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066 アメリカンドリームを、絵に描いたような…グリフィス② [表現の功労者]

066 アメリカンドリームを、絵に描いたような…
       デビッド・ウォーク・グリフィス―②

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● 「アメリカの恋人」と呼ばれたメアリー・ピックフォード

 1905年には全米でわずか数100軒だった「ニッケル・オデオン」(映画館)は、1908年には10,000軒を突破。
 映画産業急成長のさなかの1907
年、エディスン社で俳優としてデビューしたD・W・グリフィスが本当に映画づくりの面白さを知ったのは、エディスン社のライバルであるバイオグラフ社に移ってからでした。

●俳優をやめて、監督業に
 バイオグラフ社に入ったデビッド・グリフィスと妻のリンダ・ア-ヴィドスン。その最初の仕事は、場末のペニー・アーケードなどで需要が続いている同社の売り物、覗き見式「ミュートスコープ」向けパラパラ動画への出演でした。一方グリフィスは短編映画のアイディアやシナリオも書き続け、採用されるとギャラに加えられるようになりました。

ミュートスコープ.jpg ミュート スコープ.JPG
●コインを入れて覗き見るパラパラ動画「ミュートスコープ」 

 こうして夫婦で10本ほどのパラパラ動画に出演した頃、妻のリンダが活劇映画の主役に抜擢されました。「ニッケル・オデオン」で上映されるのです。グリフィスは脇役として出演したのですが、完成試写で自分の演技を見たグリフィスは失望。二度とカメラの前に立ちたくないと思いました。それがかえって、俳優よりも監督への志向を強めたのでした。

IMGP8668.JPG●D・W・グリフィス

 その夢が実現したのは1908年6月のことでした。上層部につながりを持つ撮影技師ビリー・ピッツァ―が推薦してくれたのです。今では「国民の創生」「イントレランス」という超大作の監督として知られるグリフィスですが、最初からスケールの大きい作品を作っていたわけではありません。「ドリーの冒険」。それがグリフィスの監督デビュー作でした。240メートル。10分ほどの短編です。 

 少女ドリーがさらわれて、馬車に引かせた荷車の樽の中に閉じ込められてしまいます。疾走する馬車の揺れで樽のひもは緩み、ドリーを閉じ込めたまま樽は路上に。疾走する馬車。転がる樽。そしてとうとう樽は河に落ち、波にもまれて流されていきます。流れは次第に急流となり、あわや、というときに釣り人に発見され、無事にドリーは助け出される、というお話です。 


●名優との出会いが創作意欲を拡大

 「ドリーの冒険」は大ヒット。グリフィスはバイオグラフ社の監督として、映画特許会社(MPPC)の決まりに添って毎週300メートルの作品1本と150~200メートルの作品1本を作り続けることになりました。その一方で、俳優の採用やスカウトも任されるようになりました。急カーブで発展途上の映画界は、ライターや監督に限らず、常に新しい俳優を必要としていたのです。

 実際にグリフィスは「ドリーの冒険」で、アーサー・ジョンスンという青年をスカウトしました。また、ヴァイタグラフ社から引き抜かれ、衣装やシナリオにも堪能な女優、フローレンス・ローレンスを自分のシリーズ作品に起用しました。そして、ビリー・ビッツァ―とはその後コンビを組むようになります。

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●フローレンス・ローレンス                     ●ビリー・ピッツァ―


 また翌年グリフィスは、エディスン社から移籍したばかりのマック・セネットに勧められて、彼の主演による「カーテンレール」という短編も作っています。
 フランスのコメディアン、マックス・ランデを尊敬するセネットのプランによるもので、長いカーテンレールを馬車に横に積み込んだために起きるドタバタ喜劇(スラップスティック・コメディ)ですが、あたかもフランスの喜劇映画を見るような味わいがあります。
 けれどもはじめは誰でも先駆者の模倣から始まるもの。細かく見ると群集劇としての演出やカット変わりの編集の仕方などに、すでにグリフィスの才覚が現れている作品と見ることができます。

 ●「カーテンレール」1909 121
●時代背景 1908年、T型フォード生産開始
1908 t型生産開始.JPG   1908 T型生産開始.JPG
 馬車に代わってドタバタコメディに自動車がバンバン登場するようになります。

 このように彼がすぐに監督の仕事をこなせたのは、戯曲やシナリオの修行を積んできたからこそ、といえるでしょう。まるでアメリカン・ドリームを絵に描いたような絶好調な滑り出し。いや、反対にこのようなサクセスストーリーからアメリカン・ドリームという言葉が生まれたのかもしれませんね。


●俳優に厳しかったグリフィス
 当時のD・W・グリフィスの幸運は、たくさんの名優に恵まれたことでした。1909年、16才のメアリー・ピックフォードを起用。5才からステージに立っていたメアリーはバイオグラフ社で70以上の作品に出演していましたが、グリフィスの元でスリラーや西部劇などに出演し、役柄の幅を広げて有名になり、「アメリカの恋人」と呼ばれるまでになりました。

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●1910年頃のニッケル・オデオン 完全な映画館スタイルが確立している

 グリフィスは立場を利用して女優たちと付き合うようなことは決してしませんでした。それは演技指導には役に立たないとして、むしろ厳しい姿勢を貫いたといわれています。(女優の奥さんが同じスタジオで仕事をしていたからかも知れない、なんて)
 有名になったメアリーは21でグリフィスの元を離れます。別れ際にグリフィスが彼女に言った言葉は「君を作ったのは私だということを忘れるな」。

 そんなグリフィスにとっていちばんの収穫は、メアリーがスタジオに招待したリリアンとドロシーのギッシュ姉妹に出会ったことでした。彼はとりわけリリアン・ギッシュに関心を寄せました。

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●リリアン(左)とドロシー(右)のギッシュ姉妹

●ドラマの盛り上げ方を編み出したグリフィスの手腕
 1912年製作の「見えざる敵」では、拳銃の大胆なクロースアップが部屋に閉じ込められたギッシュ姉妹の恐怖を観客に共有させます。

