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6/4 「19世紀末・映画発明ライバル物語」お話会 [映画誕生物語お話会等]

映写技師 20世紀初頭.jpg

下記のお話会、晴天の平日で、いろいろご予定もある中、多数のみなさんにご参加いただき、本当にありがとうございました。こころより、お礼申し上げます。
今後は11月に府中市において、別タイトルで映画史のお話会を開催させていただく予定です。詳細が決まりましたらこの欄でお知らせいたしますので、どうぞよろしくお願いいたします。



東京雑学大学 講演会のご案内
★映画誕生120周年★
「19世紀末・映画発明ライバル物語」

●日時 2015年6月4日(木) 午後2時~4時
●会場 西東京市民会館 3階 大会議室
講師 島倉 繁夫(映像制作、映画史研究)
●入場無料
●お問合せ先 042-377-6172

今年2015年は映画誕生120周年。
映画の発明では、欧米で十指にあまる発明家たちの名が挙げられるほど
その競合は熾烈を極めたようです。

それまでになかった撮影機・映写機という視覚マシンの開発競争。
そこに生まれるライバル同士のエピソードは実に人間的です。

映画はどのようにして生まれたのか。
目前に20世紀の到来を控えた19世紀末にワープして、
映画という当時のニューメディアが誕生する瞬間にピントを合わせてみましょう。

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050 20世紀初の「月世界旅行」。 [黎明期の映画]

050 映画はじめて「シーン」を備えた。

ジョルジュ・メリエス「月世界旅行

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 パリのロベール・ウーダン劇場とモントルイユの撮影スタジオを拠点に、数々のアイディアにあふれた短編映画を製作・上映していたジョルジュ・メリエスですが、彼が1902年に発表した映画はそれまでになく長いものでした。それはストーリーを持った映画だったからです。

●ムービーカメラを持てば、振り回したくなる

1900年パリ万国博」でジョルジュ・メリエスは、パビリオン展開こそしませんでしたが、彼のスター・フィルム社のカメラマンたちは16本もの万博ニュース映画を撮影しました。その中には会場の動く歩道やセーヌ川を移動する船の上からのいわゆる移動撮影によるパノラマの他、イエナ橋やトロカデロでは360度のパノラマ撮影を行うなど、それまでに無かった斬新な撮影を行っています。

こうした撮り方は当時としては型破りでした。が、実はこうした技法こそ映画特有の表現テクニックである訳ですが、当時のメリエスはそれに気づきません。それはたまたま、カメラを船に搭載したから風景の移動が撮影されたに過ぎず、意図的にカメラを移動させて得られる画面効果を考えたものではなかったからでした。ちょうど初めてビデオカメラを持った人たちが無意識にカメラを左右にパンしてみたり、ズームを操作してみるのに似ています。
 誕生して5年以上経ったにもかかわらず、映画撮影はいまだにカメラを三脚に固定したまま、150フィート約1分の長さのフィルムが終わるまで、ひとつの情景を撮り続ける撮影手法が続けられていたのです。

●物語映画が認識させた、シーンの概念

さて、メリエスの映画は、1901年にはヴェノスアイレスのカジノなどでも上映されていたといいますから、南米にまでも彼の名声が知れ渡っていたことが伺えますが、そうしたネームバリューを背景に彼が考えたのは、映画で物語を演じてみよう、ということでした。もちろん主役は彼自身です。

メリエスは本来舞台のマジシャンですから、この構想は彼がマジックの舞台に映画を採り入れた時から抱いていたものだったと思います。それまでにも彼の作品はわずか1分の長さでもストーリーを持つものだったのですが、それらはすべて小手調べのようなものだったのかも知れません。

本格的な物語映画の素材として彼が選んだのは、何と、今で言うSF(サイエンス・フィクション)。1865年に発表されたジュール・ヴェルヌの「地球から月へ」と、この年1895年に発表されたばかりのHG・ウェルズの「月世界最初の人間たち」にヒントを得たものでした。
  現実には実現不可能な科学技術の夢物語を映画で実現して上げようという構想は、いかにもトリックで世界の観客をアッと言わせてきたメリエスらしい構想です。タイトルもセンセーショナルな「月世界旅行」と決めました。

