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075 立場が変われば、正義も変わる。「国民の創生」③ [大作時代到来]

075 正義の味方も困りもの
     D・W・グリフィス「国民の創生」-③

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●「国民の創生」1915 小屋の人々の救援に駆けつけるKKK団の問題シーン

前回からの続きです。

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●作品も観客動員も空前のスケール
 D・W・グリフィス「国民の創生」1915年2月完成。フィルムリールは12巻、上映時間190分。1,500カットにも及ぶ大作でした。主演はグリフィス映画で育てられ、今や名女優として名高いリリアン・ギッシュと秘蔵っ子メイ・マーシュです。なおこの映画には、後に俳優や映画監督として活躍することになるラウォール・ウォルシュ、エリッヒ・フォン・シュトロハイム、ジョン・フォードなどが、助監督やエキストラとして出演しているということです。

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●D・W・グリフィス                      ●メイ・マーシュ

 イタリアの歴史劇をしのぐアメリカの大作を、とグリフィスが密かに意図して作り上げた「国民の創生」が完成すると、トライアングル社はこの作品を、トーマス・エディスン主導の映画特許会社(MPPC傘下にあるニッケル・オデオンとの差別化戦略として位置づけました。

 この大作は大作にふさわしい劇場規模で公開してこそ価値がある、ということで、当時最高の設備を誇るニューヨーク、ブロードウェイのリバティ劇場に交渉。25人のオーケストラと音響効果付き上映を条件に、演劇料金と同じ2ドルの料金を設定しました。音楽としてはワーグナーの「ワルキューレ」などが使われたということです。
 これが狙い通りの大当たり。5
セント映画館ニッケル・オデオンの4倍もの料金でありながら万雷の拍手で迎えられ、11ヶ月間続映という快挙を成し遂げたのでした。

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●ニッケル・オデオン以外で映画を最初に上映した劇場 
 ニューヨーク、マンハッタンの「
コースター&バイアルズミュージックホール」1890年代

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●おびえる子供の表情を、連続する3段階のカットで拡大して見せた場面。
 ズームよりもインパクトの強い効果を出すことに成功している。



 
このように「国民の創生」の成功はニッケル・オデオンに大打撃を与え、長編は作らない・上映しない、という映画特許会社(MPPC)の壊滅を促進させる導火線にもなるのですが、もっとも大事なことは、ここで初めて映画が単なる娯楽ではなく芸術として語られるようになったということなのです。 
 
 「国民の創生」は、総製作費
11万ドルという桁外れの巨費を投じ、売上は世界中で2,000万ドル以上と伝えられます。世界市場を相手に莫大な収益を狙い、巨額投資を行う大作主義。ブロックバスターと呼ばれるこの製作手法はこの時に生まれたと言われています。 


●思い付きだけで大作は作れない
 映画史の中にはグリフィスが、前年に発表されたイタリア映画の「カビリア」(1914)に触発されて「国民の創生」を作ったとするものがあります。けれども、これだけの大作が「カビリア」以後に企画され、完成に至るまでにわずか1年数ヶ月というのは短すぎると思われます。私は、グリフィスの心の中に、実父が戦争に参加した南北戦争というモチーフが常々存在していたのではないかと解釈しています。

IMGP8689.JPG●リリアン・ギッシュ

 これには、晩年のリリアン・ギッシュテレビのインタビューに答えて語った裏づけがあります。グリフィス映画でいつも中心的な役を演じていたリリアン・ギッシュは1993年2月に99歳で亡くなりましたが、その6年前には「八月の鯨」という映画に出演したほど健在でした。
 「グリフィスがバイオグラフ社の決まりに背いて初めて4巻ものの映画を作ると、会社は彼をクビにしました。その時グリフィスの頭の中にはすでに『国民の創生』の構想がありました」
 と彼女ははっきりと述べています。4巻ものの映画とは
「ベッスリアの女王」(1913)に他なりません。つまりグリフィスは「国民の創生」に取り掛かる2年前から構想していたということなのです。


●「国民の創生」の問題点
 「国民の創生」の成功には、南北戦争終結からまだ50年という身近さ、それに、前年1914年に勃発した第一次世界大戦を背景としたアメリカの社会情勢があったと思われます。ウィルソン大統領のもと、アメリカは中立を宣言するのですが、国内では移民がらみの多民族国家の状況が進み、南北戦争の元になった奴隷に対する差別問題もくすぶったままでした。 
 