 家に電話をかけても通じない父親の心配。ようやく仲間に連絡が取れても、途中のアクシデントでなかなか車が到着できないもどかしさ。それが姉妹と車の仲間を交互につなぐ(カットバック or クロスカット)ことによって危機感を高めていきます。やがて姉妹の恐怖は極限に達し、健気にも意を決して拳銃を奪おうとする姉。が、銃口を向けられて卒倒してしまいます。

 ●「見えざる敵」1912

 この作品では、彼の師であるエドウィン・ポーターが作った「あるアメリカ消防夫の生活」のような、誰が何をやっているのかよく分からないといった撮り方やつなぎ方は全くみられません。

エドウィン・S・ポーター.jpg シーケンス cc.jpg
●エドウィン・ポーター「あるアメリカ消防夫の生活」(1902)では、
 まだ全身像の描写から抜け出せなかった。

 ポーターの映画では人物はすべて全身像だったからなのですが、グリフィスは正面から、脇から、引いたり寄ったりして自在にカメラポジションを移すと同時に、カメラアングルフレームサイズを変えています。どのように撮り、どのようにつなげば自分が伝えたいことを表現出来るか。それは彼が短編製作の中で試行錯誤の末編み出した手法であり、それがとりもなおさず<映像で語る>ということの実践であったのです。
 ここにはすでに、今日の私たちが観ているサスペンス映画と同じ手法によってドラマの興奮が高められているのです。

■「見えざる敵」のカットバック
 左の室内と右の野外の情景が交互につながれて同時進行を表している
 また人物の大きさが、全身からクロース・アップまで変化に富んでいる

シーケンス 01.jpgシーケンス 04.jpg
①                  ②

シーケンス 05.JPGシーケンス 06.JPG
③                  ④

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⑤                  ⑥

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 これらの俳優たちが、そしてこれらの作品づくりの経験が、グリフィスの頭の中でおぼろげながら揺らいでいる新しい構想を次第に明確にしてくれることになります。けれどもそれは数年先のこと。今、彼が目の前の現実として注目しなければならなかったのは、1910年にジョバンニ・パストローネが発表した壮大な歴史劇「トロイ陥落」の大成功に代表されるイタリア映画の躍進ぶりでした。


●アメリカで本格映画会社と呼べるかたちの芽生え 
 ところで、1900年代早々から人気急上昇の「ニッケル・オデオン」ですが、その経営やショー・ビジネスなどを足掛かりにして、1910年前後からその後のアメリカ映画界を代表する傑物たちが台頭し始めていました。彼らの多くはユダヤ人で、東欧や中欧からの移民でした。

 ポーランド移民の4兄弟ワーナー・ブラザーズは1903年にニューキャッスルにストア・ショーの「カスケード座」を開業後、1923年に「ワーナーブラザーズ・ピクチャーズ」を設立します。。
 のちに「パラマウント映画」の創設者となるアドルフ・ズーカーはハンガリー生まれの毛皮商でしたが、エドウィン・ポーターの「大列車強盗」の人気を見て、映画の隆盛を予見。毛皮工場で働いていたオーストリア移民のマーカス・ロウといっしょに「ニッケル・オデオン」を始めます。マーカス・ロウはその後1910年に「MGM(メトロ・ゴールドウィン・メイヤー)」の設立に参加します。
 ハンガリー生まれの裁縫師ウィリアム・フォックスは1906年にブルックリンに「ペニー・アーケード」を開館したことを皮切りに、1909年にはニューヨークに本格的な映画館「シティ劇場」をオープンします。こうして地盤を整えたのち、1915年に「20世紀フォックス」を立ち上げます。
 「ユニバーサル映画」の創始者、ドイツ生まれの洋服セールスマン、カール・レムリ(カール・レムレエ)は、1906年にショー・ハウスを開館しますが、次第に映画作りに舵を取り始めます。
また、「コロンビア映画」は一足遅れて1917年に、カール・レムリの秘書を経て業界のマナーを学んだ、軽演劇の役者上がりのハリー・コーンにより創設されます。

カール・レムリ Carl Laemmle.jpg●カール・レムリ

 彼らにはまだ映画を新しい産業として推進しようなどという高邁な考えはありませんでした。ましてや芸術などとは思いもよりませんでした。ただ、それまであいまいだった「製作」「配給」「上映」を個別の事業として明確に区別して利益を上げようとする、はっきりとした目的がありました。

 アメリカの映画事業者たちは、映画は決して知的なものでも高尚なものでもなく、ただ自分たちのような移民が体験した苦境を忘れさせ、低所得者層の願望をひと時なりとも叶えて上げたいという心意気がありました。そのあたりが、娯楽重視のアメリカ映画を形作った根幹をなしているのかもしれません。

 1908年には彼らも、トーマス・エディスンの肝入りで発足した映画特許会社(MPPC)に無理やり組み込まれた興業者の一人ということになります。従ってMPPCは、彼らの精力的な動きに対して最初からかなりの無理をはらんでいたためにやがては瓦解せざるを得ないことになるのですが、それはまだまだ先の話です。                    

つづく

★掲出の動画は本来サイレントですが、音楽・効果音は後世に公開当時を想定して擬似的に付けられたものです。

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065 土に合い、水になじめば、花は咲く・・・D・W・グリフィス [表現の功労者]

065 土に合い、水になじめば、花は咲く
       デビッド・ウォーク・グリフィス―①

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●時代背景 1900年代初頭のニューヨーク

  アメリカにおける映画事業の独占が、エディスン社主導の元にMPPCMotion Picture Patent Company)の名称でようやくまとまろうとしている頃、組織を構成する1社であるバイオグラフ社に現れた若い夫婦。
  彼は才能を開花させる場所を得て、数年でアメリカ映画を、いや世界映画史に残る偉業を示
すことになります。


●ご存知なら、あなたも映画通

  デビッド
・W・グリフィスは、今日「映画の父」として、映画関係者ならずとも映画大好き人間なら誰でも知っている有名人です。映画の技術的な発明はリュミエール兄弟ですが、グリフィスは映画の表現手法を編み出し、映画言語の基盤を確立したからです。
  つまり、それまでに見られたような、舞台劇をそのままフィルムに移し変えたような退屈なものではなく、撮影段階とその後の編集の工夫で、動く写真Motion Picture
)でしか表現できない映画ならではの見せ方を発見し、提示したのです。

