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035 余裕は「たるみ」から生まれる。ん? [映画の誕生]

035  長尺を可能にしたフィルムの「たるみ」。

       フィルムループの発見

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釣りの場合も、たるみがあるから糸が切れない。
 

 20世紀の到来を目前に控えた1895年(M28)の末。リュミエール兄弟の「シネマトグラフ」初公開をもって「映画誕生」とされたのはあくまでもあとのこと。そこで「めでたしめでたし」と完結したのではなく、欧米では相変わらず20名を越える科学者の熾烈な競争はそのまま続いておりました。

ところで、エディスンと袂を分かったウィリアム・ディクスンのその後は……。話は8ヶ月ほど前に遡ります。つまり「映画誕生」を挟んだその前後のエピソードです。

●ディクスンはレイサム父子と<上映式>を開発

フランスのリュミエール兄弟が「シネマトグラフ」初公開を行うことになる1895(M28)年の春4月。アメリカでは、エジソンの「キネトスコープパーラー」を経営するウッドヴィル・レイサムが、のちに映画が物語を語るに欠かせない、ある重要な発見を成し遂げました。それを手伝ったのは、ウェスト・オレンジのエディスン研究所に在籍していたウィリアム・ディクスンでした。

ウッドヴィル・レイサム 1831-1911.jpg   ウィリアム・ディクスン.JPG    
●ウッドヴィル・レイサム ●ウィリアム・ディクスン               


研究所の実験室長だったディクスンがエディスンの元を去った直接の原因。それは、在籍中に取引先のレイサムと極秘に会っているディクスンの情報を、逐一エディスンに報告していた営業部長ウィリアム・ギルモアとの確執でした。

 ギルモアはエディスンに営業手腕を買われて1年前にその席に就任したばかりでしたが、ディクスンとは初めから馬が合わなかったようです。たまたま二人ともウィリアム。「何であんな奴が・・・」とお互いが自分の名を呪うようになって、それがかえってまずかった。
 
ウィリアム E ギルモアb.JPG   エディスン相関図2-1.png
●ウィリアム・ギルモア


 ディクスンはエディスンに、「8年間、会社とあなたに尽くした私か、それともたった1年のギルモアか」どちらか選べ、と迫ったのですが、話はこじれるばかり。結局、自分の方から身を引かざるを得なかったという苦々しい思いが後を引いていました。

ディクスンはレイサムの会社で、彼の兄弟たちといっしょに、エディスンにやらせてもらえなかった「映写機」の開発を、こっそりと注意しながら続けていました。

●エジソンの特許に触れないように新方式を考案

 レイサム父子は、自分たちの経営するニューヨーク・ナッソー通りの「キネトスコープパーラー」で、1ラウンドずつしか見られない<覗き見式>のボクシングを、大きなスクリーンで、しかも6ラウンドを一挙に見せることができれば大評判は必至と考え、独自に映写機の開発を進めていました。

1894デトロイトのキネマスコープパーラー.JPGkinetoscope2small.jpegIMGP7817.JPG
●「キネトスコープパーラー」と人気のボクシング

 その場合、「キネトスコープ」を<上映式>に改造することはエディスンの特許があるために出来ません。ただ、「キネトスコープ」を実際に開発したのはディクスンでしたから、彼は特許に触れないように開発を指導することが出来ました。

 フィルムの幅を倍の70ミリにして1コマの面積を大きく取り、撮影・上映スピードも毎秒40コマ。1ラウンドを30秒で構成することにして、6ラウンドのすべてを納めるためには、試合の前後を含めて4分間。そのために必要なフィルムの長さを1000フィートと弾いてフィルム会社に特注しました。


ところが、映写機の開発で問題となったのはフィルムの重さです。レイサム父子の「キネトスコープパーラー」でボクシングを見せていたフィルムは35ミリ幅ですが、1ラウンド1分間をそのまま見せられる150フィート(通常は50フィート)の特別仕様で重さは300グラム程度。

 この長さと軽さでは問題にならなかったことが、4キロほどもある1000フィートの70ミリフィルムを掛ける必要があるその映写機では大問題でした。長すぎるフィルムは掛け流しのままにする訳にはいかず、巻き取りリールは必須となりました。

●長時間連続上映を可能にした「レイサムループ」とは

それにしてもこの重さは並ではありません。フィルムはもちろん手回しです。映し始めはフィルムが重すぎるために突っ張ってしまい、うまく回せず、パーフォレーション(フィルム両側の孔)が破れてしまいます。無理をして回したらフィルムが切れてしまうのです。

フィルムの巻き量が上下均等になったあと、つまり、下の巻き取りリールの方にフィルムが溜まってくると比較的うまくフィルムを運ぶことが出来るようになるのですが、これでは安定した映写には遠く及びません。

W LATHAM PROJ-3.JPG
●「パントプティコン」1895 右が光源、左が映写レンズ
 1000フィートのフィルムのために、供給リールと巻き取りリールが考案されている。


この問題を解決したのがフィルムの"あそび"です。つまり、フィルムを装てんするときに、レンズ位置にかかる上下に数コマ分のたるみ(ループ)を付けることによって運行に余裕を持たせたのでした。このちょっとしたアイディアが長尺フィルムの撮影・映写を可能にし、のちにストーリーのある長編映画の実現につながります。これが考案者の名をとって「レイサムループ」と呼ばれるものです。

レイサムループlatham.JPGP1020608-2.JPG
●左/上の供給リールの左、Loopと小さく書かれたところが「レイサムループ」
 右/8ミリ映写機のレイサムループ 上下に設定。


こうしてディクスンは、自分が望んでいた上映式の機械を、以前エディスンのところで作り上げた「キネトグラフ」に似ても似つかないどころかそれをはるかにしのぐ高機能で、他に先駆けて完成させることができました。もちろん、エディスンの特許を侵害しているはずはありません。

レイサム父子はこの映写機の事業化のために会社を興し、ディクスンも出資することにしました。レイサム父子は早速新人のボクサー二人と契約を結び、6ラウンド4分間一挙上映用のフィルムを撮り上げました。

 この撮影機は比較的小型軽量に設計されていたので、野外に持ち出して、公園で遊ぶ少年たちの様子や、周りで憩う大人たちの姿を撮影することも出来ました。彼らはこの映写機を「パントプティコン」と名づけて、4月21日に新聞社を招いて公開上映を行いました。