 「国民の創生」の原作は「クランズマン」といい、南北戦争直前からその後の連邦再建を背景に、南北に分けられた二つの家族の物語が展開するのですが、グリフィスは実際に南軍大佐として戦った父親の影響もあってか、この映画で多くのアメリカ人が抱いていたようにアフリカ系アメリカ人を一方的な視点で描き、当時台頭してきた白人優位を唱える秘密結社KKK(クー・クラックス・クラン)を正義の味方のように見せてしまったのでした。そのあたりが人種的偏見に満ちたナショナリズムの高まりを背景に、大方のアメリカ人に歓迎されたものと見ることができます。

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●侵入を図る暴徒~必死の防戦~駆けつけるKKK…のみごとなカット・バック



 この問題があるため「国民の創生」の上映は昨今なかなか難しいこともあるようですが、純粋に映画技法の観点からこの作品を見る時、その表現法の完成度の高さに異論を唱える人は居ないと思うのです。
 KKKが勇壮に駆けつける<ラストミニッツ・レスキュー>と呼ばれたグリフィスお得意のカットバック・シーンも、このように描けば正義に見えてしまうという映像の怖さの一面を見せつけてくれるお手本になっているといえるかもしれません。


 それはともかく、「国民の創生」で大成功を収めたグリフィスは、直ちに次の大作「イントレランス」に取り掛かります。それは、グリフィスの究極の目的は「イントレランス」だったのでは、と思えるほどの意欲作でした。                                            つづく

■おまけ動画
 
D・W・グリフィスの元からは、その後監督や俳優として大成する人たちがたくさん輩出されました。中でも西部劇の巨匠とされるジョン・フォードは、彼の代表作「駅馬車」(1939)で、グリフィスへの賛辞を込めたオマージュ・シーンを撮っています。

  グリフィスは「国民の創生」で、小屋を襲われて万事窮した父親が、娘が苦痛を味わうことになるなら、いっそ自分の手で…と拳銃を振り上げたところにKKKのひづめのとどろきが聞こえてくるという場面を描きました。(上の動画参照)

ひとおもいに.JPG●「国民の創生」1915

 「駅馬車」でフォードはそれを、インディアン(ネイティブ・アメリカン)に襲われて窮した馬車の乗客のシーンで、グリフィスに対するオマージュ(献辞)として使っています。
 男性が、同乗の女性に安楽死をと拳銃の引き金を引こうとしたその時、銃声が轟き拳銃を落とす。すると遠くから騎兵隊のラッパが高らかに響いてくる、というぐあいです。

●ジョン・フォード監督「駅馬車」1939
 
 両作品は奇しくも、「国民の創生」が第一次世界大戦中。「駅馬車」は第二次世界大戦前夜ということで、どちらもアメリカのナショナリズムが高揚した時期に製作されていることにも興味があります。

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074 望遠、ズームも工夫次第  「国民の創生」② [大作時代到来]

074 望遠、ズームも工夫次第
    D・W・グリフィス「国民の創生」-②

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●グリフィスの大作「国民の創生」(1915)の一場面 右はリリアン・ギッシュ


前回からの続きです。

●「国民の創生」はグリフィス念願の映画だった
 D・W・グリフィスの父はケンタッキー州で大農園を営み、南北戦争では南軍に属して戦ったことについては先に述べました
 
「国民の創生」のねらいの一つは、彼の父の時代を振り返り、アメリカ独立の意味を問うこと。もう一つは、彼自身が築いてきた映画表現技術の総仕上げをすることでした。
 それは必然的に大作となり、とりもなおさず、大作映画で世界を凌駕しているイタリア映画界にアメリカとして一矢報いることにもつながる、彼はそう読んだのではないでしょうか。

IMGP8654.JPG●DWグリフィス


●映画表現技法の基礎を確立
 
 実際に「国民の創生」(1915)はD・W・グリフィスの集大成として、誰にも認められている作品です。そこには、彼がバイオグラフ社時代に毎週10本近く製作していた短編映画で磨いた手法がはっきりと体系化され、高められていることが分かります。

 特にこの映画ではたくさんの場面が複雑な状況の元に展開します。この記事に添付した動画リンカーン暗殺シーン>ひとつをとっても、1階部分では劇場全景、ステージで展開している演劇、観客席、1階から見た2階の貴賓室の4景があります。また2階部分では、階段からつながる廊下、廊下から貴賓室入口、というようにカットが変わります。それらが連続して時間が流れていくのです。その鮮やかな場面転換はもう、それまでの映画づくりの比ではありません。

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●劇場全景                ●1階 観客席の主人公たち   

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●1階 演劇の舞台            ●2階 廊下から貴賓室入り口

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●1階から見た2階の貴賓室 観客に挨拶するリンカーン大統領 