GRIFFITH.jpeg●D・W・グリフィス

  彼が映画監督として歴史に刻んだ代表作は「国民の創生」(1915)と「イントレランス」(1916)ですが、そんな彼も最初はなかなか望む場所を得られずに遠回りをしていたようです。なぜなら、彼がバイオグラフ社に現れる前は、エディスン社にも足を運んで試行錯誤しているのです。


●演劇の演出家になりたかったグリフィス
  グリフィスは南北戦争が終結した10年後の1875年に、リンカーン大統領と同じケンタッキー州で生まれました。アメリカ北部と南部のちょうど中間に位置するケンタッキー州の大方は北軍に属したのですが、大農園を経営する父は奴隷解放に反対し、南軍で戦いました。
 戦後、農地と奴隷は解放され、グリフィスの少年時代は困窮を極めていました。そんな中でも両親は彼に高い教育を受けさせました。

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●ケンタッキー州は奴隷制をとっていたので、南北戦争では両軍に分かれた 1861

 成長するにつれグリフィスは、自分が文系に向いていることを知り、小説や戯曲を書き始めました。彼の中にはすでに舞台の演出家になりたいという明確な願望が芽生えていたようです。
 映画誕生とされる1895年はグリフィスが20歳の時になります。その頃の映画は見世物の域を出ず、演劇よりもはるかに低俗なもので、演出家を志すグリフィスの眼中には無かったと思われます。成人するとグリフィスは演劇活動も始めました。ライターも俳優も、彼にとっては演劇の演出家という最終目的達成のためのステップだったと思われます。

 グリフィスが俳優としてニューヨーク・デビューを果たしたのは
31歳の頃でした。同じ俳優のリンダ・ア-ヴィドスンと知り合い、結婚。でも芝居ではなかなか二人の生活費は稼げません。ところが映画は世の中の人気を得て、今や芝居をしのぎそうな勢いです。そこで彼は手持ちの戯曲の売込みを思い立ち、どうせなら、と業界トップのエディスン社に当たってみました。1907年の春のことです。

エドウィン・S・ポーター.jpgエドウィン・ポーターと彼の代表作
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●「あるアメリカ消防夫の生活」1902    ●「大列車強盗」1903 

 グリフィスに会ったのは、あの「大列車強盗」の監督で名高いエドウィン・S・ポーターでした。ポーターは、ルックスもよく役者もやっているというグリフィスを一目見て、これは俳優として使えると直感しました。当時ポーターは週単位でニッケルオデオンに配給するための短編映画の製作に追われ、いつもと違う新鮮な役者の登用の必要性を感じていたのです。


●まずはエジソン社で、映画俳優としてスタート

 ポーターはグリフィスの持ち込んだ戯曲…それは「トスカ」の翻案でしたが…に一応の敬意は払いながらも、自分で構想していたアクション映画にグリフィスを起用することにしました。芝居の戯曲として書かれたものをそのまま映画のシナリオとしては使えないことをポーターは知っていたからかも知れません。根本的な違い。それは演劇は限られた舞台空間でしか展開できませんが、映画にはその制約が全く無いことです。当時の映画人はやっとその違いに気づき始めた頃なのです。

 エドウィン・ポーター監督の新作は「鷲の巣から救われて」。
 
岩山の平地にある開拓者の家。外で遊ぶ幼い息子を残して母親が家の中に入ったその瞬間、大鷲が息子を文字通り鷲づかみにしてさらって行きます。鷲の巣を探し当てた父親・つまりグリフィスが仲間の協力でロープを伝って崖を降り、息子を助け上げようとしたところ、襲い来る大鷲。壮絶な格闘。ようやく大鷲を倒してグリフィスは息子と共にロープで引き上げられていきます。めでたしめでたし。

 ●「鷲ノ巣から救われて」1907 無音 57秒
 
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             鷲の巣から.JPG 
●2点とも「鷲ノ巣から救われて」1907 役者として出演しているグリフィス

 物語は他愛なく、映画とは言えセットもまだまだ芝居の舞台の域を出ていません。大鷲と息子を吊り上げて背景の絵を巻き取ることで鷲の飛行を表現していますが、1900年パリ万国博における巨大パノラマの視覚効果が応用されていることが分かります。

 いずれにしてもポーターのこの作品は「大列車強盗」をしのぐ出来ではなく、グリフィスの映画デビュー作品として知られているようです。それにしても舞台装置家ロバート・マーフィの手による大鷲とその操演にこそ注目すべきでしょう。


IMGP8246ok.jpg1907.JPG
●鷲は左のパノラマの応用で、背景画を左に移動させることで飛行感を出している 

(この発展形がスクリーンプロセス。止まっている車の背景スクリーンに、走る車から撮影した風景を投影して実際に走っているように見せるテクニックは現在も使われている)


●どっちの水が甘いか

 「鷲の巣から救われて」(1908)は興行的にはなかなか評判が良かったので、グリフィスは映画も面白そうだという気がしてきました。ポーターの映画づくりの手法は、自分が考えていた演劇の演出家の仕事と基本的には同じものだったからです。戯曲を書いたりした経験を持つ自分なら映画監督も悪くない。食うために探し当てた映画の世界で自分の力が試せるなら、一丁やってみようか。…けれども入社早々で映画1本に出演しただけのグリフィスを、すぐに映画監督にしてくれる人はおりません。

P1120784.JPG ディクスン.png 
●時代背景 T型フォードが街にあふれている 1908                  ●ウィリアム・ディクスン 

 そこでグリフィスはリンダといっしょに、エディスン社の最強のライバル、あのウィリアム・ディクスンが在籍するバイオグラフ社を訪れたのでした。ショービジネスの世界における当時の求職活動というのは、ボードヴィルの役者もマジシャンもサーカスのジャグラーも空中ブランコも、大抵、家族か夫婦か恋人同士かでコンビを組んで会社訪問をし、面接を受けてその場で採用・不採用が言い渡されるというようなやり方が普通でした。