●エジソン、「パントプティコン」に横ヤリ

 一方エディスン側は、ウッドヴィル・レイサムが「キネトスコープ」の得意先であるところから、エディスン取巻きの弁護士集団は常にその動向を注視していました。またその配下の金で動くような連中からの情報も、逐一ギルモアの耳に入ってきました。それにより、ディクスンが裏で「パントプティコン」開発に力を貸していることは十分掌握していました。

 ちなみに当時のエディスンの会社では、総帥エディスンの下で、先に述べた営業のベテラン、ウィリアム・ギルモアが取締役として実権を握り、特許・法律関係では「ダイヤー&ダイヤー」社がその任務を担っていました。

 同社の代表リチャード・ダイヤーはエディスン社の最高顧問弁護士であり、物理と化学を得意とする弟のフランク・ダイヤーもエディスン社の主任顧問弁護士として在籍していました。
 こういった法制の表も裏も知り尽くしたそうそうたるメンバーが、影に日向にエディスンの特許紛争に関わlり、これまでにも「訴訟のエディスン」とささやかれるほどあちこちで特許訴訟の火の手を挙げていたのです。


   「パントプティコン」公開の翌日、早くもニューヨーク・サン紙にエディスンのコメントが発表されました。
 「レイサム機はキネトスコープの模倣。告訴を辞さず」
 記者の取材に答えたエディスンの談話のあらましは次のようなものです。


 「その撮影機の仕組みは私のキネトスコープそっくりである上、映写もキネトスコープを使って私が最初にやったことだ。私たちはすでに6ヶ月も前にそれを実現している。その改良版をキネトスコープの名称で使うならともかく、別の名称で国内上映するなら、それは特許の侵害となる。場合によっては告訴することになるかもしれない」

 そして更に

 「我々は2、3ヶ月のうちに、より完璧な上映式キネトスコープを作り出すだろう。その時にはスクリーンに映る人物は等身大になるはずだし、動きと同時に声を聞くこともできるだろう」


 エディスンの頭の隅には、以前1889年のパリ万博から帰った時にウィリアム・ディクスンが「お帰りなさい、エディスンさん」と言いながら見せた上映式「キネフォノグラフ」のイメージが浮かんでいたに違いありません。 ★1


ディクスンの挨拶.JPG
●ディクスンが作った上映式「キネフォノグラフ」による、
 自作自演の「ディクスンの挨拶」1889 


 特許というものは実に難しい。すでに述べたようにエディスン研究所では〈動く写真〉の開発はディクスンに任され、「キネトスコープ」はディクスンが開発し、上映式もディクスンが実現していたものです。

 ただ、このように実際にはディクスンが手がけたものを、その代表者であるエディスンが「私がやった」ということはあながち間違ったことではないのかもしれません。
 例えばこの数年後に登場することになる自動車の「フォード」も「ディズニー」のアニメーションも、その事業体のトップの名前がブランドの名称として使われています。エディスンはその先駆けといえるのでしょう。

4 edison 13.jpg●トーマス・エディスン

●<上映式>に遅れをとったトーマス・エディスン
 
エディスンの名前が付いた会社はいろいろありますが、例えばGEも最初は「エディスン・ゼネラルエレクトリック・カンパニー」でしたが、1892年に会社の合併によりヘッドの「エディスン」が外されることになったとき、彼の落胆振りはかなりのものだったと伝えられています。それほど自分の名を付けることにこだわり、面子を重んじるエディスン。

 「キネトスコープ」の代理権を与えているチャールズ・ラフとフランク・ギャモンの「ラフ&ギャモン商会(キネトスコープ社)」★2からは、「上映式キネトスコープを早く作ってくれなきゃ、もうやってらんないよ」と矢の催促です。

「間もなく上映式を出す」。エディスンは新聞にはそう公言したものの、実はディクスンが去ったため、<上映式>実現の見通しはまったく立っていなかったのでした。 

 ところが、窮すれば通ず、天は天才に味方した・・・かどうかは分かりませんが、そんなエディスンの元に、思いもかけない朗報が飛び込んで来ることになります。  

                                                つづく

■関連記事

★1 上映式もディクスンが実現 
    http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/2009-08-12 

★2 ラフ&ギャモン         
    http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/2009-08-19






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034 映画誕生。こうして「映画」は動き始めた。 [映画の誕生]

034 こうして「映画」は動き始めた。

       「シネマトグラフ」初公開-2  映画の原点とは

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  前回はパリにおけるリュミエール兄弟の「シネマトグラフ」による映画誕生の瞬間をお話しました。今回はその続きです。
  なお、その時に上映されたフィルムの一部は、前回のブログで動画でご覧いただけます。今回の話はその動画をご覧になると、より分かりやすいかと思います。

●マスコミは白黒に色彩を感じ、館主は大損

この初公開の話題は、日を追うごとに口コミで広がりました。当然初日にはマスコミも呼んであったのですが、たまたま人気歌手の結婚式とぶつかり、記者はほとんどそちらへ駆けつけてしまったのでした。「シネマトグラフ」初公開についてパリの新聞にエキサイティングな記事が載ったのは二日目の12月30日でした。


「グラン・カフェにおいて28日の夜、世紀の新発明が公開された。それは日常生活を写真に焼き付けたもので、その時の情景が等身大の色付きで、しかも動いて再現されるのである。これならば、亡くなった人に会うことも出来るようになるだろう」

自分でグラン・カフェを取材した記者は、「シネマトグラフ」のあまりにもリアルな画面に圧倒されて、まだ付いてもいない色彩まで見た気になってしまったのでした。また、ここでも言われていることは「亡くなった人にも会うことができる」という表現。つまり〈分身〉が意識されていることに注目しておきたいと思います。

IMGP7859.JPG●「シネマトグラフ」と映写技師  

 「シネマトグラフ」は好評に告ぐ好評でロングランも決まりました。3週間後にはなんと一時は3000人近い観衆が「グラン・カフェ」を取り囲み、警官が出動して整理に当たるほどの大盛況だったそうです。
 カフェの持ち主は、最初にリュミエール兄弟の父アントワーヌが示した「借り賃は興行収入の2割でどうか」という条件を断って「1日30フラン」としたばっかりに、大もうけを逃してしまいました。とにかくこうしてシネマ・スペクタクルは誕生したのでした。