 「国民の創生」では、カットが変わっても、人物の<位置、動きの方向、視線>、つまり方向性が一致(マッチ)するようにそれぞれの画面を撮影することが大事であることが明確に認識されています。俳優の演技は、シーンの中で数カットに分けられても、アクションはつながって見えるように計算されて撮影され、編集されています。これはマッチ・カットと呼ばれましたが、この技法こそシーンに躍動感を与え、ドラマの流れを盛り上げる大発見でした。

 グリフィスはまたフラッシュ・バックという方法を編み出しています。これは、異なる場所や異なる時間で起きた状況を短い時間提示して、本筋の流れとの関連を示すものです。
 例えば劇場のシーンでは、舞台上の演劇が進行している時間に大統領が到着し、2階の貴賓室に入り、観客に挨拶します。その間に暗殺者ブースは2階観客席から大統領の貴賓室に忍び込み、暗殺を成功させます。これだけの複雑な動きが時間の流れに添って淀みなく編集されているのですが、その途中に暗殺者の姿が4回挿入されます。この手法がフラッシュ・バックです。


 更にグリフィスは、異なる場所での同時進行を示す並行描写法を確立。それはA・B両地点でのアクションを交互に切り返してつなぐ手法で、クロスカッティング(カットバック)と呼ばれました。この手法はかねてからグリフィスが得意としていたもので、彼の西部劇やサスペンス映画、そして「国民の創生」ではリンカーン暗殺やKKK団(クー・クラックス・クラン)による救出シーン(次回に詳述) のようなスペクタクルのクライマックスにおける編集テクニックとして生かされています。

●クロスカッティングの例
 小屋に閉じこもる一家の危機と、救いに駆けつけるKKK団が交互につながれ、
 危機感を盛り上げている。(次回、動画掲載予定)

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 これらの画面構成やカットのつなぎ方はそれまでにも無いわけではありませんが、画面効果を視覚的・心理的にイメージングし、一つ一つの画面を計算して演出したのがD・W・グリフィスだったというわけです。


●ズームレンズはおろか、望遠レンズもない時代に
 さて、ここで、おそらく他の映画史に書かれていないことに触れたいと思いますそれは擬似的な望遠効果ズーム効果です。
  望遠鏡はとっくの昔にありましたが、当時の撮影機(ムービーカメラ)には人間の視野にいちばん近いとされる標準レンズが
1本だけ。映画撮影用としては広角レンズも望遠レンズもまだ無かったのです。また、必要に応じて近寄ったり離れたりして撮ることはあっても、ズーミングなど思いも寄らないことです。ではどこがそうか。
 添付の<リンカーン暗殺>と<戦場>シーンの動画をご覧ください。

 この中で、画面の一部を遮蔽する手法が多用されています。これはフィルムの現像段階における光学的な処理ではなく、撮影時に施されたものと思われますが、平常な場面では見られず緊急の場面でのみ使われている手法です。
 つまりこの手法は観客に、画面のこの部分を注視して欲しい、という合図なのです。それは一種のクロース・アップと見ることができます。

●擬似望遠効果によるクロース・アップ
 左/実際の画面                   右/グリフィスの意図した画面  
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 シーケンス 07-2.jpgシーケンス 09.jpg シーケンス 09-2.jpg
●暗殺者を演じたのは、後に監督となるラオール・ウォルシュ

 それはまた、戦場のように遠く離れた広い場所で展開している戦闘シーンにおいて、紙を丸めて覗いたようなマスクによって表現されます。それが望遠レンズの効果でなくて何でしょうか。グリフィスは標準画面の中で望遠効果を見せようと工夫しているのです。

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●戦場のシーンにおける擬似望遠効果の例


 では、ズーム効果はどこか。
 <リンカーン暗殺>のシーンで、暗殺者ブースが2階客席(画面右上)から左隣りのリンカーンの貴賓室に移動する時に例の遮蔽が使われ、それが次第に開く、という表現です。
 最初に画面右上だけを見せているのは疑似的な望遠効果と見ることができます。
その遮蔽(マスク)が次第に開けて場内全体の様子へと移行させるテクニックは、いわば望遠から広角へと継続的に移行させる意味を持ちます。これをズーミングと言わずになんと言えばいいでしょう。
  何度もよく観ないと分からないほど効果は薄いのですが、擬似的であっても私はこれを今日的な意味でのズーム効果の表現であると見ています。



リンカン暗殺のズーム効果1-2.jpg
リンカン暗殺のズーム効果 2.jpg
●擬似ズーミングの例
 
画面の黒マスクがゆっくり開いて観客席全体が現れる。
 これはまさしく、アップからワイドへのズーム・アウト効果ではないか。

★動画で確かめてみましょう。



 現在のカメラではズームレンズ付きが当たり前ですが、被写体を次第に引き寄せたり遠ざけたりするズーミング効果は、もともと固定焦点レンズ付きのカメラを直進・後退させる移動撮影が原点なのですが、単なる移動撮影でも、前年「カビリア」(1914)でジョバンニ・パストローネがゆるい曲線を描く斜行移動を、「国民の創生」ではグリフィスが平行移動を初めて使って見せたのでした。 