 案ずるより生むが安し。バイオグラフ社では、グリフィスの持ち込んだシナリオと二人の役者としての素養を読み取って、夫婦込みで俳優として契約してくれたのでした。
 エディスン社を辞してバイオグラフ社に移籍したデビッド・グリフィス。そこから水を得た魚のように、彼の本領が発揮されていくことになります。  
                                            
つづく


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064 9人だけれど「独り占め」・映画特許会社 [映画をめぐる確執]

064  9人だけれど「独り占め」
      映画特許戦争-② 

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●ニューヨーク郊外、ウェストオレンジのエディスン研究所 1900年頃

前回からの続きです。

●1社独占はおよしなさい。
 1907年.映画の「配給」をある程度抑えることに成功したエディスン社の次の策略。それは「製作」の独占でした。
 エディスン社の相次ぐ提訴で競合する映画会社は沈黙させられ、今や映画市場はエディスン社と宿敵バイオグラフ社の2社による寡占状態になっていたのですが、エディスン社ではなんとかそのバイオグラフ社も排斥し、市場からの撤退に追い込みたいと考えていました。
 バイオグラフ社・・・12年前の1895年にエディスンと袂を分かったウィリアム・ディクソンが取締役として在籍する最強のライバル会社です。

ウィリアム・ディクスン.JPG●ウィリアム・ディクスン

 こうして1908年は、映画史にとって大きな転機を迎えることになりました。

 
製作の基盤は生フィルムです。フィルムを押さえることは映画産業の要を握ること。エディスン社の策士、法律顧問のウィリアム・ギルモアは、映画製作会社のカルテルの形成をめざし、1900年代初めにアメリカの90パーセントのフィルム需要をまかなう独占企業に成長していたイーストマン・コダック社のジョージ・イーストマンを囲い込むことを画策しました。

ウィリアム E ギルモア2.jpg●ウィリアム・ギルモア

 彼の耳には同社が、1897年5月に発生したチャリティ・バザールの大惨事以来研究を続けている不燃性フィルムの完成(1909年秋)が目前であるというニュースが伝わっていました。ギルモアの考えは、そのフィルムを含めて、映画に関するすべての権利
をエディスン社1社で独占することでした。

eastman_portrait.jpg●ジョージ・イーストマン

  話を受けたイーストマンはエディスンに会い、「製作、プリント、配給、興行まで、映画のすべてを独占することは、あなたにとって決してプラスとはならないでしょう。私たちにとって重要なことは、なによりも良い映画を作ることではないですか。私が考えているのは、世界をリードしているアメリカとフランスのメジャー映画会社によるカルテル(同一業種の連合)です」と伝えました。

 イーストマンはフランスの会社を2社仲間に入れることを考えていました。1社は敬愛して止まないジョルジュ・メリエススター・フィルム社。その加盟をぜひエディスンに認めさせたい。
 物語映画の祖とされるメリエスは、この頃、旧態依然の作品で人気に陰りを見せ始めていたとはいえ、1905年には「千一夜物語」(440m)と「リップ・ヴァン・ウィンクルの伝説」(405m)
。1907年には「海底20万マイル」(265m)という30シーンもある大作を発表。舞台劇風芸術路線の作風を曲げないで、巧妙なトリックを使った映画製作はまだまだ健在でした。

SN00059.png シャルル・パテ2.JPG
●ジョルジュ・メリエス    ●シャルル・パテ

 もう1社はパテ・フレール社。同社はそれまでイーストマン・コダック社の最大の得意先でしたが、1906年には同社に対抗してフィルム生産工場を開設。1日の生産量は12,000メートルにもおよび、イーストマン・コダック社をしのいでいました。そのためエディスン社でもパテ・フレール社なしでのカルテルは考えられないはずです。
 イーストマンにしてみれば、自社のフィルムはヨーロッパでもどんどん使って欲しい。その意味でエディスン社の連合に供給を限定するメリットは薄いのですが、エディスン社と話をまとめるためには妥協も必要でした。

 なお、映画発明の栄誉を担うリュミエール社は、1897年3月にマッキンリー大統領の保護政策でアメリカから追い払われるように撤退を余儀なくされた後は、映画製作への情熱は消滅したかのようでした。
 同社は1902年に映画関係機材の特許をすべてパテ・フレール社に売り、元々の写真材料の生産と映画専門館の事業へと方向転換を図っていましたから、イーストマンの考えの対象にはならなかったようでした。

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トーマス・エディスン 

●それじゃ、グループで独占しようじゃないか
 
ところがエディスン社では早速、カルテルよりも強力な独占力を持つトラスト(同一業種の合同)の形成に向けて動き出しました。そこには法律家フランク・ダイヤーの考えが反映していたと見ていいでしょう。

 建前は、フィルムの無断コピーを禁止することによって品質の確保を図ること。次に、同業間における無駄な競合を排除するため、というものでした。
 中味は、エディスンの持つ映画特許のすべてについて共同利用を許可する代わりに、製作される作品のすべてから特許料を徴収すること。また、加盟会社以外の映画を扱う配給業者には加盟会社の映画を配給しない、というものでした。

 更に加盟会社にとって魅力だったのは、イーストマン・コダック社は加盟会社にだけ生フィルムを供給するということでした。フィルムの供給を断たれれば、映画は作れません。「仲間になれば面倒を見てやる。従わなければ映画は作らせない」という、これはエディスン社によるあからさまな映画産業の独占宣言でした。


●持つべきものは「切り札」
  
 このトラスト編成に対してバイオグラフ社が黙っているはずはありません。それはエディスン社に対して徹底抗戦できる切り札を持っていたからです。   
 バイオグラフ社はそれを元に、大銀行でこのあとタイタニック号(1912)の実質的なオーナーとなる金融界の総帥モルガングループを後ろ盾に、加盟18社を結集した対抗トラストを結成します。
 対するエディスン社は、スタンダードオイルで石油業界を独占するロックフェラーグループの支持を得ていました。こうして財界を巻き込んで一触即発の危機にまで至ったのですが、そこで効果を発揮したのがバイオグラフ社の切り札です。