●映画の原点は、カメラを固定し1カット1シーンの長回し

 誕生したばかりの映画。映画の原点と呼ぶべきもの、それはどんな特徴を備えていたのでしょうか。

IMGP7866-2.JPG●「シネマトグラフ」

◎フィルム規格
幅35ミリ、両側に 1コマにつき4個のパーフォレーション。
画面のアスペクト比は4対3(横×高さ)。

 このフィルム規格はエディスン研究所に在籍したウィリアム・ディクスンが考案したもので、後にスタンダードサイズと呼ばれます。


◎画像
は、モノクローム(白黒)、サイレント(無音)


◎撮影/映写スピード

 
1秒につき16コマで一定。 2回転で1秒のハンドル手回し操作。 

(アメリカでは、映写技師は定速を保つために心の中で、例えば「マックのじいさん、イヤイヤヨ~、畑じゃアヒルが、イヤイヤヨ~」とうたいながらハンドルを回したそうです)  
 
リュミエール兄弟は、人や物の動きをそのまま再現することに主眼を置いていたため、撮影と映写スピードはあくまでも一定を貫いていました。従って、早まわしや逆転映写などは行われていません。


◎カメラ
は三脚に固定のまま。
 人物自体が近づいたり遠ざかることはありますが、カメラを近づけたり引いたりする撮影テクニックはまだ生まれていません。
 ただし、移動する船からの撮影(移動撮影)は試みられています。


◎撮影
は1カット1シーンの長回し。

 17メートル(50フィート)のフィルムがなくなるまで1分弱の情景を連続撮影。
 つまり、1本のフィルムがなくなるまでノーカットで撮り切る撮影法です。従って、ある動きを写し続けただけというものが多いのですが、「水を撒かれた散水夫」や「エカルテ遊び」★前回ブログに動画あり のように、カメラを動かせないという制約をはっきり意識して、画面フレームの中で進行するように演出されて撮影されたものもあります。

なお、この2本は起承転結が考えられていて、すでに物語としての映画の発展性を予見させるものだと考えます。

IMGP7912.JPG IMGP7910.JPG
●「水を撒かれた散水夫」                                           ●「エカルテ(カルタ)遊び」


●「映画誕生」は誰が決めた?

さて、こうして現在では、1885年12月28日の「シネマトグラフ」初公開をもって「映画誕生の日」とされ、リュミエール兄弟がその発明者とされている訳ですが、ちょっと待ってください。それは一体、いつ、誰が決めたのでしょうか。ノーベル賞なら分かります。けれども、私はこのシリーズをまとめるに当たってたくさんの書籍、文献を参考にしていますが、この点について明確に述べている記事に出くわしたことがないのです。

 映画の発明はある特定の組織や機関、例えば国際科学技術アカデミーとか、国際特許認定機構といったようなところが、「はい、ゴールはここですよ。今ゴールインしたあなたが発明者です」と言ってその時点で認証式を行い、賞状と金一封を手渡すというようなものではないようです。そもそも「映画」は、古今の発明の数々をクロスオーバーさせた技術の集大成である上、その発明には終わりがなく、どこがゴールか分かりません。


 多分その筋の研究者たち、この場合はのちの映画史家たちが述べた中から、もっとも妥当と思われる説が世界的に定着したものと思われます。ですからそれが定まるまでは、アメリカはエディスンを主張し、イギリスはフリーズ・グリーン、ドイツはマックス・スクラダノフスキー、イタリアはフィロティオ・アルベリーニ、そしてフランスはリュミエール兄弟を譲らず、「我こそは」と争われた時期があったようです。


●リュミエール兄弟が映画の発明者とされた訳は

 リュミエール兄弟が結果的に映画の発明者とみなされた理由についても、明快な説はなかなか見当たりません。まとめると次の功績が評価されたことによるもの、とされているようです。

lumieres2.JPG●リュミエール兄弟


技術的には
◎撮影、映写、ポジへの焼付けが出来る複合機であること
◎スクリーンに拡大投影したこと

◎他の同様の機器と比べて、写真を動かす機構の完成度が高いこと
◎小型、軽量を実現したこと 

社会的には
◎興行として入場料を徴収したこと
◎世界に与えた技術的、経済的な波及効果が極めて大きいこと
  (リュミエール兄弟はその後、カメラマンを世界に派遣し、記録映画を撮影させた)

 これらの理由は、リュミエール兄弟の発明が他の開発者に比べて最高の水準であったということに他なりません。

このように、映画の誕生をいつとするかの論議はあくまでも後世の話であって、当時欧米においては、更なる研究開発競争がそれまでと同じように継続されていました。

 アメリカでは、エディスンもディクスンもレイサム父子★1も、リュミエール兄弟の「シネマトグラフ」の成功を遠くに聞きながら、<上映式動画装置>の開発に新しい局面を迎えていたのでした。

4 edison 13.jpg   ウィリアム・ディクスン.JPG ウッドヴィル・レイサム 1831-1911.jpg
トーマス・エディスン                         ●ウィリアム・ディクスン                        ●ウッドヴィル・レイサム

 何はともあれ、こうして映画は誕生しました。これまでは、絵や写真をどうしたら動かせるかという技術面での開発でした。ここからはその技術を使ってどう見せるかの発見が大きなテーマとなってきます。
 映画は「表現」という新たな地平を目指して動き出したのです。
 トーマス・エディスンのお話もまだまだ続きます。
                                              つづく

◆関連記事
 ★1 リュミエール兄弟のシネマトグラフとは
    http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/2009-08-31 







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033 映画誕生。例えればディズニーランドのライド体験 [映画の誕生]

033 こうしてシネマ・スペクタクルは誕生した。
    映画誕生 「シネマトグラフ」初公開-1
      
1895 シネマト ポスター2.JPG

 今回は、いよいよ映画誕生の瞬間です。
 
時は1895年(M28)12月28日、暮れも押し迫ったサタデーナイト。ところはパリ。キャピュシーヌ大通り14番地。オペラ座近くにある「グラン・カフェ」。その地下サロン「インドの間」が、歴史に名を残す舞台となりました。
 リュミエール兄弟の「シネマトグラフ」
初公開に集まった人たちの中から、有名な映画関係者が生まれることになります。この会場は確実に、産声を上げたばかりの新しいメディアをはぐくむ揺籃の役目を果たしたのです。