  望遠効果とズーム効果の撮影技法は、もしかしたらグリフィスの考案ではなく、カメラマンのビリー・ビッツァーの発案かもしれません。としてもグリフィスが、望遠鏡で見た感じで撮って欲しい、暗殺者ブースがリンカーンの座る隣室への移動を目立たせてほしい、と指示したものではないでしょうか。


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●暗殺者(赤丸)が左のリンカーンの部屋に向かう時、望遠鏡で覘いたような丸いマスクが使われている。

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●戦場の全景 南軍と北軍の位置関係を明示

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●主役 バスト・ショット              ●戦場の擬似望遠効果

戦場04.jpg●正面上から後退しながらの見事な移動撮影

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●戦場での安否を気遣う家族のインサート・カット

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●壮絶な肉弾戦の中で北軍の将兵に水を与える南軍の大佐。
 戦端はしばし止み、北軍の将は南軍大佐の行いを称えるが、戦闘再開。


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●南軍大佐は戦争の無意味さを訴えて、銃口に軍旗を差し込んで倒れる。マスクによる望遠効果

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●北軍の将、射撃停止を指令。騎士道精神、未だ廃れず。



●現在の機材で、グリフィスに撮らせたい

 このように現在の目で「国民の創生」を観ると、ねらいが十分に生きていない撮り方やつなぎ方、冗漫な描写などもあります。が、それは撮影機材自体が未熟であること。またサイレント映画であるために観客が画面の状況を理解するのに時間がかかることを考慮すべきです。今日私たちが目にするアクション映画のように素早いズームや1秒単位のカットつなぎでは、当時の観客は理解できずに目を回してしまうでしょう。

 それはともかく、時のウィルソン大統領が「まるで電光で描かれた歴史を見るようだ」と絶賛したと伝えられる「国民の創生」には、映画撮影と編集技法の原点を伺い知ることができます。グリフィスが現在の機材で映画を撮ったら、どんな作品を見せてくれるだろうかと思うのです。 
                          つづく

★次回も「国民の創生」について話を続けます。

添付の動画は本来は無声映画です。
 音楽や効果音は、当時の公開状況を想定して後世に付けられたものです。

★当時の映画はモノクロですが、作品によってはフィルム染色法で情景を染め分ける方法がとられていました。


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073 チャップリン登場とグリフィス「国民の創生」着手 [大作時代到来]

073 おまたせ。ようやくチャップリン
        D・W・グリフィス「国民の創生」-① 

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●13番目のDから新人女優が投身自殺したことからLANDの4文字が取り払われたという。

 アメリカ西海岸に映画の都ハリウッドが誕生した1910年代半ば。現在HOLLYWOODと描かれている大看板がHOLLYWOODLANDと表示されていたその頃。1914年7月にヨーロッパで勃発した戦火は世界の列強を巻き込み、一挙に世界大戦の様相を呈してきたのですが、幸いなことに、アメリカは最後まで参戦を控えていました。世界戦争は蚊帳の外。それがアメリカ映画を大きく躍進させることになります。
 
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●イギリス陸軍の志願兵募集ポスター           ●西部戦線へ向かう兵士 1914.7


●グリフィス、チャップリンと出会う
 
 1913年.トーマス・エディスン主導の映画特許会社(MPPC)の制約で長編を作らせてくれないバイオグラフ社に愛想を尽かして離れたD・W・グリフィス。イタリア映画の大作「カビリア」のうわさは、長編大作を目指していたグリフィスを促し、いよいよ彼はその実現に向けて動き出します。

  グリフィスは長編を作る準備としてミューチュアル社に入り、スタジオを設立しますが、そこに「新しい会社を作りたいのでぜひ加わってほしい」というエッサネー社からの誘いがありました。エッサネー社はライバルであるマック・セネットのキーストン社から、「キーストンコメディ」などで人気上昇中のチャールズ・チャップリンを引き抜いたばかりでした。

  スターシステムの確立により、俳優の名で映画を売り出そうと考えるようになってからのハリウッドは、各社とも観客に受けそうな個性的な俳優を、血眼でスカウトするようになっていたのです。

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●売り出した当時のチャールズ・チャップリン。
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●お金持ちの紳士の格好をした浮浪者というミスマッチが大衆の共感を呼んで、爆発的な人気者となる。右はデビュー作の「成功争い」1914