●映画特許会社(MPPC)の設立
 バイオグラフ社の切り札・・・それは、トーマス・エディスンの発明とされるものに含まれていて、実はウッドヴィル・レイサムの発明であるレイサム・ループ(フィルム送りのたるみ)と、トーマス・アーマットとチャールズ・ジェンキンスが発明したフィルムの間欠送り機構。この二つの特許をバイオグラフ社は彼らから譲り受けていたのでした。
 バイオグラフ社は、エディスン社の特許に自社のこの特許を加えて、利益を分配することをエディスン社に申し入れました。

ウッドヴィル・レイサム 1831-1911.jpg レイサムループ.jpg
●ウッドヴィル・レイサムとレイサム・ループ

1866-1948 Tomas Armat.jpg 1867-1934 チャールズ・ジェンキンス.jpg 
アーマットのファンタスコープ.JPG
●上左/トーマス・マット 上右/チャールズ・ジェンキンス
●下/アーマットがエジソンのところに持ち込んだ映写機「ファンタスコープ」
 

 こういう問題への対処はすべてフランク・ダイヤーの役割です。エディスン社としては到底受け入れられる条件ではありません。当然話し合いは物別れ。
 するとバイオグラフ社は、いちかばちかの大勝負に打って出ました。「我々は現実味の無い無駄な話し合いをこれ以上続けたいとは思わない。あくまでもエディスン社主導で映画市場を支配しようというのなら、わが社は直ちに自社の所有する映写機の特許を世界中に開放するだろう」。
 そんなことをされたらエディスン社の特許は意味がなくなってしまいます。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。バイオグラフ社のこのハッタリには、さすがのダイヤーも折れるしかありませんでした。

Edisom社.jpg●エジソン研究所 1908年頃

 こうして19081218日。ニューヨーク郊外ウェスト・オレンジのエディスン研究所に、バイオグラフ社、ヴァイタグラフ社(社長はスチュアート・ブラックトン)、ルービン社、シーリグ社、エッサネー社、カーレム社、それにフランスのパテ・フレール社、ジョルジュ・メリエスのスター・フィルム社の9つのメジャーが揃い、映画特許会社(MPPC Motion Picture Patent Company)が発足しました。
 これはメジャー各社が、エディスンを映写機の発明者として承認することでもありました。そして合衆国内では、この9社以外では映画を製作したり配給したりすることが出来なくなったのです。

 そしてこの年の暮れ、MPPCは各社の傘下にあるフィルムレンタル業者(配給社)と興業者を集めてMPPCの結成を告知しました。その席でエディスン社の取締役であり顧問弁護士のフランク・ダイヤーは声高らかに宣言しました。

 「今後アメリカでは、承認された製作者、承認された撮影機、承認された映写機によるものだけが上映されます。これらの映画は、承認された興業者が、承認されたフィルム賃貸業者を経て、承認された映画館で上映されることになります。すべての映画館は毎週2ドル。すべての賃貸業者は年間5000ドル。すべての製作者はフィルム1フィートにつき0.5セントの許可料をトラストに支払うことにご賛同ください」

 つまり、これにより、認可されていない競争相手や脆弱な賃貸業者を排除して映画市場の健全化を促し、いざという時には力になって上げよう、と言うわけです。

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●ロバト・ポール               ●レオン・ゴーモン

 この話が伝わると、ヨーロッパの国々の映画製作者から、いろいろ懸念の声が漏れてきました。MMPCのメンバーとなったジョルジュ・メリエスの元には、イギリスの友人ロバート・ポールから、アメリカ映画を求めているヨーロッパの市場はどうなるのかとの疑念が寄せられました。また、レオン・ゴーモンとイタリアのチネス社からは、自分たちも仲間に入れてもらえるようにエディスンに掛け合ってほしいと懇願されました。
 1900年以降、イタリア映画界の振興は目覚ましく、チネス社の他にはイタラ社、アンプロージオ社による「ローマの征服」「カラブリアの地震」といったスペクタクルな歴史劇路線の力作を生み出し始めていたのです。

 ともあれ、エディスン社の長かった特許10年戦争の幕は、一応降りました。この組織の内容は実際にはカルテルでしたが、周囲からは怖れを込めて「エディスン・トラスト」と呼ばれたものでした。
 エディスン社による1社独占をエディスンに提言し、それを実現できなかったウィリアム・ギルモアがエディスン社を去ったのは、それから間もなくのことでした。

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1908.12.19 MPPC設立の祝宴でかつてのライバルたちと集うエディスン(前列左)

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1908.12.18 MPPC設立に集まった9社の関係者 中央はトーマス・エディスン


●老兵は消え去るのみ
   
 10年にわたる特許戦争終結の功労者はフランク・ダイヤーであることについて、エディスン社内部で異論を唱える人はおりませんでした。エディスンの右腕だったウィリアム・ギルモアはあくまでも参謀の立場でした。トラスト設立に対して具体的な実績はありません。二人とも敏腕とはいえ、エディスンにとって統率者は二人も要らない。ギルモアが早々にエディスン社を去った裏には、彼自身にそういう判断が働いたのかもしれません。  
 そして、ギルモアの後釜としてウェスト・オレンジのエジソン研究所総支配人およびエディスン社副会長の座に座ったのはフランク・ダイヤーでした。

 このあとエディスン・トラストは、特許を盾に、違反会社に対してますます容赦の無い制裁を加えていきます。当時のことですから、違反会社の中には姑息な手段を弄したり、悪辣な手を使う配給業者もあったようです。が、いずれにしても彼らに対する法律上の実働部隊・執達吏の行使は、フランク・ダイヤーの兄、リチャード・ダイヤーが経営する法律事務所「ダイヤー&ダイヤー社」の仕事でした。

 また同時期、MMPCが映画の社会的、教育的使命を表向きに謳った倫理規定を敷衍するための「映画検閲国家委員会」も発足しました。こうして、アメリカ全土における映画の検閲制度が発足します。