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●19世末 パリ、キャピュシーヌ大通りの様子

●初公開に揃った、そうそうたる顔ぶれ。
 初公開イベントを企画したのは、リュミエール兄弟の父、アントワーヌでした。彼は知人を介してカフェの持ち主に「入場料は一人1フランとして、フロアの借り賃は入場料収入の2割でどうでしょう」と持ちかけました。
 相手は「今さら幻灯なんて、ネコでさえそっぽを向きますよ」と言い、即座に自分が損をしない金額をはじき出しました。「1日30フラン。どうです? 妥当でしょう? いやならいいですよ」。


lumieres2.JPG●オーギュストとルイのリュミエール兄弟

 さて、初日の夕方。高らかな呼び込みの声にもかかわらず、集まった観客は招待客をまじえて35人。カフェの持ち主は、自分の読みがぴったり当たったことに満足でした。
 ところが数は少なくても、その中身が濃かったのです。

グランカフェ インドの間.png
●インドの間における世界初・映画上映会の様子(ただしこれは再現写真かも)

 観客の中にはまず、エミール・レイノウの「光の劇場(テアトル・オブティーク)」を常打ちにしているグレヴァン博物館(蝋人形館)の館長。パリ屈指のナイトクラブ「フォリー・ヴェルジェール」の支配人といった人たち。
 それから、「シネマトグラフ」を見て4日後に「イゾラトグラフ」という映写機を作り上げてしまうイゾラ兄弟といった、機械自体に興味を持って訪れた人たち。

 次に、シャルル・パテ、レオン・ゴーモンといった興行師たち。この二人は間もなく映画製作を開始し、現在のフランス映画界を二分するパテ社とゴーモン社の創設者となる人たちです。
 それから、自分のステージでぜひ映像マジックを使ってみようと思い立ったマジシャンたち。
 「ロベール・ウーダン劇場」の支配人兼作家兼演出家兼主演俳優のジョルジュ・メリエスもリュミエール兄弟との友人ということで招待されていましたので、同劇場の花形スターで愛人でもあるジュアンヌ嬢(よくある話)といっしょに真っ先に駆けつけておりました。

IMGP7901-2.JPG  ジュアンヌ・ダルシー.JPG
●ジョルジュ・メリエス     ●ジュアンヌ・ダルシー

●これが映像マジックの第一歩。
 会場の一隅にスクリーンの白布が張られ、反対側に「シネマトグラフ」の映写機が、手回し上映でガタつかないようにがっちりとした高い木組みの台に固定されています。
 観客に手渡されたプログラムには12本の作品が列記され、簡単な説明が付いていました。長さはすべて17メートル(50フィート)の1巻物ばかり。どれも時間にして1分足らずの作品です。映写技師は一定スピードでハンドルを回し続けることが出来るプロフェッショナルです。

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●「シネマトグラフ」と映写技師    ●世界初の映画とされる「工場の出口」

 リュミエール兄弟は謙虚な人たちでしたから、アメリカの大発明家とちがって「シネマトグラフ」を世紀の大発明などと吹聴することはありませんでした。簡単な挨拶のあと早速上映となりました。ジュアンヌ嬢とドキドキしながらスクリーンに見入ったメリエスは、あとでこう語っています。

 「正直言ってがっかりしました。スクリーンに映し出されたものは、私が自分の劇場でマジックの最後に見せている幻灯と何ら変わらなかったのです。先日リュミエール氏に会った時、彼は私に度肝を抜くようなものを見せて上げるというので期待して出かけてきたものを。つまらん。
 そう思ったとたん、なんと、スクリーンに映る工場の出口から、大勢の人たちが一斉にこちらに向かってゾロゾロと近寄ってくるではありませんか。これには本当に度肝を抜かれてしまいました。リュミエール氏の言ったことは嘘ではなかったのです」


 もうお分かりのように、リュミエール兄弟は初公開で最初の上映フィルムとなる「リュミエール工場の出口」の上映に際して、いきなり動かさずに、わざと静止画で見せておいたのですね。
 生まれて初めて映画を見る人たちは、始めから動く写真を見せられただけでびっくりすると思いますが、静止画と思っていたら突然動き出した、というリュミエールの演出の方が数段効果的だったと思うのですが、いかがでしょう。
 この例からもリュミエール兄弟は、映画を撮る時に何らかの演出を考えて撮影に臨んでいたことが伺えます。

●映画は最初から演出されていた。
  当日公開された「映画」は12作品ですが、その中から「リュミエールといえば、これ」と挙げられる有名な6作品を動画でご覧いただきます。動画は2作品ごとに3箇所に挿入してあります。
 これらのフィルムはすべて関係者の協力で作られたもので、決して見たものをそのまま思いつきで撮影したものではありませんでした。

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「工場の出口」……………画面は中央で真半分に分けられ、室外と室内の明暗が対比されています。リュミエール工場の出口から繰り出してくる社員たちが画面の左右に分かれるように演出されています。動きには犬も加わり、自転車、馬車の登場と次第にスケールアップします。映画史に残る誇り高き出演者たちです。
「工場の出口」には同じシチュエーションで3本のバージョンがあり、そのこと自体、演出が行われたことを物語っています。

IMGP7938.JPGIMGP7908.JPG列車の到着.jpgIMGP7965.JPG
「列車の到着」……………リュミエール兄弟の父の別荘の近く、ラ・シオタ駅のホームに、リュミエール一族を総動員して撮影されたもので、工場の従業員たちもエキストラで駆り出されているのではないでしょうか。
ロングショット(遠景、全景)に始まった情景が、カメラはまったく動かないのに、次第に視野がミディアム(中景)、アップ(近景)と1カットの中で大きく変化します。
こういった映画表現の概念はまだ生まれていなかったのですが、「列車の到着」には、舞台では見られない画面のパースペクティブ(遠近感)を生かした、映画表現ならではの特徴がすでに芽生えていると見ることができます。

●動画「工場の出口」「列車の到着」


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赤ちゃんの昼食」………兄のオーギュスト、奥さんのマルグリッド、娘のアンドレの食事風景。日常的なホームムービーに見えるこのような画面にも、撮影し易いように3人が横並びという演出が施されています。また3人がカメラを見ることはありません。その点が「カメラに向かってニッコリ」のホームムービーとちがうところです。