 
 チャップリンはイギリスのパントマイム劇団に所属してヨーロッパを巡回。ジョルジュ・メリエスが「極地征服」を発表した1912年頃は、パリのミュージックホール、アルハンブラ劇場でギャグ芸人として出演していました。翌年チャップリンはアメリカを巡業。あの独特なパントマイムによるこっけいなギャグはたちまち低所得者層や移民たちの心を捉え、爆発的な人気を呼びました。

  そのチャップリンを映画の世界に呼び入れたのが、元はバイオグラフ社の演出担当でキーストン社に在籍していたマック・セネットでした。チャップリンのデビュー作は、1913年に製作され、1914年に公開された「成功争い」です。

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●マック・セネット     ●トーマス・H・インス          ●D・W・グリフィス

  そのチャップリンとマック・セネットの二人を引き抜いたのがエッサネー社なのですが(ややこしい。でも当時のアメリカ映画界ではこのような転職は日常茶飯事)、この会社は映画特許会社(MPPC)の制約に縛られない、長編映画を作る会社を新しく興そうとしていたのです。

  こうして、マック・セネット、トーマス・H・インス、それにD・W・グリフィス三人の名声を統合したトライアングル社が、ロックフェラーのスタンダード石油から融資を受けて設立されます。 


●俳優は一流。キャラクターも多彩

 トライアングル社は3人の関係で有名な俳優たちも揃いました。
  喜劇畑のセネットの元には、美貌ながらズッコケ上手のメーベル・ノーマンド、曲がったひげがトレードマークのベン・ターピン、デブで売っていたロスコー・アーバックル


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●メーベル・ノーマンド  ●ベン・タービン   ●ロスコー・アーバックル

  インスの元には、当代一と謳われる性格俳優のフランク・キーナン、西部劇の立役者ウィリアム・S・ハート、アクション俳優ダグラス・フェアバンクス、日本から来たハリウッドスター早川雪州。

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●ウィリアム・S・ハート●ダグラス・フェアバンクス ●早川雪州

  グリフィスの元には、彼が手塩にかけて育てたリリアン・ギッシュ、メイ・マーシュ、ブランチ・スイートらが勢ぞろい。(そろそろ聞いたことのありそうな名前が出てきていませんか。
早川雪州は「戦場にかける橋」のあの捕虜収容所長です) 

  こうした強力なバックボーンと製作環境を得て、グリフィスはかねてから構想していた「国民の創生」に着手することができたのでした。
 

メアリー・ピックフォード.JPG ブランチ・スィート「ベッスリアの女王」.JPG メエ・マーシュ.JPG
●リリアン・ギッシュ   ●ブランチ・スイート    ●メイ・マーシュ

 ところで、グリフィスとチャップリンの関係ですが、グリフィスは大作文芸路線、チャップリンは小粒なスラップステックを得意としていましたから、グリフィスが分野の違うチャップリンを起用して映画を作ることは考えられなかったようです。
  ただ、良好な関係は続いていたと思われます。それは後に、グリフィスはチャップリンと組むことになるからです。
 

●「国民の創生」は南北戦争終結50周年記念作 
 「国民の創生」は南北戦争を背景にした物語です。南北戦争終結は
1865年ですから、1915年に公開されることになる「国民の創生」には南北戦争終結50周年という意味がありました。けれどもグリフィスは、大農園を経営し南軍で戦った父の姿をこの映画に託そうとしたのではないでしょうか。

 グリフィスは周到な準備の後、相棒のカメラマン、ビリー・ビッツァーと組んで念願の大作を撮り始めました。 

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●名カメラマン、ビリー・ビッツァー(左)とD・W・グリフィス
 
初期の電動式カメラは1910年に登場したが、ビッツァーはあえてパテ・フレール社の手回しカメラを使用している。

                               つづく






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072 イタリア史劇の最高峰「カビリア」 [大作時代到来]

072  スペクタクル映画の古典「カビリア」

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●「カビリア」でソフォニスバを演じる妖艶な女優、イタリア・マンチーニ

 1914年、歴史映画の力作大作を生み出していたイタリア映画に、止めをさすような快作が生まれました。「カビリア」です。この映画こそ、今日私たちが観ている長編映画につながるスケールと表現技術を備えたものでした。
  けれども……

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●面白さ満載、これこそ映画
  イタラ社の製作者でもあるジョバンニ・パストローネは、明らかに「カビリア」を芸術性の高い作品に仕上げようと考えていました。また興行的には、好評を博した前年公開の「ポンペイ最後の日」の続編であるかのように、火山の噴火から始めることにしました。