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●ジュール・ベルヌ「地球から月へ」の挿絵 1865

長い物語はたいていの場合、ひとつの場面では完結しません。登場人物の動きはいろいろな場所におよび、朝・昼・夜の時間の流れが必要になるかもしれません。これらを表現するとなれば、これまでの1シーン1カットの撮影で済ませられる訳は無く、状況の変化、時間の経過に応じて場面を転換する必要が出てきます。当時はシーンという概念はまだありませんが、必要に応じて初めてその認識が生まれたのです。


●旧態依然。舞台をそのまま映画に

メリエスはこの物語のためにたくさんの舞台装置を設計しました。1ぱいのセットだけで済んでいたこれまでの作り方とは大違いです。モントルイユのスター・フィルム社は上を下への大騒ぎでした。

主なセットだけでも、科学者会議の議場、ロケット打上げ場、月面、地下洞窟、月人の宮殿など。特に月面では、到達した科学者たちが望む月の出ならぬ<地球の出>の様子は、パノラマのように立体的な奥行きを持たせた書割を操作するなどの凝りようです。

一方、疲れて眠る科学者たちの頭上に現れる女神たちや降りしきる雪など、得意の合成トリックもふんだんに使われています。

 こうして280m16分もの長編映画「月世界旅行」が出来上がりました。当時の映画は長くて60mの時代ですから、かなりの長編です。「公開当時は不評だったが急激に人気が出てきた」というメリエスの回想は、サクセスストーリーによくあるエピソードです。


この映画を見てみると、シーンの数は確かに増えましたが、相変わらず1シーン1カット。カメラをすえたままのフィックス撮影で舞台の様子をそのまま撮影、というやり方はまったく変わっていません。すべてがフル・ショット(全景)。
  けれどもこの作品で注目したいことは、カットの長さに違いが出てきたことです。例えばファーストシーンが他のカットに比べて2倍以上あります。反対に短いカットもあります。ということは、1カットは必要な長さだけ、ということが自然に行われているということです。これはそれまでの「
1シーン11分」の撮り方から脱却したことを意味します。

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●一番長いカット(左)と短いカット(右)

 人物の動きが左右だけの平面的な移動というのは相変わらずの舞台劇風。月面から地底に下りるところだけ、手前から奥への人の移動がありますが、これも舞台劇の範囲内です。

 また、カメラは一人の観客として、常に舞台全体を捉えていなければならないという認識があるため、カメラが俳優の動きに連れて移動したり、俳優の動作や表情などを大きく映して見せることなど、考えも及ばなかったのでした。つまりここではトリックは別として、映画特有の表現法はまだ生まれていないことが分かります。

 それにしても、シーンが連なってひとつの物語を紡ぐという認識は、映画製作上、大きな発見だったのです。


●「月世界旅行」はどんな構成か

物語の前提はしっかりとしたコンストラクション(構成)です。メリエスはストーリーの流れと役者の動きや撮影のアイディアをしっかりと紙に書き留めて、カメラマンや役者に配りました。また「月世界旅行」では初めて、今で言う構成台本のようなシナリオが用意されました。もちろん監督、主役はジョルジュ・メリエスです。スター・フィルム社は何から何までジョルジュ・メリエスでもっているのです。

 ストーリーとは全体の流れを一言で伝えられるもので、制作に携わるスタッフみんなが共通のイメージを持つために必要な物語の柱をいいます。
 「月世界旅行」のストーリーは、さしずめ「科学者たちが月世界旅行の計画を立て、最新のロケットで月に到達したところ、先住の月人に捕らえられるが、彼らを退散させて一行は無事帰還する」といったところでしょうか。
 このストーリーを元に、シーンが分けられ、背景がデザインされ、登場人物の演技が決められ、カメラが回る・・・
ということになります。


●オール手彩色の完全版「月世界旅行」、発見される

  なお「月世界旅行」は、2012年9月にスペインで、当時メリエスのスター・フィルム社の彩色アトリエで女工さんによって手彩色された完全版のフィルムが発見され、大きな話題を呼びました。傷だらけのフィルムは現代のデジタル技術によって、これも昔のままの一コマずつ気の遠くなるような手作業によって修復され、完全に当時のままによみがえりました。
  下にYOUtubeの完全版復元フィルムを添付させていただきました。なお、音声は付いておりませんが、公開当時はピアノなどによる即興の音楽演奏が付いたり、画面の解説者が説明を付けたりして上映されたものと思われます。