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「水を撒かれた散水夫」…1分弱という時間の制約を逆手にとって、完全な演出による見事なコメディに仕上がった作品です。コントや瞬間芸の世界ですね。
散水夫はいたずら坊やを追いかけて行っても画面から外れることはなく、わざわざカメラの前に戻ってきてからお仕置きを始めます。

●動画「赤ちゃんの昼食」「水を撒かれた散水夫」


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「港を出る船」……………自分が海中に放り出されたような不安感で、観客が思わず脚を上げて動揺したという作品です。女性を立たせ、風でスカートがひるがえるのを見せる演出も、なかなかのものです。

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「エカルテ遊び」…………
リュミエール兄弟の仲間によるカルタ遊びのコメディです。給仕役のコミカルなアクションは、まさに演技そのものです。

●動画「港を出る船」「エカルテ遊び」

●始めて映画に接した人々の驚き。
 
映画は奥行きのある三次元の情景を撮影し、スクリーンという二次元の平面に映し出すものです。その質感の違いによる違和感をどこかで覚えながら、観客は会場に張られた白布を食い入るように見つめていました。

 「列車の到着」では、ばく進してくる機関車の威圧感に恐れをなして、叫びを上げて思わず浮き足立ったり、通り過ぎた機関車がどこに消えたのかと、スクリーンの裏を覗く人もいたそうです。「水を撒かれた散水夫」では、ホースの水が自分に降りかかるのを避けようとして頭を動かしたり、画面に海水が満ち溢れている「港を出る船」が始まると、無意識のうちに両足を浮かせてしまったという人もいて、会場はさながらテーマパークに迷い込んだ子供たちのように、やんやの大賑わいになりました。

 これらのエピソードは、あとで多少話に尾ひれが付いたかも知れません。それにしても生まれて初めてスクリーンで動き回るほぼ等身大の人物をみた驚き、そして実際の風景の中に自分が立っているような迫真的な臨場感。そのスペクタクルから呼び起こされた感動は、現在の私たちには想像もつかないくらいショッキングなものだったのではないでしょうか。 

 なお、「シネマトグラフ」に撮られた人たち(身内や社員)がどのような機会にこれらのフィルムを見たかはどこにも書かれていないのですが、ほぼ等身大で動く自分の〈分身〉を、どんな気持ちで観たことでしょう。   

                                                   つづく

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032 リュミエール兄弟の「シネマトグラフ」とは [技術の功労者]

032  ようやく真打登場! リュミエール兄弟。

          「シネマトグラフ」


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●「シネマトグラフ」による撮影風景 1巻約1分を1カットで回し続けて撮影

  は1895(M28)年。「映画の誕生」が秒読み段階に入っている中で、トーマス・エディスンは、頼りにしていた技師のウィリアム・ディクスンに去られた上、ヨーロッパでは亜流の「キネトスコープ」が出回って苦慮していました。
  そんな中で
フランスのリュミエール兄弟は、〈動く写真〉の仕組みを決定づけるための難題をすばらしいアイディアによって解消したことにより、トーマス・エディスンよりも後発でありながら最初の映画と言われるものを撮影。テスト上映を経て
この年の暮れ、後に映画誕生とみなされる一大エポックが訪れることになります。今回はリュミエール兄弟が作り上げたその装置について見てみましょう。

●リュミエール兄弟の才能と恵まれた環境。

 リュミエール兄弟・・・兄はオーギュスト。弟はルイ。二人はフランスのリヨンで、父アントワーヌが興した乾板写真用の乾板や印画紙の製造工場を引き継いで経営していました。
  父の時代には一時経営危機に陥ったこともあったのですが、兄弟が開発した「エチケットブルー」と名付けた新しい製造法による写真乾板が大好評で業績を盛り返し、今では1日50,000枚もの乾板と4,000メートルもの印画紙を生産するほどでした。

1894リュミエール工場感光材調合.JPG
●リュミエールの写真工場における感光乳剤の調合 1894

 
悠々自適の生活に転身した父アントワーヌが、1894(M27)年の夏にフランスに持ち帰ったエディスンの「キネトスコープ」。リュミエール兄弟は、欧米で話題の動画装置に初めて接する興味はあっても、自分たちが向かう〈上映式〉とは異なる方式に、それほど期待していなかったようです。

アントワーヌ・リュミエール1882.JPG lumieres2.JPG  
●アントワーヌ・リュミエール              ●リュミエール兄弟                     

1894 キネトスコープ.JPG  
●エジソンの「キネトスコープ」                      
     


 リュミエール兄弟も、話では「キネトスコープ」のことは知っていました。「キネトスコープ」を開発したとされるエディスンが、時代は<上映式>に向かっているにもかかわらず<覗き見式>にこだわっていること。そしてその真意が、フィルムの間欠送り装置が未熟で画面が安定しない上、シャッターの開角度が狭いために画面が暗くて上映に適さず<覗き見式>に甘んじていなければならないことも推測できました。

『問題はフィルム送りの仕組みにある…。それさえうまく行けば<上映式>は完成だ。広い部屋で大勢がいっしょに楽しむことが出来るようになるんだ。』兄弟の考えは一致しました。

●そのヒントはミシンのカムにあった。

 ここで、後に書かれた兄オーギュストの記述を要約してみましょう。
「ある朝、気分が優れなくて弟の部屋へ行くと、弟はベッドで一睡もしないでそのことを考えていたらしく、ようやくその仕組みを思いついた、と言いました。

 ルイの説明では、それはミシンの布送りだというのです。なるほど。それを聞いて、私が考えていた一時的な解決法は不要なものとなりました。ルイは一夜にしてシネマトグラフを発明してしまったのです」

 「シネマトグラフ」とは、あとで彼らが名づけ、これが「映画誕生」として評価されることになる機械の名称なのですが、その仕掛けはこうです。
 ミシンを踏むと針が下りる時に布は一瞬停止し、針が上がった瞬間に布が送られます。この連続で布が縫われていくわけですが、これは偏心カムの作用によるもので、1877(M10)年にフランツ・リューローが発明し、機械工業では周知の技術でした。ルイはそれを縦位置にすることで、正確なフィルム間欠送り機構に応用できることを思いついたのでした。