  ところで、こうした特許戦争のさなかの1907年春。働き口を探してニューヨークにやってきたしがない俳優カップルがありました。二人は巡り巡ってバイオグラフ社の門をたたきます。その彼こそ、後の世に「映画の父」と称されるデビッド・ウォーク・グリフィス、その人でした。
                                                         つづく


デル株式会社
デル株式会社
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063 発明王エディスンのもう一つの顔 [映画をめぐる確執]

063 映画はいったい、だれのもの? 
       映画特許戦争-①  

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●時代背景 1910年代、ニューヨーク下町風景


 
1910年を挟んで、手回しだった撮影機や映写機が電動式となりました。フィルムも300メートル(1,000フィート)の長尺を使えるようになりました。長時間の娯楽を楽しめるようになった映画の人気は一気に高まります。
 
産業としての地位を確立した映画。利益は膨大。誰が覇権を握るか。1897年から続いているエディスン社による特許訴訟は更に過激になっていました。そこで展開されたのは、観客不在の仁義なき戦い”(古い!)でした。

   
●どこにでもありそうな話ですが…
 1891年にトーマス・エディスンの名前で特許申請がなされ、2年後に認められた「キネトスコープ」。この覗き見式動画機は、その後、トーマス・アーマットが発明したフィルム送りの間欠機構と、ウッドヴィル・レイサムが考案したフィルムのたるみレイサム・ループ)を採り入れて、「エディスンの新発明」との触れ込みで「ヴァイタスコープ」の名で、1896年に映写機として生まれ代わりました。
 エディスン社が1897年から
10年にわたって展開することになる500回を越える特許侵害訴訟(口頭弁論202回、控訴300回)は、逆から見れば、いかに当時の映画業界が、エディスンの発明とされた映写機の特許を疑問視していたかを物語っていると言えるでしょう。

7  edison 7.jpg ●トーマス・エディスン 
             
1866-1948 Tomas Armat.jpg  アーマットのファンタスコープ.JPG
●トーマス・アーマットと彼がエディスン社系列「ラフ&ギャモン商会」に持ち込んだ映写機ファンタスコープ
 
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                          ●ファンタスコープから生まれたヴァイタスコープ

ウッドヴィル・レイサム 1831-1911.jpg レイサムループ.jpg   
●ウッドヴィル・レイサムと
「ヴァイタスコープ」の機構のかなめの一つであるレイサム・ループ
 


 
エディスン社では当然、これだけのおびただしい紛争に早く決着を付けたいと考えていました。それを一番感じていたのはエディスン自身だったはずです。
 側近は阿吽(あうん)の呼吸で、早期決着のためにすばやく行動を起こしました。それはエディスン社がリーダーとなり、同業各社を従えて映画業界を独占するトラストをまとめ上げることでした。エディスンの特許を無視する会社を映画界から締め出すことが目的です。

 エディスン社では、すご腕の取締役・法律顧問
ウィリアム・ギルモアを参謀とすれば、10年にわたる長期の特許戦争を直接指揮したのは、最高顧問弁護士フランク・ダイヤーでした。法律事務所ダイヤー&ダイヤー社を率いるリチャード・ダイヤーの弟です。

 1897年から始まったAMC(アメリカン・ミュートスコープ・カンパニー)に関わる審理でフランク・ダイヤーは、一つのレンズで動く写真(Moving Picture)を撮影する装置を初めて作ったのはトーマス・A・エディスンであると主張します。この法廷は、弟フランク・ダイヤーが証言台に立ち、兄リチャード・ダイヤーが訊問に当たるという構図でした。このフランク・ダイヤーの主張はいったんは認められ、エディスン社は早速権利行使に入ります。

 けれども、数日後の法廷で、それ以前に単レンズ式撮影機を作り上げていたのはオーギュスタン・ル・プランスだと主張する彼の実弟アドルフ
・ル・プランスの証言に虚を突かれます。AMCはル・プランスの特許を使っていたこともあり、アドルフの証言を全面的に支援します。それによってエディスン側の論理はいったんは突き崩されそうになります。

LePrince.jpeg●オーギュスタン・ル・プランス

1889 ル・プランスの単レンズ式撮影機.jpg 単レンズ式.JPG
●オーギュスタン・ル・プランスの単レンズ式撮影機

 ところが、アドルフ/AMC側が決定的証拠となるその映写機の実物を提示できなかったため・・・既述の通り、1890年9月、オーギュスタン・ル・プランス、撮影機他一式とともに行方不明・・・1901年7月、法廷は「映画撮影機の発明者はトーマス・エディスン」との決定を下しました。その渦中で証人アドルフ・ル・プランスがファイヤー・アイランドで銃殺された姿で発見された事件も既述の通りです。

 その後さらに曲折を経て
1907年秋、シカゴの連邦裁判所でフランク・ダイヤーは、エディスンの特許を侵害する映写機を使った会社に対する訴訟に勝利。その判例は、その気になればいつでも、すべての映画製作者の上映を禁止できるほど強力な権利を保障したものでした。ここにエディスンは、アメリカの映画界で最高の権力を手にしたのでした。 

ウィリアム E ギルモア2.jpg●ウィリアム・ギルモア


 エディスン社がまず取り組んだのは、配給(流通)を押さえること。人気絶頂の
5セント映画館ニッケル・オデオンを牛耳ることでした。
 
1905年に初登場したニッケル・オデオンは瞬く間に全米に広がり、1908年には5000館を越え、1週間に1500万人もの観客動員数を記録するほどまでに急成長していました。そのためエディスン社だけでは製作が間に合わず、その間隙を縫うように中小零細の映画会社が製作したいろいろなフィルムが上映されていました。当然それらはエディスン社には無許可です。
 それは営業妨害だということで、エディスン社は自社の特許を認めようとしないこれらの製作・配給・レンタル業者を排斥するために動き出しました。

IMGP8356.JPG 初期の映写機 アーク灯使用.jpg
●ニッケル・オデオンの例 1906                       ●300mフィルム仕様の映写機