◎天文学者の会議 月世界探検チームが結成される。
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◎砲弾型宇宙船の建造
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◎煙を上げる工場の遠景 画面では表現されないが、
   中では大砲が鋳造されている。

◎出発 探検チームが砲弾型宇宙船に乗り込む。

宇宙船が大砲に装てんされる。

大勢に見送られて発射。
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◎宇宙空間 月が接近し、月の顔面に宇宙船が命中。
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◎月面 砲弾型宇宙船が到着し、降り立つ一行。月から見た「地球の出」
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シーケンス-04.jpg

◎月面 眠りにつく一行。夢に現れる故郷の妻子の顔が月の女神たちに変る。
シーケンス-05.jpg

◎月面 吹雪の月面を行く一行。奥の穴から地底へ。

◎地底 巨大きのこの洞窟で月人の兵隊の襲撃に遭う一行。
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◎月の宮殿の内部
    
縛られて王の元に連れてこられる一行。
    
隊長が月の王に飛び掛り、倒して逃げ出す一行。追う兵隊。
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◎月面 兵隊に追われる一行。
  
砲弾型宇宙船を見つけて乗り込む。隊長一人外に。
      追いつく月の兵隊
  
隊長が宇宙船を地上に向けると、宇宙船は落下。
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◎海上 落下してきた宇宙船、海底に沈む。


◎港に帰還する宇宙船
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◎帰朝 祝賀会と凱旋行進。勲章の授与。記念像の除幕式。

 お祭り騒ぎ、捕虜として連れ帰った月人が見世物にさらされている。
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※最後の「帰朝シーン」「お祭り騒ぎ」は冗漫になりすぎると考えられたか、カットされているバージョンもあります。




ご用とお急ぎで無い方は上に添付のYOUtubeの動画をじっくりとご覧ください。

P1050418.JPG●ジョルジュ・メリエス




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049 100年以上経って、何が進歩したか [1900年、パリ万国博]

049 100年以上経って、何が進歩したか。
 1900年、パリ万国博覧会―4   まとめと日本の万博所感

P1050942-2.JPG  P1050939-2.JPG
EXPO70 

 前回からのつづきです。

20世紀の博覧会は、総じて映像博なのですが…
  私の記憶にある万国博覧会(万博)。それは1970(S45) 年に大阪千里丘陵で開催された「EXPO70
/日本万国博」と、1985(S60) 年の「科学万博-つくば85」です。この二つの万博は経済成長の絶頂期ということもあって、主要各国のパビリオンや日本企業のパビリオンは超大型の映像展示に多額の経費を投じ、それは絢爛豪華なものでした。

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●1970年「EXPO'70」日本万国博

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85 つくば博 マルチ映像.JPGつくば85 ホログラフィ.JPG
●1985年「科学万博つくば85」上2枚は大型マルチ映像
 下はホログラフィによる立体映像展示

 メインは当時の最先端映像技術を反映して、前者はマルチスクリーン、後者は大型映像のオンパレード。見世物としてのスペクタクルを、それはそれは華やかに盛り上げていました。
 それはまさしく、100年以上前に考えられた気宇壮大なアイディアに当時の技術が及ばなかった無念さを晴らして上げるかのように、今日の進んだ技術力で完璧に作り上げて見せた世界でした。今、私たちの生活を支えている高度な技術のほとんどは、19世紀が考え出し、20世紀が作り上げたのだと確信せずにはおられません。

 けれどもその後日本経済は成長を止め、わずか1990(H2) 年に大阪鶴見緑地で「国際花と緑の博覧会(花博)」の開催を見たばかり。それとても、目だった新技術が無いところを、たまたま「宇宙船地球号」と唱える世界的な自然回帰・環境保護の時代に救われて、金を掛けない庭園博で済ませてしまったものでした。
  博覧会とは本来、技術の進歩を誇示し人類の躍進を約束するものでした。その意義が希薄になってしまったのです。 