間欠.gif
●偏心カムを応用した間欠コマ送りの仕組み
 Eが左回りに回転すると、ABの爪がフィルムのパーフォレーション(穴)にかかって、フィルムを1
コマ掻き落とす。爪が外れた瞬間、コマは停止し、回転シャッターの開口部が通過してスクリーンに投影される。この運動が1秒間に16コマのスピードで継続し、動きとして認識される。



●「シネマトグラフ」は撮影・映写・プリンターの複合機
  リュミエール兄弟は早速ハードの開発に取り組みました。前提として、すでに発表されていたエチエンヌ・ジュール・マレーの「フィルム式クロノフォトグラフ」3やウィリアム・フリーズ・グリーンの「立体映画撮影・再生機」4の仕組みのように1台で撮影と映写の両方ができるものとし、更にプリントも行える機能を付け加えることにしました。

 つまり、撮影機、映写機、プリンタと三拍子揃った複合機です。ネガフィルムで撮影し、ポジフィルムに焼き増しできるプリント機能は写真業であるリュミエール兄弟ならではのアイディアで、少なくともここには何本ものフィルムを複製して活用する、という考えが反映されていた訳です。


IMGP7855.JPG●左は撮影機(カメラ)として使う場合IMGP7857.JPG
●撮影機を開けたところ。17m(50ft)の生フィルムは箱の中で巻き取られる。
 撮影時には、ハンドルは裏ぶたを閉めた外から差し込んで操作する。
 映写機として使う場合は、この状態の背後にランプハウスを設定し、フィルムはそのまま下に流す。
 

●複合機ならではの数々の新機構
 ところで、撮影・映写兼用機として使う場合に大事な問題はシャッター羽根です。撮影時にはクリアな画像を得るために切り込み(スリット)は狭く、映写時には明るい光量を維持するために広い方が良いのです。リュミエール兄弟はその両方を使い分けられるように回転シャッターを2枚合わせにして、スライドさせることによって開角度を変えられるようにしました。シャッター羽根の開角度はもちろん、撮影時における露出の調整にも役立ちました。

IMGP7854.JPG●2枚組回転シャッター羽根

 次にフィルムです。リュミエール兄弟はニューヨークのセルロイド会社から生地原反を購入すると、フィルム幅を35ミリとしました。フイルム送りのためのパーフォレーション(フィルム両脇の穴)は、最初、1コマに付き1つでした。けれどもフィルム走行の安定性を考慮して、すぐに1コマにつき4つずつにしました。フィルム1本の長さは17メートル(50フィート)とし、すべて自社で作り上げましたが、その品質を決める感光乳剤は、当時のイーストマン社のコダックフィルムの質をしのぐものだったようです。

 なお、上記のフィルム規格は意図的か偶然か、エディスン研究所に在籍していたウィリアム・ディクスンが考案し、「キネトスコープ」で使用されている規格と全く同じものでした。
 この点について、のちのリュミエール兄弟は、「フィルムの仕様はたまたまそうなったこと。長さは巻いたフィルムがそれまでしか収容できなかったから」と言ったことが伝えられていますが、このあたりもエディスン側からの特許関連の横槍を憂慮した答えのように思えます。
 ただ、ウィリアム・ディクスンが開発したフィルム規格を、のちに映画の発明者と認定されるリュミエール兄弟も用いたということが、「映画フィルムは幅35ミリ/1コマ4パーフォレーション」という国際規格を決定的なものにしたと考えられるのではないでしょうか。

35ミリフィルム ディクスン.JPG
●ウィリアム・ディクスンが考えた35ミリフィルム規格
 リュミエール兄弟もこの規格に習い、今日まで映画フィルムの国際規格として通用。


●撮影スピードは
1秒間に16コマ

次は撮影スピードです。「動く写真」の研究者たちはそれぞれいろいろなスピードでテストしていましたが、リュミエール兄弟も彼らと同じテストを繰り返さなければなりませんでした。当時はまだ小型モーターが開発されていませんから、撮影は手回しのハンドル操作です。(撮影機にモーターが搭載されるのは1910年代に入ってからです)

エディスンの「キネトスコープ」は1秒46コマ。それは間欠送り機構を備えていないため、画面のチラ付きをㇱャッターの回転スピードで視覚的にごまかすためのスピードでした。「シネマトグラフ」はもっと遅くていいはず。そこで110コマまで下げてみましたが、これでは遅すぎ。結局1秒16コマのスピードで落ち着きました。
 これは結果的に、「視覚の残存時間は1/101/20秒」とするタンドールの実験結果を支持するものでした。「シネマトグラフ」のハンドル操作は、1秒2回転で設計されました。


●光源はアーク灯。集光レンズに絶妙のアイディア

 次に、映写機として使用する場合です。フィルムの後ろに光源を設置する必要がありますので、映写の時にはカメラ部の裏ぶたを開いて、その後ろにランプハウスを配置します。

 大勢に一度に見せるための高い照度を得るためにアーク灯を使うことにしましたが、集光レンズの役割を、なんと、水を入れたフラスコに担わせたのです。これによって発火しやすいフィルムに当たる熱を和らげるという一挙両得の構造を実現したのでした。

1895 シネマトグラフ図解2.JPG1895 シネマトグラフ レプリカ1.JPG
●このレプリカではフラスコより進化した大型凸レンズが採用されている。
IMGP7866-2.JPG

 映写には技師が当たり、撮影時と同じ12回転の速さでハンドルを回します。50フィートのフィルムの上映時間はおよそ1分足らずです。機械には巻き取りリールは無く、レンズ前を通過したフィルムはそのまま下の箱にとぐろを巻き、上映後にリワインダーを使って巻き戻すという原始的な仕組みでした。

 「シネマトグラフ」はここに、1秒に2回転というハンドル操作をよどみなく1分間継続できる特技を擁する撮影技師(カメラマン)と映写技師という新しい職業を、将来的に生み出すことになります。(当初は同一人物の役割でしたが)

IMGP7859.JPG 1895 シネマトグラフ レプリカ4.JPG
●左/「シネマトグラフ」と映写技師 
   手回しで上映スピードを一定に保つ熟練者。フィルムはそのまま下へ。
 右/「シネマトグラフ」のフィルム通過部

   

●移動可能なカメラで野外ロケのフィルムメーキング

リュミエール兄弟と父アントワーヌには、機械の開発と並行して準備しなければならないことが山積していました。1895年3月22日、パリの科学振興協会で最初の公開を行った後も何回かの小規模な公開を行って話題を高めながら、何とか年内(1895年中)に初めての一般上映会を、それも興行という有料の形で行いたいと考え、多忙な中で会場探しやポスター作りの手配なども進めていました。