 時は紀元前3世紀。地中海の支配を巡ってローマとカルタゴが戦っていたポエニ戦争を背景に展開する、気宇壮大な物語です。
 
シチリア島の貴族の幼女カビリアは、エトナ火山の噴火のドサクサに、乳母といっしょにフェニキアの海賊にさらわれてカルタゴへ。そこで邪教モロクの大司祭に買われてあわや邪神のいけにえに。そこをカルタゴの貴族フルビオと怪力マチステに助けられ、王女ソフォニスバの宮殿にかくまわれます。 

 何年か経って、ローマの大艦隊がカルタゴと同盟関係にあるシラクサを攻撃。ソフォニスバの許婚でヌミビアの王マッシニッサは遠征し、手柄を上げて凱旋するのですが、ソフォニスバとの婚姻を願うアフリカ人スキピオの謀略によって殺されてしまいます。それを知ったソフォニスバは悲しみのあまり自害。フルビオとマチステ、カビリアに魔手は迫る。三人の運命やいかに。


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●ハンニバルのアルプス越え  
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   ●邪神モロクの大神殿でいけにえとして捧げられようとしているカビリア
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          ●カビリアを救い出す怪力マチステとフルビオ

 このように「カビリア」は、エトナ火山の噴火に始まり、伝説に名高い象の大群を引き連れたハンニバルのアルプス越え、邪教モロク神殿のいけにえ儀式、シラクサ攻撃ではアルキメデスが発明した太陽光大反射鏡によって炎上するローマ軍の大艦隊、というようにスケールの大きな見所がいっぱいという未曾有の大作でした。
 それは、小説でもなく演劇でもない、また1巻もの15
分の短編映画では絶対に味わうことのできない、長編映画ならではの面白さ楽しさを十二分に体験させてくれるものでした。


●「カビリア」より抜粋
 1.雪の山岳地でロケーションされたハンニバルのアルプス越えのりアル描写 
 2.巨大セット、モロク神殿におけるカビリアの救出劇
 3.マッシニッサの宮殿における移動撮影の例 



●長編が必要とした字幕。字幕が必要としたシナリオ
 このように「カビリア」は、シチリアとカルタゴ、それにローマでの展開が加わるという舞台設定です。また登場人物も善悪入り混じり、複雑な陰謀も設定されているという入り組んだ物語です。そのためにところどころに説明を入れる必要が生じました。そこで考えられたのが「字幕」です。

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●「カビリア」の字幕の一例 英語とイタリア語で書かれている
 これは説明用のサブ・タイトル。台詞字幕はスポークン・タイトルと呼ばれた



 字幕とは現在のように画面下に表示するスーパーとは違います。文字通り文字そのもので一画面を費やすもので、それを動画の間に挿入する方式が考えられました。つまり、俳優が口を動かしている途中で字幕に変わり、俳優の台詞が文字で示されます。観客がその文字を読み終えた頃、画面は先ほどの俳優が話し終わるところから続いていく、という手法です。観客は初めは奇異に思ったでしょうが、俳優が話す言葉はこのように字幕で示されるのだということが一般的になると、誰も違和感を覚えなくなったのです。

 
このように長編映画では、物語の説明や登場人物の台詞を字幕として表示するための台本、いわゆるシナリオという形が自然発生的に生まれてきたのでした。(字幕は無声映画特有の手法です。1927年、世界初とされる「ジャズ・シンガー」以後映画がトーキーに変わると不要になり、使われなくなります)

●はじめからカメラを回す撮り方の元祖は
 
パストローネはこの映画で20,000メートルのフィルムを撮影に費やし、そのうちの4,500メートルを使って4時間近い映画に仕上げました。
 
それまでの映画撮影では、
D・W・グリフィスもリハーサルを何回か繰り返したあと本番だけカメラを回すという撮り方でしたが、「カビリア」以後は、何テイクか撮影を繰り返した中からOKショットを選んで編集するというパストローネの手法が定着していきます。

●舞台装置と照明技法の飛躍的進化
 また「カビリア」では、舞台装置と照明技法が飛躍的な進化を遂げています。背景に絵を用いる手法は野外ロケが一般的になるに連れて実景に代わるのですが、セット撮影の背景ではまだ、建物外観や扉、壁などの凹凸を「だまし絵」で立体的に見せる手法が使われていました。 

 パストローネは徹底的にだまし絵を排除。建物は実際に実物大のセットを建て、飾り模様は石膏で凹凸をつけました。その代表的なものは宮殿と邪教の神殿です。また邪神のような立体感を強調した巨大な彫像や宮殿を飾る巨像も作りました。床には大理石の模様を描いた絵の上にガラス板が敷かれ、光の反射で本物の大理石に見えるように工夫されました。