89横浜博 宇宙シミュレーション NEC.JPG   
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●1989年「横浜博覧会」(地方博)におけるアイマックス上映と双方向シミュレーションシアター

 
それ以後も「安定成長」と呼ぶ欺瞞の元に減速経済は更に進行し、博覧会はもっぱら地域おこしを標榜する小規模な地方博の時代へと推移。その地方博すらも消滅して今日に至っている訳ですが、目玉にしたい新しい展示手法と言ってもせいぜい大型4Kシアターくらい。博覧会そのものの魅力が大きく退化したという感じを免れません。
  そしてその内容も、100年以上前のアイディアをただ単に今日の先端技術でなぞったに過ぎないのではないかとさえ思えてくる状況。映像という側面ひとつをとってさえ、それほど「1900年パリ万国博」は、情熱と冒険心と実験性にあふれた熱狂的なものだったのです。

05愛・地球博 2005inchレーザードリームシアター.JPG
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●2005年 名古屋「愛・地球博」
 上/2005インチ「レーザードリームシアター」
 下/CGによる立体映像シアター


  翻って現在の国内情勢を考えたとき、バブル崩壊後今日に至るまで、超長期の減速経済下で、国も自治体も企業さえも疲弊して意気消沈のまま。この状態では国民の間に厭世感が蔓延してしまいそうです。唯一の救いがオリンピック/パラリンピックですが、これでいいのか日本。技術立国の誇りはいずこに。みんなが一丸となって経済発展に打ち込んできたあの心意気よ、もう一度……。

 4回にわたって100年以上前の意気軒昂だった国際イベント「1900年パリ万国博」を展望しながら、自国を振り返って感じたのはこのことです。日本も決して負けてはいなかった。アイディアと技術力で躍進してきたあの頃の自信の復活と士気高揚を願う理由はそこにあるのです。


 ●パリ万国博覧会の明と暗
  余談ですが、映画発明の先駆者として評価され、社会的にも成功したエティエンヌ・マレーと対照的なのは、1888M21)年に「テアトル・オプティーク」で大好評を博したエミール・レイノウです。

 エティエンヌ・マレー.png  1890 マレー フィルム式クロノフォトグラフ.jpg
●映画撮影・映写機のプロトタイプといわれる「フィルム式クロノフォトグラフ」
 を発明したエティエンヌ・マレー

エミール・レイノー.jpgレイノウのテアトル・オプティーク1893.jpg
●エミール・レイノウと「テアトル・オプティーク(光の劇場)」

 彼が一手でその興行を請け負っていたグレヴァン博物館では、次第にリュミエール社の世界ニュースやゴーモン社の実写フィルムなどを採り入れるようになりました。そのため、7年間に亘って延べ50万人以上も動員した「テアトル・オプティーク(光の劇場)」でしたが、時代の流れには抗し切れず、パリ万国博が始まる直前の1900(M33)年3月に、遂に興行を外されてしまったのです。

 彼の悲劇は、出し物について、例の繰り返しのエンドレス方式ではなく、当時はだれも考えなかったストーリー性を重視したことにありました。そのために彼は「テアトル・オプティーク」という独自の方式を開発した訳ですが、実は映画の発展にとってそこが一番大事なところだったのですが、時代はそのことにまだ追いついていませんでした。彼は時代を先取りしすぎたのかもしれません。
 撮影機、映写機といったハード面が先行し、フィルムの規格がエジソン社(のウィリアム・ディクスン)が考えた35ミリ幅の映画フィルムがデファクト・スタンダードとなると、その方式がたちまち広まってしまい、それ以外の上映方式をいつまで維持できるかは時間の問題だったのです。

 落胆したレイノウは、自分の発明の一切を消滅させようとしました。「テアトル・オプティーク」の装置を打ち砕き、7本の作品のうちの5本を、闇にまぎれてセーヌ川に沈めてしまったのです。レオン・ゴーモンが工芸学校に寄贈したいから「テアトル・オプティーク」の装置一切を売ってほしいとレイノウを訪れたのは、その数日後のことでした。


●パリ万博の閉幕を待っていたかのように
 いろいろな話題を残して「1900年パリ万国博」は閉会しました。「映画」というニュー・メディアを生み出したフランス。中でもパリはそのメッカとしてたくさんの事業家を輩出して世界をリードするようになりましたが、新世紀、1900年代初頭を飾る中心人物は、やはりあのジョルジュ・メリエスでした。