 次はPRです。エディスン社はシカゴ・トリビューン紙を動かして、ニッケル・オデオンが上映している映画は青少年の教育上好ましくないというキャンペーンを張りました。
 確かに中には公序良俗に反するような映画も上映されておりましたから、教育関係者や年少の子を持つ親たちは真っ先に、エディスン社のムーブメントを信頼できるものとして支持しました。そして遂にその運動が議会を動かして、全米に前例の無い映画の検閲制度が生まれました。
 もちろん検閲に合格する「良い映画」を作っているのは、エディスン社に特許料を納めている会社という訳です。
 この運動は、その後に続くエディスン社の戦略を隠蔽し、社会的支持を得るために効力を発揮することになります。

  1907年の暮れ。映画フィルムのレンタル業者を集めた会合で、フランク・ダイヤーはこう宣言しました。「撮影や上映のために雇われたあなた方は、先般のシカゴ連邦裁判所の判例が示す通り、すべてエディスン社の特許を利用しているとみなされる。従って、その業務に関わるものは誰でも規定の料金を支払わなければならない。これに違反すれば有罪を宣告されることになるだろう」  
 それまでに、エディスン社の、ライバルに対する執拗な訴訟のやり方を見聞きしていたフィルムレンタル業者たちは震いあがりました。 


●現在でもありそうな話ですが…
 頃はシカゴやニューヨークの場末の一角で、ギャング組織が地盤固めに取り掛かり始めていたような時代です。
 辣腕と悪辣は表裏一体。ギルモアやダイヤーのような、社会の裏側に通じている法律や政治の専門家は、新聞社、探偵社など情報ルートにも仲間を持ち、金で動く悪徳連中を背後に従えて、一皮向けばダークサイドのダースべーダー。

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●1900年代 ニューヨーク湾のエリス島に降り立った移民たち
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 彼らの常套手段はアメとムチ。日頃ライバル会社の動きをつかむために放っておいたスパイから情報が入ると、まずは部下を差し向け、表向きは低姿勢で慇懃無礼な"ご挨拶"。その手に乗らないとマスコミを巻き込んで、誹謗中傷の宣伝戦。それにも動じないと金を握らせて口封じ。これが実は最後通告で、それを撥ねつけられたとたん、手の平を反すように徹底した嫌がらせが始まる。
 もちろん彼らが直接姿をさらすことはないし、エディスンはあくまでも総帥として、どこかの国のお大臣のように「秘書がやったこと、私は関与しない」と、公衆の前でにこやかに微笑んでさえいれば、すべてはうまく運ぶのでした。

 それまでも、その後も、エディスン社の特許と称するものを受け入れない映画製作や配給会社には、その筋の男たちがいやがらせや殴り込みをかけて恐喝したり、暴力によって営業ができなくなる程に会社を破壊したり、という暴挙が続いていました。
 こうした様子は、ピーター・ボグダノヴィッチ監督によるそのものずばりの「ニッケル・オデオン」(1976)や、ハリウッド創生期を背景としたパオロ&ヴィットリオ・タヴィアーニ監督の「グッドモーニング・バビロン!」(1987)(未確認)など、当時の映画界を舞台にした映画に遠慮がちに描かれています。
 

 余談ですが、
こういったアンフェアなやり方は決して過去の話ではありません。政治の世界における政権争いや派閥争いを持ち出すまでもなく、程度の差こそあれ、身近なところでは会社内の出世争いや、仲良しの集まりであるはずの同好会にすら見受けられるようです。
 相手に肩書きがあればそれを鵜呑みにせず、その肩書きをどうして得たかという人間としての質を見極めることこそ大事。トップ
の覚えも良く、立派な肩書きで一見好人物。正論を唱え腕も立つように思える人間が、実は上役にはおべっかを使い、裏ではライバルの弱点を調べ上げ、恐喝まがいの悪辣な手段で引きずり降ろして成り上がった要注意人物だったりして。おのおのがた、ご油断めさるな。
                              つづく






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062 100年前、それは映画の分岐点 [技術と表現の進歩]

062 100年前、それは映画の分岐点-②
     劇場の添え物
から、「映画」として独立。

映写技師 20C初頭.jpg
●300メートルリールの手回し映写機を操作する映写技師 1910年代後半。
 左の助手が映写ハンドルを回すと巻取りリールも連動して回転する。
 

 前回は、1908年に映画フィルムの規格が確立し、35ミリ幅で300メートル(約1,000フィート)、しかも不燃性の長尺フィルムが生産されるようになったことをお話しました。それが長編映画時代への足ががりとなるのですが、まず取り掛からなければならなかったのは、そのフィルムを取り扱う環境づくりからでした。
 また、カメラマンと映写技師、照明、大道具・小道具、音響効果、衣装などは20世紀に入った頃から専業化していましたが、長編映画の製作が進むと、作品としてまとめ上げる人=監督と、演じる人=俳優とが明確に分けられるようになり、それぞれが専門性を要求されるようになりました。こうして最初は演劇の真似事をしていた映画は、ようやくそれとは異なる独自の方向を目指して歩き始めます。


●フィルムが長くなって映写機と撮影機が変わった
 
フィルム規格の確立は、まず映写機の改良につながりました。それまで100メートル程度のフィルムしか掛けられなかったリールが300メートルリールに変わり、手回しで約15分の連続上映が可能になったのです。1時間の映画ならリール4巻分。それを架け替えて、続けて上映すればいい訳です。

初期の映写機 アーク灯使用.jpg
●1909年、レンズの前に3枚羽根の回転シャッターを取り付けてフリッカーを軽減
 このあと回転シャッターは、本体内蔵に変わる



  翌1909年には、映画のちらつき(フリッカー)を低減させる3枚羽根の回転シャッターも開発されたので、観客は目を疲れさせずに見られるようになりました。
  同年にはまた、300メートルフィルムを使える撮影機も登場しました。それまでは木箱ひとつの中で17メートルのフィルムを回転させて撮影していたのですが、本体の外に300メートルのフィルムを装填する箱と、巻き取ったフィルムを収める箱を取り付けました。

デブリエ・パルボ35ミリカメラ 1908.jpg●これが最初のカメラのかたち 1900年頃
IMGP7930-2.JPG 長尺カメラ.jpeg
●長尺フィルム用撮影機 2例 1910年代