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●後のドイツ・アバンギャルド映画に影響を与えたといわれるモロクの大神殿 
 「カビリア」の随所に独創的な造形美を見ることができる

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●マッシニッサの宮殿
 だまし絵や書割ではない背景。本物の彫像。
 ここでは建物の立体感を強調するために、蛇行による移動撮影が行われている。
 (動画の最後参照)


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●ガラスを敷いたミラーによる、大理石の床の効果

 セットが巨大ですから照明も大規模になります。それまでの手法は役に立たず、大光量の人工照明を使った新しい照明技法が研究されました。大長編映画、巨大セットは、すべてにおいて前代未聞の技術を必要としたのです。

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●上の3人のシルエットが手前に移動するに連れてライトが当たり、
 壁面の象の彫刻と3人の表情が浮かび上がるという巧妙な照明テクニック


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●これほど際立った光の演出は前代未聞
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●炎上するローマ軍の大艦隊

 このようにして誕生した「カビリア」は、母国イタリアはもとより、長編を渇望する世界の観客に大歓声で迎えられたのでした。


●「カビリア」全編2時間、ノーカットで観られるなんて・・・


●隆盛直後。イタリア映画界が見舞われた悲劇
 ところで、ここで大変な問題が持ち上がりました。この年1914年6月28日の白昼。ボスニアの首都サラエボで、オーストリアの皇太子夫妻が、セルビア人解放を掲げた秘密結社「黒い手」のテロ学生によって暗殺されてしまうのです。
 それを機にオーストリアとハンガリーはセルビアに宣戦布告。この戦はあっという間にドイツ、ロシア、フランスを巻き込み、ヨーロッパの戦争から世界戦争へと広がってしまいます。第一次世界大戦です。アドリア海を挟んだイタリアも対岸の火事では済みません。

 大戦は4年も続きます。折角隆盛を見たイタリア映画の全盛期はそれまでで、イタリア映画界はこの大戦のためにすっかり沈滞してしまうのです。
 けれども「カビリア」は、その造形美が後のドイツ・アバンギャルド映画に影響を与えたばかりでなく、大作をもくろむアメリカのD・W・グリフィス監督に大きな啓示を与えたと思われるのです。 
                                                            つづく

★添付の動画は本来は無声映画です。
 音楽や効果音は、当時の公開状況を想定して後世に付けられたものです。

★当時の映画はモノクロですが、作品によってはフィルム染色法で情景を染め分ける方法がとられていました。



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071 クライマックスは天変地異で決まり。 [大作時代到来]

071 クライマックスは、天変地異で決まり。
        イタリア史劇とD・W・グリフィス-②

ブランチ・スィート「ベッスリアの女王」.JPG
●「ベッスリアの女王」の主役に大抜擢のブランチ・スイート

 
イタリア映画界が矢継ぎ早に打ち出す歴史大作路線の成功を耳にしながら、バイオグラフ社の監督D・W・グリフィスも{機は熟した}とばかりにいよいよ長編づくりに乗り出します。ここにイタリア対アメリカの長編映画戦争の火蓋が切って落とされたのです。


●グリフィスもスペクタクルは得意だった
 1913年7月、D・W・グリフィスは、コンビを組んでいるカメラマンのビリー・ビッツァーと長篇の歴史物にとりかかりました。
ベッスリアの女王(アッシリアの遠征)」4巻60分。

  新進女優ブランチ・スイートを起用したこの映画は、ベッスリア(アッシリア)を攻め落とそうとするホロフェルメスを愛してしまった女王の悲劇と城の攻防戦という大スペクタクルです。このテーマの設定自体、イタリア映画に対する挑戦と見ていいのではないでしょうか。

 この作品で
グリフィスは、スケールの大きさだけではなく、ベッスリアの女王の人間的な苦悩までをも描ききろうとしています。 

ベッスリア1.JPG
●イタリア映画の向こうを張ったアラビアンテイスト。 でも、どこかイタリア史劇に似た感じ
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●城壁の攻防戦では1,000人以上のエキストラが参加
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●戦車の走りや馬に飛び乗るスタントは、いかにも西部劇風
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ベッスリア5.JPGベッスリア6.JPG
●酔わせてひとおもいに…でも、私にはできない。敵を愛してしまった女王の苦悩

 1分46秒
 
  戦車を引く数十頭の馬と1,000人以上のエキストラを使った城の包囲戦では、大勢のスタントマンが大活躍。西部劇も作っていたグリフィスの経験が、イタリア映画に勝るとも劣らないスケールで見事に発揮されています。