 万博記録映画の製作も一段落を迎えたジョルジュ・メリエスは、すぐさま兼ねてから頭の中にしまっていた次のアイディアに取り掛かりました。その結果、またまた奇想天外な作品を作り上げて、世界をあっと言わせるのです。 

  ところで、この第5回パリ万博の翌1901年の暮れ。シカゴ近郊のトリップ・アベニューという静かなベッドタウンで、女の子といってもいいくらいにかわいい男の子が誕生しました。彼はこの家に4男として生まれましたが、8年ぶりにできた子ということもあって、母親はフリルの付いたかわいい洋服を着せて愛情いっぱいに育てました。
 この子の名は、一家が懇意にしていた聖パウロ会のウォルター牧師の名をもらって、ウォルター・イライアス・ディズニーと名付けられました。
                                          つづく

P1050418.JPG●ジョルジュ・メリエス

★お待ちどうさま。ようやく「月世界旅行」にたどり着きました。次回をどうぞ。

 

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048 100年以上前の、びっくりパノラマ。 [1900年、パリ万国博]

048 100年以上前の、びっくりパノラマ。

1900年、パリ万国博覧会-3
陸上、海上の壮大なトラベル・シミュレーション

1886サイクロラマの制作 NY.JPG
●巨大パノラマの製作  1886
 戦闘シーンを描く画家たち  人物の大きさでスクリーンの巨大さが伺える

 前回からの続きです。

これまではパリ万国博における映像関連の出し物を展望してきましたが、映像を使わずに人気を集めているパビリオンがありました。それは大パノラマです。絵や写真の書割で立体感を表現するパノラマは、映画の話とは関係がないかに見えますが、実はそうではないのです。

●広大な立体表現と動きが生む、大迫力の臨場感

パノラマは、陸海空とも交通機関が未発達で、まだ世界を自由に往来することができなかった18世紀末に登場しました。内側に歪曲した見上げるような巨大な壁面。そこに透視図法によって立体的に描かれたのは、当時の人たちが行ってみたことのない異郷の風景です。
 雪に覆われたアルプスの山並み、猛獣たちが群れを成すアフリカの大草原、夕陽に染まった崇高な回教寺院など、観客はまさに自分がその世界にいるような臨場感を味わうことができたために、大変人気があった見世物でした。

遠い景色は壁面に描かれ、中景、近景と風景を何層にも書き分けて立体感を出す手法はすぐに考えられました。これらは演劇における舞台装置の作り方と無縁ではありません。また、平面の背景に遠近感を生み出すトリックアート技法もふんだんに利用されました。
  そのうちに前景に本物の樹木や岩石、草や小屋などを配して立体感を強調したり、照明で朝昼夜の時間経過を演出するなど、手の込んだジオラマ技法も応用されました。

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●ルイ・ダゲール           ●ル・プランス

写真の祖ダゲール自身もジオラマを製作。また前に述べた失踪事件の当事者オーギュスタン・ル・プランスも動く写真の研究に取り掛かる前はパノラマ製作を監督していました。パノラマは映画が生まれるまでは、行ったことも無い風景の中に身を置くという疑似体験ができるスリリングな異空間だったのです。

特に1900年パリ万博では、前回紹介した映像による空の旅に対して、海の旅、陸の旅がパノラマ、ジオラマ技術を集大成した途方もない体感イベントとして展開されていたのでした。

●立体パノラマ「ステレオラマ」が見せた海の叙情

それまでの国際博でも単純なパノラマ手法は使われていましたが、「海の詩」のタイトルで公開された「ステレオラマ」は、背景や照明にアイディアを凝らし、海面を動かして波の律動感を演出するなど、情景のリアリティを強調した出し物でした。

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●「ステレオラマ・海の詩」1900  観客席側より  奥に艦隊の移動が見られる

「ステレオラマ」の舞台設定は地中海の南、アフリカ北端の海岸線です。観客の前には、汽船の窓から展望する感じで4つの窓があります。窓の向こうに照明が入ると広い海原が現れ、揺れる波のかなたにアルジェの海岸沿いの街並みが望めます。