 その一方でソフト、つまりフィルムメーキングもしなければなりません。リュミエール兄弟の開発した「シネマトグラフ」は、エジソンが「ブラック・マリア」★5の床にデンと据え付けている1トンもの撮影機とちがって小型軽量でしたから、木組みの三脚をつけて容易に外でロケをすることが出来ました。
 初めて完成した「シネマトグラフ」でリュミエール兄弟が撮影した風景。それは、いちばん身近な自分たちの工場の出口であり、父アントワーヌの別荘がある最寄り駅のホームであり、自宅の庭などでした。

こうして年内ぎりぎりの1895M28)年1228日を目標に、リュミエール兄弟はハード、ソフトともに万全の体制を整えて臨めるよう、その準備に余念がありませんでした。

1895 シネマト ポスター2.JPG
●「シネマトグラフ」公開に向けたポスター
 
 その頃アメリカでは、エディスンと袂を分かったウィリアム・ディクスンが、転職先のレイサム父子★6がその後の映画発展に不可欠な画期的な方法を編み出すのを助け、彼らといっしょに新しい会社を興す準備を着々と進めていました。
 その会社は<覗き見式>の「キネトスコープ」一辺倒で進んでいるエディスン社を圧倒する、強力なライバルとなって立ちはだかってくるのです。エディスンとディクスンの確執はまだまだ続きます。
             
                                                 つづく

4 edison 13.jpg    ウィリアム・ディクスン.JPGウッドヴィル・レイサム 1831-1911.jpg
●トーマス・エディスン             ●ウィリアム・ディクスン          ●ウッドヴィル・レイサム

■関連記事

1「キネトスコープパーラー」http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/index/2
2「キネトスコープ」http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/index/3                               

3「フィルム式クロノフォトグラフ」 http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/2009-08-04    
4「立体映画撮影・再生機」http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/2009-07-25
5「ブラック・マリア」 http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/2009-08-16
★6
レイサム父子http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/archive/20150419            

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031 映像は、魔法に近いものなんだ。ジョルジュ・メリエス [技術の功労者]

031 映像は、魔法に近いものなんだ。
    ジョルジュ・メリエス 

P1110408.JPG IMGP7799.JPG
●時代背景 19世紀末、セレブの社交生活

 
これまでに述べてきた〈動く写真〉。それは、エディスンの「キネトスコープ」による<覗き見式動画>に対抗するように浮上してきた<上映式動画>への渇望が高まった時点から、単なる動画ではなく「映し画」、つまり「映画」へと明確に舵を切ったのでした。この点が今日、「動画」と「映画」を認識する上で大事な点だと思うのですが、これまでは〈動く写真〉を機械的側面(ハード面)から見てきました。それは、装置ができて初めて映画が作れる訳ですから致し方のないことでした。

 さて今回は、のちに映画発明者としての栄誉を担うことになるリュミエール兄弟と友好を保ち、「表現としての映画」(ソフト面)を牽引していくことになるジョルジュ・メリエスについて、簡単に押さえておくことにしましょう。


●マジックのステージに新しい表現によるトリックを。
  ジョルジュ・メリエスは1888M21
)年以来、パリ中心街の一角に「ロベール・ウーダン劇場」というマジック専門のシアターを持っており、彼自身マジシャンであり、興行師でもありました。
  「ロベール・ウーダン劇場」とは、その名が示す通り魔術師と称えられたマジックの奇才ロベール・ウーダンの劇場だったのですが、それを故あってジョルジュ・メリエスが譲り受けたのでした。


IMGP7899.JPGIMGP7936.JPG
●ロベール・ウーダン劇場                        ●ロベール・ウーダン 

  メリエスは、ステージに「マジックランタン」(幻灯機)1を早くから採り入れて、映像によるトリックの演出を積極的に行いました。また、オッフェンバック、ベルレーヌ、モローといった芸術家たちとも交流があるインテリで、その洗練された感性は、それまで奇術、魔法、魔術と呼ばれてイカサマ呼ばわりされることもあったマジックのいかがわしさを払拭。ある種芸術的な出し物としての評価が高まっているところでした。
IMGP7901-2.JPG IMGP7934.JPG
●ジョルジュ・メリエス 自作自演のステージはそのまま映画に引き継がれる。  

  実際彼のステージは、単に奇をてらった出し物を見せておしまいではなく、ストーリー展開はもちろん、ステージ上の舞台装置、照明はもちろん、彼自身が演じるコスチュームのデザインに至るまで、高度な芸術的・演劇的手法が採り入れられていました。
  彼が〈動く絵〉〈動く写真〉という新しいメディアの台頭を知った時、自分の想像する奇想天外な物語をその手法で綴ってみたいと考えたことは十分に想像できます。
  
●メリエスの関心は動く映像に向けられていた
  1888(M21)年。彼は近くのグレヴァン蝋人形館でエミール・レイノウによる「テアトル・オプティーク(光の劇場)」2の公演があると聞くと、早速出かけて行きました。
  そこで絵が実際に動くことを見たメリエスはいたく感動。興奮のあまりレイノウに面会して絶賛したくらいに「動画」に心を動かされました。メリエスはマジック愛好家からプロのマジシャンになったくらいですから、新奇なものをいち早く自分のステージに採り入れることには人一倍積極的な人物だったのでしょう。

1893テアトル・オプティーク.JPG エミール・レイノー.JPG
●「テアトル・オプティーク(1888)」とエミール・レイノウ

  『レイノウの「テアトル・オプティーク」では、確かに等身大の人物が動いて見えた。残念ながら、それは写真ではなくて絵だったが。あれが写真であれば、早速自分のマジックのステージに採り入れるものを……。』
  けれども、世間にはまだ、彼の求めに応じられるレベルの映像装置は生まれておりませんでした。彼は自分でも〈動く写真〉について研究を始めることになります。

