入ったら、客に向けていた照明を消すと同時に骸骨への照明をつければいい訳です。実際は「言うは易し、行なうは難し」で、リハーサルを念入りにする必要があったと思いますが・・・。

 
現在、合成を使わない映画は皆無といっていいでしょう。その源泉は、映画が誕生する以前に、すでにこのような手法で試みられていたのでした。他愛がないといったらそれまでですが、こうしたアイディアと果敢なトライアルの蓄積が、間近かに控えた映画の誕生を見たとたん、いっせいに花開くことになるのです。

●光による合成マジックは、今もあなたの身近に
 
この、ガラス板を使った合成トリックは、現在もハーフミラーという洗練された形で受け継がれていて、博覧会とか大規模な展示イベントの会場などで見受けることがあります。また、大型テレビモニターの装置に仕組んで、テレビ画面で見るようにしたものもあります。

 けれども同種のトリックなら、大きくて迫力があって、いつでも見られるところがありますね。そう、ディズニーランドの「ホーンテッド・マンション」です。最後のあなたが早く来るのを待っている、あの999人の亡霊たち。それが20世紀を彩った現代のマジックショーという訳なのです。


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●ディズニーランド「ホーンテッド・マンション」「Walt Disney World」より


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017 行ったつもり、観たつもりの「パノラマ」と「立体写真」 [写真の発明]

017  映画以前の「疑似体験満喫装置」が、これ。
  「パノラマ」と「立体写真」

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●カティ・サーク 1969 学研の図鑑より

 前回は「映画誕生」の前提となる写真術の発明について概略を述べておきましたが、今回は写真に関連する「パノラマ」と「立体写真」について押さえておきたいと思います。
 
ご存じの通り両者は今日では、「パノラマ」は劇場の大スクリーンに。「立体写真」はCGによる3D映画に置き換わって進化していますが、それはどういったところから生まれたものなのでしょうか。

●「パノラマ」…その場に立ち合っているような臨場感
 「パノラマ」とは〈広い眺望〉という意味ですが、1785年にイギリスのロバート・パーカーがその原理を考え出しました。
 
パーカーは研究の末、1800年までにロンドンのレスター・スクエアに本格的なパノラマ専門劇場をオープンします。それはキャンバスを張った内壁が10,000フィートもある360度の円形シアターでした。

シアターは4階建てで、その中心には建物全体を支える太い柱があり、柱には各階の中空から上下を展望できるように、半分ほどのところまで手すり付きの床が張り出しています。入場者はキャンバスに描かれた大壁画を、各階を昇りながら、下りながら、あるいは周りながら眺めるという趣向です。


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●ロバート・パーカーのパノラマ館 
 各フロアから360度全円周に描かれた情景を上下から展望可能。 
 

最初の出し物は海洋王国イギリスが世界に誇る帆船の大艦隊でした。絵はもちろん動きませんが、照明と効果音が付けられました。

人々は360度の見た目いっぱいに海洋を埋め尽くす圧倒的な戦艦の姿にびっくり仰天。おまけに時間の進行につれて変化する朝から夜までの背景の色合い。圧巻は合戦です。艦砲のとどろきと赤い光が交差して艦砲射撃をほうふつさせる光の演出に観客は大感激、大感動。

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●パリのヴァリエテ座(左)とパノラマ館(右)

こうしてパノラマは一挙にブームを呼び、ヨーロッパ全土はもちろん、アメリカにも広がります。それぞれ大都会にはたいていパノラマ専門劇場が建つほどになりますが、ほとんどがスペクタクルを中心とする戦争の名場面で構成されていたので、やがてネタがなくなってしまうと、1830年頃にはパノラマ館の人気は下火になってしまいました。

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●イメージ 南北戦争、セブン・パインズの戦い                           

 ところが、アメリカは違いました。1865年に終結した南北戦争の名場面がパノラマでよみがえったのです。フランスで活躍していたパノラマ画家たちは、アメリカを目指します。こうして1880年代後半のアメリカでは、ゲティスバーグの戦い、アトランタの戦い、シャイロゥの戦いといった名場面が、ボストンやシカゴのパノラマ劇場で大人気を博し、パノラマブームが巻き起こるのです。

これは、過去に起こった現実の情景の中に等身大で自分も立ち合ってみたい…タイムスリップ…という欲求の代替行為に他なりません。

●「立体写真」…立体を立体のまま撮影できる道具がほしい。
「立体物をそのまま手にとれるような感じに描けないものだろうか」…人の両眼による
立体視の原理を応用したこの試みは、写真が生まれる前にすでに、鏡を利用して立体画を書く器具と技法を生み出しています。

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立体的な絵を画きたいと考えたくらいですから、写真が登場すれば写真の立体化が考えられるのは当然です。
「立体写真」の装置が登場したのは1858年。考案者はイギリスの光学技師ジョン・B・ダンサーでした。まだ湿版写真の時代に、すでに「待ってました!」とばかりに立体写真が生まれているのです。