水平線上に太陽が昇ると背景はゆっくりと横に移動し、観客は船に乗っているような気分。やがて空が次第に曇ってくるに連れて海上の波浪が激しく立ち騒ぎ、嵐がやってきます。それもつかの間、再び太陽が顔を出し、寺院の尖塔や古い街並みがまぶしく輝き出したかと思うと、手前の海上に戦艦や巡洋艦などの大艦隊が現れ、威風堂々と通り過ぎていくのです。

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●「ステレオラマ」舞台裏  波を起すクランク式の装置が見られる 艦隊は上の奥に去っていく


  さて、その舞台裏は・・・。一番奥の背景は空。ゆるい弧をもつ可動式の板面に、朝の空、曇り空、晴れて輝く空の様子が順に描かれていて、ゆっくりと移動し、時間の流れに合わせて照明が変わります。波の彼方の遠い街並みは一連の書割です。これもゆっくりと横移動して船の動きを感じさせます。

  中景から近景は、遠近感を計算して並べられた40枚の金属性の波の板が連なり、電動機に連結されたクランクによって、静かな海上、荒れる海上の動きを表現しました。
 これらの仕掛けは電動でしたが、そのコントロールはバックヤードで技師が進行に合わせて手動で調整していたことは言うまでもありません。

●陸の旅をシミュレートした「シベリア横断鉄道の旅」

もうひとつの立体パノラマは「シベリア横断鉄道の旅」です。バイカル湖の区間を除いてあと1年で完成するシベリア横断鉄道でしたが、ここではその旅の楽しさを一足早く満喫できるという触れ込みで、観客は長蛇の列を作っていました。
 それは実際に走っているような錯覚を伴うリアルな体感を味わえる壮大なシミュレーションマシンで、豪華な特別列車による夢のようなシベリア旅行をたっぷりと楽しませてくれるものでした。

100mを超える長大な会場には、実際のシベリア横断鉄道の車両が3両。貴賓室、寝室、広間、バーを備え、腕の立つシェフの料理を提供する食堂も付いた超豪華版で、観客は思い思いにそれぞれの車両に乗り込みます。席ごとに料金設定があったかもしれません。また、下の図を見ると、柵越しの立見席もあったことが分かります。この席はいちばん料金が安かったのでしょう。

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●「シベリア横断鉄道の旅」1900 右・観客席 左・何層もの背景画

車両の対面にはモスクワ・北京間を結ぶ40日間1万キロの汽車の旅で展望できるハイライトシーンが描かれた背景があり、それを車窓から展望するという趣向です。高さ7.6m、幅107mにも及ぶ巨大背景には、フランスの装飾家の手でモスクワ、オムスクの都市風景、イルクーツク、バイカル湖、万里の長城、北京の風景が描かれていて、列車の進行に応じてゆっくりと巻き取られて、次々と変化していくのです。

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●三層の背景画はエンドレスで、それぞれ回転スピードが異なる

更に、列車のスピード感を演出するために、奥の背景画は分速5m。中景の紗のスクリーンに描かれた潅木類は分速120m。一番手前、窓の下の小砂利を敷き詰めた水平ベルトは分速300mでそれぞれエンドレスで横移動するように考えられていたのでした。居ながらにして走る列車に乗った気分で、普段は味わえない海外旅行…どんなに壮観だったことでしょう。こんなパノラマ、今でも観てみたいと思いませんか。

●「マレオラマ」では船の揺れを体感

前記のシベリア横断鉄道の旅がスピード感を楽しむ趣向に対して、「マレオラマ」は船旅をテーマに、実際に船の揺れを味わえるように設計されたシミュレータでした。つまり、観客を乗せる甲板は、ローリング(横揺れ)、ピッチング(縦揺れ)機構によって波の動きを体感できるようになっていたのです。

航路はニースを発ってトルコのコンスタンチノープル(イスタンブール)まで、イタリア半島一周の大航海。観客は実物大の船の甲板に立って右舷と左舷に展開する(絵による)風景を楽しむことができました。