●メリエスも「キネトスコープ」と出会った。
  1894M27)年5月。そんなメリエスのところに、マジシャン仲間の友人が、50年代と思しき男性を伴って訪れました。彼らは最近パリにオープンしたばかりの「キネトスコープパーラー」3で、エディスンの動画装置を覗き見てきたところだというのです。
  男性は1880年代に乾板写真が実用化されたころから乾板や印画紙の製造をはじめ、今ではリヨンに300人の従業員を擁する写真工場を構えているアントワーヌ・リュミエールと名乗りました。
  「私には二人の息子があって、兄は化学、弟は物理学の学位を持っています。私は今はその工場を二人にやらせています。その二人に私は〈動く写真〉の開発を勧めたのですが、二人とも興味をもって進めています。実はここだけの話、あともう少しというところまで来ているんですよ」。そう。前回の最後にちょっとだけ紹介した、あのリュミエール兄弟のお父さんです。
  
  メリエスも「キネトスコープ」の名は聞き及んでいましたから、たちまちみんなで動く写真談義が始まりました。この日はもっぱら「キネトスコープ」で〈動く写真〉を見たときの驚きが話題になったようでした。

P11106343.JPGP1110630.JPG
●「キネトスコープパーラー」と「キネトスコープ」1894.4~

アントワーヌ・リュミエール1882.JPG lumieres2.JPG
●アントワーヌ・リュミエール                ●オーギュストとルイのリュミエール兄弟

●<覗き見式>ではだめ、ということで意見は一致。
  ところが7月になったある日、メリエスを訪れたアントワーヌはかなり興奮していました。「メリエスさん、見てください。アメリカに発注していたキネトスコープが届いたんです。12本のフィルムもいっしょです。息子たちに見せるために取り寄せたんですが、その前に劇場の皆さんにも、と思いましてね」。こうしてジョルジュ・メリエスは初めてエジソンの「キネトスコープ」に接することになります。

kinetoscope2small.jpeg●「キネトスコープ」を覗き見る客

  「どう思います?」と意気込んで聞くアントワーヌにメリエスは、「これは確かに面白い。新らしもの好きが喜ぶでしょう。でも、この映像がスペクタクルなものになるには、箱の中では無理でしょうね」と極めて冷静に答えました。メリエスもまた、画面の人物が等身大に拡大できない<覗き見式>では、自分のステージには無用、と考えたのでした。
  「そこですよメリエスさん。私の息子たちが、きっとそれを成し遂げて見せるでしょう」。アントワーヌ・リュミエールは胸を張って答えました。

  翌日アントワーヌ・リュミエールはリヨンの会社に「キネトスコープ」を持ち帰り、二人の息子たち……オーギュストとルイのリュミエール兄弟に見せました。これが縁で、アントワーヌ・リュミエールを介してリュミエール兄弟も、ジョルジュ・メリエスと親しく言葉を交わすようになります。

●研究者の数だけ映写機が誕生
  とにかく1895M28)年というこの1年は、「映画誕生」に向けての研究が、欧米においてほとんど同じレベルで仕上がっていたという大変な年でした。
  それはヨーロッパにおいて特に顕著でした。原因の一つは、エディスンの「キネトスコープ」の特許がアメリカ限定で、ヨーロッパに及んでいなかったことが挙げられます。

  ヨーロッパの研究者たちは、エディスンに任されてラフとギャモン★4が独占販売を許されている「キネトスコープ」が法外に高価だと知ると、自分で作り上げようとしました。そうした動きの中で、いちばんの問題であるフィルムの間欠送りの仕組みも、それぞれがてんでに考えて、いろいろな方法が編み出されました。

IMGP7955.JPG 間欠.JPG IMGP4538.JPG
マルタ歯車.JPG IMGP7953.JPG
●いろいろな間欠送り機構が考案された

  これら大勢の研究者のうち<覗き見式>を発展させようと取り組んだ人は一人もおりません。全員が「キネトスコープ」を参考に<上映式>を目指したのです。なんとこの年から翌年に掛けて、数十人におよぶ研究者の数だけ、似たような映写機が誕生したのでした。

  ただその中でドイツの発明家マックス・スクラダノフスキーが考案した2連のフィルムを使う映写機「ビオスコープ」は、ひときわ異彩を放っています。
Max skladanowsky-2.JPGMax Skladanowsky-2 (1).jpg
●動画の研究の権威でもあったマックス・スクラダノフスキー
 彼は最後まで、映画の発明者は自分であると信じて疑いませんでした。

「ビオスコープ」1895.11月初公開 30秒(無音)

●「キネトスコープ」はハードとソフトのパッケージで。
  とにかく困ったのはエディスン側です。大西洋の対岸のヨーロッパで、こんなに追い討ちを掛けられるとは思いもよりませんでした。それまで、特許を侵害されたら待ってましたとばかりにお抱え弁護士たちが動き、お得意の訴訟を起こしてきたエディスン弁護士軍団ですが、今回はそれができません。

4 edison 13.jpg1893 ブラック・マリア.JPG
トーマス・エディスンと世界初の撮影所「ブラック・マリア」1894

  そこでエディスン側が考えたこと。それはソフトを押さえることでした。エディスン側は、「キネトスコープを買わなければ、フィルムは売れません」ということにしたのです。一種の抱き合わせ販売です。フィルムベースは他から手に入れることはできても、エディスン社がウェスト・オレンジの「ブラック・マリア」★5から生み出しているあの内容と同レベルのフィルムは真似できまい。これがエディスン側が考えた第一段階の市場戦略でした。

  さあ、思いもよらない対抗策に、ヨーロッパの研究者たちは困ってしまいました。機械は作れても、ソフトとしてのフィルムはどのように作ればいいのかわかりません。何を題材に、どう撮ればいいのか、ノウ・ハウというべきものは誰も持っていないのです。まさに映画以前の問題に突き当たらざるを得ませんでした。

  このような混沌を背景にして、1895(M28)年も押し詰まった1228日、いよいよリュミエール兄弟の「シネマトグラフ」初公開の日を迎えることになります。 

             ★次回はようやくリュミエール兄弟と「シネマトグラフ」のお話です。

P1110645.JPG
●この日がのちに映画誕生の日となる
 リュミエール兄弟の「シネマトグラフ」初公開のポスターの1種 1895

■関連記事
★1 
「マジックランタン」      http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/2009-04-06    
2 
「テアトル・オプティーク」  http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/2009-04-30
★3 
「キネトスコープパーラー」 http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/2009-08-19 
★4
 ラフとギャモン        http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/2009-08-19
★5 「ブラック・マリア」      http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/2009-08-16

        
    
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