それは、人の両眼に当たる2個のレンズを備えたカメラで撮影し、右目と左目用に撮り分けられた2枚の写真を現像後、レンズの付いた双眼写真鏡、つまり「ステレオスコープ」で覗いて立体視を得るものでした。(その後いろいろな方式が誕生)

初めはやはりお金持ちの道楽。「立体で観るなら、絶対これ」とばかりにご多分に漏れず密かに紳士の間で楽しまれたのはヌード写真でした。ここでは、こういったニーズが新しい技術開発の後押しをしているという風に受け取ることにしましょう。

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●1864年、州立公園となったヨセミテ
のハーフドーム


 当時、欧米のセレブたちが求めた写真は、近隣諸国の名所旧跡を写した風景写真でした。日本でいえば海外旅行写真です。この当時の旅行は汽車や汽船によるものでしたが、いかにセブとは言え簡単に出かけるわけにはいきません。そこで臨場感100パーセントの「行った気になれる立体写真」、という訳です。

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●イメージ

こうして「ステレオスコープ」は、ビクトリア王朝におけるヨーロッパの富裕層のステータスとして豪邸に飾られ、何十何百とコレクションされた異国の立体写真が来客に披露されたのでした。

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●ロンドン万国博で発表されたステレオスコープが一大ブームを引き起こした。1851

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●家族揃っての団らん写真やお祝いの写真として、立体写真がもてはやされた。

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●19世紀のステレオスコープ        ●これは20世紀初頭のステレオビューワー

●国情・世情が写真の需要を後押し
 19世紀後半のヨーロッパはイギリス、フランス、ドイツなどの列強諸国が覇権を巡って渡り合い、自らを先進国、文明人と呼んで未開の地を我が物にするための植民地開拓が進んでいました。その先ぶれは、まだほとんど明らかにされていない未知の大陸を詳しく調べようとする探検に委ねられました。

 例えばスコットランドの探検家デイヴィッド・リヴィングストンは、宣教師としての立場で1840年から1871年までの間に3回ものアフリカ探検を実施。ザンベジ川で発見した広大な瀑布に当時の英国女王の名を冠してヴィクトリア滝と名付けたり、奴隷商人による虐殺現場を目撃したりして、結果的にアフリカ大陸横断に成功しました。

これはほんの一例で、この他、1862年にはイギリスのスチュアート、オーストラリア縦
断に成功。1865年、イギリスのウィンパー、マッターホルン初登頂と続きます。

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●パリ
で公開された40人乗り係留気球 1878

 1869年は特に、ヨーロッパとアジアを結ぶ海路に大きな進展がありました。イギリスで紅茶を運ぶティー・クリッパーとして建造された高速帆船「カティサーク」は、中国大陸との距離を縮めました。また同年11月には、地中海と航海をつなぐスエズ運河が開通。ヨーロッパにとってはアフリカ大陸を回らなければ届かなかったアジアとの距離が格段に近くなったのです。「写真」が活躍する舞台は揃っていたのでした。

 これらの心躍る情報は、1868年にロール紙の使用で印刷の高速化を実現した輪転印刷機がロンドンのタイムズ社に登場すると、未知の世界へのあこがれに一層拍車がかかります。

「立体写真」は新聞が伝える世界のニュースと連動するように、パリ、ロンドン、ニューヨークの街頭風景はもちろん、地中海の遺跡群、アルジェリアのカスバ、モロッコのバザール、エジプトのピラミッド、はては万里の長城まで、格好の被写体として写し取り、人々に楽しまれています。

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●ガソリンエンジンが登場する前の電動軽三輪車1888

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●さあ、まだ見ぬ国へ。列車の旅、船の旅をいざなう観光ポスター。


●立体写真から〈動く写真〉への渇望へ
 
「立体写真」は奥行きのある現実の空間を、一度、一対の2枚の平面写真に変換し、それを更に「ステレオスコープ」で再変換して立体感を得るものです。このような面倒をしてまで、人はなぜ立体写真を求めたのでしょうか。

そこには、より現実に近い再現を…という強い欲求が感じられます。しかし、「立体写真」は必ずしも現実を再現してはくれませんでした。決定的な〈動き〉が備わっていないからです。そしてその欲求が〈動く写真〉に向けられて行ったことは、想像に難くありません。

 つまり、人々が「映画」に求めてきたことは今に始まったことじゃない。それどころか、写真が誕生する前からの願望であり、「写真」自体、そうした要求の中から誕生してきたもの、と言えるでしょう。
 
〈動く写真〉の研究者たちも、「写真を動かしたい」という次の段階の要求に応えるべく、ヨーロッパで、アメリカで、暗中模索を続けているのでした。


※立体写真関係の図版は伊藤俊治著「ジオラマ論」より引用させて頂きました。
※ポスター2点は鹿島茂著「パリ・世紀末パノラマ館」より引用させていただきました。
※お詫び
 HTMLを不勉強なため、文字面がきれいに揃わなかったり、過去記事には本文の文字の大きさが異なったりする不具合がありますので、どうぞご容赦ください。




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