この2種の背景画はそれぞれ縦12m、総延長760mという桁外れの大きさ。この大作を描くために画家が1年間の特別航海を敢行してスケッチし、その情景を大勢の画家たちが8ヶ月も掛けて画き上げたもので、合計20000㎡にもおよぶものでした。

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●観客席である船のデッキと背景画の位置関係、および揺らす装置と背景画フロート

この背景画は、甲板の両端に見えないように設定された巨大な巻き取り軸に巻いてありました。その重量はまた大変なものですから、それを支えてスムースに回転されるために、巻き取り軸の下部はフロート(浮き)で浮かせてありました。

また、揺れを起す装置は羅針盤の平行維持装置を巨大化したものでした。その他にも電動ポンプ、水圧エンジンなどに当時の最新テクノロジーが投入されていたということです。揺れに弱い観客には、気分が悪くなることまでシミュレートされていたかもしれません。

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●巻き取り軸に巻かれた背景画がフロートで浮いている

●映画がパノラマのお株を奪った

前回の気球、今回の列車、汽船の窓から眺めた風景は、そこに映画の撮影機をセットしさえすれば、そのままパノラマ映画になるほどの精細なものでした。そうした撮影法がパノラミング(略してパン)と呼ばれるゆえんです。

また・風景の書割の代わりにスクリーンを設定し、その裏から汽車の窓から写した景色を上映すれば、それはもう本物の風景です。この手法は後にスクリーン・プロセスと呼ばれます。

 このように、立体パノラマが驚くべき臨場感で見せていた広大な光景は、ご存知のように20世紀には、スクリーンに巨大な情景を映し出せる映画が肩代わりするようになります。
 行ったことも無い国、見たことも無い場所への憧れを満たしてくれていた巨大パノラマは、映画の登場によりやがて廃れ、消えていく運命をたどるのです。
 

★「1900年、パリ万国博覧会」、あと1回つづきます。

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047 100年以上も前に、トーキー映画? [1900年、パリ万国博]

047 100年以上も前に、トーキー映画

 1900年、パリ万国博覧会―2

音声映画と万博ドキュメンタリー映画 
 

1898-2.JPG 1894ジスモンダ-2.JPG
フランスの人気女優サラ・ベルナール 1898年(M31)頃 
 と ミュシャによる「ジスモンダ」のポスター

 前回からの続きです。

1900(M33)年の第5回パリ国際万国博では、まだとてもトーキー映画とは呼べないながら、音の付いた映画が上映されました。また、すでに立体画像の原理は解明されていましたから、赤青メガネで見る立体写真も上映されたようです。つまり、誕生してわずか5年、115年前の〈動く写真〉は、早くも手彩色ながらカラー映画の体裁を持ち、試験的ながら音声を備え、更に立体映像までもが一通り登場しているのです。

  ということは、写真が動き出したとたんに、このように現実の時間と空間をそのままの状態で〈コピー〉することが当然のことのように発想されていたということです。1900年のパリ万博はまさに、映画がタイムマシンとしての
機能を備えるための試金石ともいうべき場であったのです。

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●赤と青の色眼鏡で立体映像を見る観客 ただしこのイラストは1890年のもの

●映写は手回し。音声は蝋管蓄音機。

フランス人フェリクス・メスギッシュは、1896年リュミエール社が始めた「シネマトグラフ世界紀行取材班」の技師として北米各地を記録して回っていた経験者ですが、パリ万博では音の出る映画「フォノラマ」の技師として参加していました。1880年代から蓄音機と合体させて音の出る動く写真の研究を始めた科学者は何人かおりましたが、彼は仲間と三人で同時録音用のマイク式蓄音機を開発し、「シネマトグラフ」と同調(まだ同期と呼べるような技術ではない)させる音声映画の特許を取りました。

それを聞き及んだ大西洋汽船会社が、「これは話題になる」とパビリオンのスポンサーになっていました。パリの街頭風景では、雑踏、話し声、物売りの声など。歌手の歌なども上映されたようです。パビリオンの装置とフィルムの現像はゴーモン社が請負い、フィルムは例によって手彩色による擬似カラー映画として上映されました。


●名女優サラ・ベルナールも出演。

一方、クレマン・モーリスの映画劇場「フォノ・シネマ・テアトル」では、お芝居の音声映画を楽しむことができました。彼はポートレート写真家というコネクションをフルに生かして、知り合いの俳優や歌手を集めました。