 この木箱様式の撮影機は、
1920年頃にはすべて二こぶラクダのような形をした金属製に変わります。300メートルフィルムを搭載できたことによって、フィルムを惜しげもなく回せるようになりました。同じカットを何回も撮り直すことで、演技の質が向上しました。

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●1920年代のダンディ式、じゃなかった電動式撮影機


●映写機2台による連続上映方式が定着
 
1巻15分の継続上映が可能になると、今度はそれを一つの単位として、30分以上の長い映画も作られるようになりました。すると、フィルム交換の時間が問題になってきました。せっかくいいところで何分も待たされたのでは、観客は興ざめです。そこは大繁盛の業界ですから、すぐに2台の映写機を並べて上映する方式が考えられました。

 1台目にロール1、2台目にロール2のフィルムを掛け、ロール1が終わる直前に2台目の映写機に切り替える。この辺りは映写技師の腕の見せ所なのですが、それを交互に繰り返すことによって、2時間でも3時間でもまったく切れ目無しに上映することが可能となったのです。この上映方式は1914年以前には始まっていたということです。


●撮影・上映は、ようやく手回しから電動式に
 
一方で、映写技師と撮影技師(カメラマン)の省力化にも開発の目が向けられました。長時間連続の手回しハンドル操作は疲れます。回転スピードが狂ったら困りますので、交代要員が付くようになりました。

 それもつかの間、1910年に小型電動モーターが開発されると、早速、撮影機、映写機に導入されることになりました。こうして場末の「小屋」と呼ばれるような映画館以外、映写機の動力はモーターに移行していき、1920年以降、電動方式が一般的になります。

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●1906年、ニッケル・オデオンは誕生以来1年でここまで成長。
 1910年にはアメリカだけで10.000館。1週間に3,000万人もの動員を記録するほどに成長する。


 前回、映画解説者や活動弁士はトーキー映画の出現によって失職してしまったことをお話しましたが、では電動モーターの出現によって映画のカメラマンや映写技師たちも失業してしまったのでしょうか。
 いやいや、彼らは撮影や映写に関する光学的・機械的な知識と技術を高いレベルで身につけていました。彼らの作業は軽減されこそすれ専門性はますます求められて、その立場は揺るぎませんでした。同じ「技」であり「専門家」でありながら、両者のちがいはどこにあるのでしょうか。

 電動式映写機には、電圧の変化に対応するため、映写スピードを116コマから24コマ程度までフレキシブルに変えられるダイヤルが付いていました。映画館に観客が殺到すると、熟練した映写技師は映写スピードを速めて客の回転率を高めるような操作もやったということです。


●映画は高尚な娯楽である
 
映画が産業として成長し始めると、世界中で映画が製作されるようになりました。
 元祖フランスでは、映画にも伝統的な芸術の味わいを採り入れようとしました。1907年に誕生したフィルム・ダール社(文字通り芸術映画社)は、低俗な見世物と思われている映画の社会的評価を高めるために、当代一流の作家を起用。晩年のサラ・ベルナールを初めとするそうそうたる舞台俳優を揃えて、「エリザベス女王」など数本の映画を製作しました。

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●1912年「エリザベス女王」臨終の場における舞台の大女優サラ・ベルナールの熱演


 1908年公開の長編「ギーズ公の暗殺」は、過去にリュミエール兄弟シャルル・パテもクライマックスの1場面を短編で制作しているほど有名な話でした。
 フィルム・ダール社は全場面の映画化に臨み、俳優の演技を軸に、美術、音楽(サン・サーンス作曲)を融合させ、映画美学というべきものを追求しようとしました。

 ●「ギーズ公の暗殺」1908 無音 50秒

 確かにこの映画は2時間以上におよび、長編映画のさきがけとも言えるものでした。けれども、残念ながらこの時代には映画の演技術とカメラワークが確立していなかったために、演劇そのものの大げさな演技と舞台をそのまま撮影するやり方は、新しいメディアとしての映画に求められる表現に逆行するものでした。観客は舞台そのものを見ているような映画に失望して結局は失敗。フィルム・ダール社は翌年早くも破産してしまいます。
 けれどもフィルム・ダール社の功績は、単なる娯楽と見られていた映画の前途を、娯楽から芸術までという幅広い領域にまで拡大したのでした。


●長編をつくるため、製作面が分業化
 
最初の映画は、例えばジョルジュ・メリエスのように、一人の製作者がストーリーを考え、自ら主役を演じていました。カメラマンはもちろん別ですが、メリエスは自分で舞台装置を設計し(建具作業は別ですが)、衣装をデザインし(裁縫は別ですが)、演技はすべて彼の頭の中にありました。それは短編だからこそ出来たこと。長編はそうは行きません。必然的に役割分担の必要が生じてきました。そこで役立ったのは、フィルム・ダール社の、演劇をベースにしたスタッフ、キャストの考え方です。

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●ジョルジュ・メリエス          ●エドウィン・ポーター


 現場で作品全体を仕切るのは監督。その指揮の元に撮影技師(カメラマン)、道具方、照明係、衣装係といったスタッフが働く仕組みが生まれました。監督としては「大列車強盗」を演出したエドウィン・ポーターはそのはしりといえるでしょう。
 また出演者は、当初フランスではコメディ・フランセーズの役者などでしたが、1910
年前後から前回述べた「ブロンコ・ビリー」のように、舞台以外から客を呼べる役者が登場してきました。これは間もなく映画俳優という新しい職業を形成していきます。

 こうして長編映画の製作・上映環境は着実に進展していきました。1910
年代後半には、途中の休憩を含めて2時間半程度の興行が一般的になりました。ここに、今日の上映形態に似た、映画館での楽しみ方が固まったわけです。


 これまで4回にわたり、カラー、音声、フィルムの長尺化、それが及ぼした影響についてまとめてきました。それぞれの全体的な流れを展望するためにかなり先までお話しましたが、次回からはタイムラインを再び1908年前後に戻して続けたいと思います。
 次回と次々回は映画史で避けて通れない、トーマス・エディスン主導の映画特許政策について押さえておきたいと思います。



 




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