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●左/「フォノ・シネマ・テアトル」のポスター
   最下段に「ハムレット」サラ・ベルナールとある。
 右/ミュシャが描いたサラ・ベルナールのポスター(部分)

中でも話題を呼んだのは、舞台の人気女優サラ・ベルナールの出演です。1870年以降、大女優の名を欲しいままにし、エジソンが発明した蓄音機の蝋管にも彼女の声が録音されているという彼女。そして1885年には、彼女をポスターに描いた無名の挿絵画家アルフォンス・ミュシャを一躍有名にし、そのポスターによってアール・ヌーヴォーの象徴と称えられた彼女が「ハムレット」の主役を演じ、台詞を話し、迫力満点の決闘シーンを見せてくれるとあっては、人気が高まらない訳はありません。

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●「ハムレット」で主人公ハムレットを演じるサラ・ベルナール(左)

  「フォノ・シネマ・テアトル」ではこの他に「シラノ・ド・ベルジュラック」「才女気取り」といったおなじみの出し物が、音声を伴って上映されました。

観客は音声をラッパ型の拡声器で聞くか、各自がイヤフォンで聞く形式だったようですが、スクリーンで演じている役者の台詞が動きといっしょに聞こえてくることに、どんなに驚いたことでしょうか。

サラ・ベルナールは当時56歳ですが、1907年以降フランスに興る「フィルム・ダール」という映画運動に参加して中心的な役割を果たしていきます。




●音の出る映画も、手回し映写で音合わせ。

 また、パテ・フレール社も「シネフォノグラフィック(映画蓄音機)」と称するものを出展していました。これも蝋管蓄音機の音声を拡大して聞かせるものです。
 撮影も映写も手回しの時代です。どの音声映画も機械的に画面と音声を同期させる方法は考えられておらず、映写室の映写技師は蓄音機の音をイヤフォンで聞きながら、画面とうまく合うように、映写機の回転ハンドルを回していたのでした。

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●パテ・フレール社による音声同調映画。
 右の映写技師が、音声と映像が合うように映写機のクランクを回した。



●時代遅れの「キネトスコープ」も使い方次第。

 ところで、1900年パリ万博の映像展示の中に、前回紹介した超大型映像とは対極にある小規模な展示上映のイラストがあります。

並べられた数台の映写機は、50フィートフィルムをエンドレス上映するエディスン社の「上映式キネトスコープ」のように見えます。小さいスクリーンの後ろからそれぞれ別々の映画を映していますが、次から次へと順に移動して観る映像展示手法として、11分程度の長さがちょうど良かったのでしょう。

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●図中央の仕切りに設定されたスクリーン窓に映る映画を順番に見ていく展示方式。



   
各社こぞって、会場記録に映画が大活躍。

地元のリュミエール社、スター・フィルム社、パテ・フレール社、ゴーモン社はもとより、アメリカのエディスン社も加わって、博覧会の情景は克明に映画に記録されました。

 特にスター・フィルム社のジョルジュ・メリエスは、他社の追随を許さないコンテンツとしてパノラマで撮影することに主眼を置きました。実はあの360度シアター「シネオラマ」のグリモワン・サンソンから、撮影機を360度回転させることができる回転軸のアイディアを提供してもらっていたのです。
  早速、自分の所有するロベール・ウーダン劇場で機械仕掛けの自動人形を組み立てている技師にそれを作らせました。「シャンドマルス」「セーヌ川から見たパノラマ」「アンヴァリッド」「シャンゼリゼ大通りとプチ・パレ」など会場の様子を活写した360度パノラマ映画はこうして生まれました。

 各社とも、自社が販売した映写機用のコンテンツとして世界の代理店に供給するために撮影されたフィルムは、図らずも20世紀の始まりを後世に残す貴重なタイムカプセルとなったのでした。

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●リュミエール社による万博記録映画 1900

●無音 90秒
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●可動歩道 遅い/中間/速い・・・三連の動く歩道

★1900年、パリ万国博覧会の記事はまだ続きます。

 次回はパノラマ。といっても仰天パノラマ。またまた奇想天外なお話になりますよ。








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