 
映画づくりもこれだけのスケールになると、映画製作の本筋の他に、大規模なセットや道具づくり、出演者とエキストラの衣装や武具、火薬などの準備が必要です。また人と馬の移動には輸送部隊を編成しなければなりません。更に、宿舎や食事の手配、事故や緊急の場合に備えての警備や救護まで必要としたはずです。
 総合芸術である映画は、このようにあらゆる分野にわたって需要や雇用を生み出し、産業としての基盤を確立していく訳ですが、一方で長編映画は自然発生的に映画づくりの体系化を促しました。


●「撮影」は「編集」を考慮して行うこと
 15分程度の短編なら、簡単なアイディアの覚書があれば作れないことはありません。実際に映画が誕生して数年間はそのようにして作られていたものでした。
 けれども1時間以上の物語を作るとなるとしっかりとしたプランが必要です。プランとは「何を、どのようにして、いつまでに、いくらで」・・・つまり予算枠内で予定通りの作品を期限までに仕上げるためのものですが、映画そのものをまとめ上げるプランも必要です。

 はじめはあらすじ(梗概)を書いた簡単な「脚本」があれば間に合っていました。中篇以上になると、それをどのように撮影していくかをカメラマンに指示する必要が生じました。その撮影プランを「撮影台本」の形でまとめたのは、トーマス・H・インスでした。

トーマス・H・インス.JPGトーマス・H・インス

  撮影台本とは脚本を元にカット割を考え、1カットごとの撮影要領を明記したものです。彼はカール・レムリのユニバーサル映画社の前身IMP社で働いていたのですが、編集の才覚に長けていました。そのため最初から<編集を前提とした撮影>を指示することができたのです。この認識があって初めて、画面サイズの異なる次のカットにまたがる俳優のアクションをスムースにつなげることができる訳です(アクションつなぎ)。

  ハリウッドでは早くから、シナリオを元に画面展開を絵に書いたコンテ(コンテ二ュイティ)と呼ぶものが撮影現場で使われていますが、インスの撮影台本にはすでにコンテが用いられていたのではないかと思われます。


IMGP8654.JPG●デビッド・W・グリフィス監督

 一方、グリフィスは、舞台と映画における演出の根本的な違いを考える中で、インスと同じことに気づいたようです。舞台の演出は主に俳優の演技に対するもの。映画ではそれ以上に画面上の見せ方が大事だと思い当たり、ひとつの場面(シーン)をいくつかの画面(カット)で構成することを考えました。

  つまり、一つの情景をロング、ミディアム、アップという異なるサイズのカットを効果的に組み合わせて時間の流れを作るようにしたのです。
(ちなみに、撮影することをシュート。撮影されたものをショット。ショットから編集段階で必要部分を切りだしたものをカットと呼びます)


●イタリアで、またまた話題作公開
 ところがバイオグラフ社はグリフィスの長編製作を好みませんでした。「長編は観客が飽きるから、やらない」という映画特許会社(MPPC)側の金科玉条に触れて、折角のグリフィスの長編「ベッスリアの女王」はお蔵入りになってしまったのです。グリフィスが落胆したことは言うまでもありません。

 折も折、イタリアではまた長編歴史劇の話題作が誕生しました。1913年、パスクァーリ社による「ポンペイ最後の日」は、マリオ・カゼリー二が監督した作品でした。

  これも時代はローマ時代。暴君によるキリスト教徒弾圧に対する天罰で、ベスヴィオ火山が火を噴きます。ポンペイは火山灰に埋もれて消滅してしまう訳ですが、映画では1908年に噴火したエトナ火山のニュースフィルムが効果的に使われ、大噴火のクライマックスを盛り上げています。

 この映画の成功で、スペクタクルを盛り上げる状況として、大地震、大洪水、大津波、大竜巻、大なだれ、山火事など、天変地異がよく使われるようになりました。


ポンペイ1.JPG
●イタリア映画お得意のモブ(群集)シーン エキストラ1000人以上
ポンペイ3.JPG ポンペイ4.JPGポンペイ2.JPG ポンペイ5.JPG
●神の怒りか、ベスヴィオ火山の大噴火が始まる
                   ポンペイ6.JPG
  2分53秒                                               


●こりなかったバイオグラフ社
 ところで「ベッスリアの女王」のお蔵入り。この出来事はグリフィスにバイオグラフ社を離れるきっかけを与えました。彼はイタリア映画の大作に対抗できる長編大作の構想を暖めながら、この年の末にバイオグラフ社を去ることになります。バイオグラフ社は、わずか2年後に新境地を拓くことになる将来のドル箱監督を、自ら手放してしまったのです。

 その後1914年に、バイオグラフ社はようやく「ベッスリアの女王」を公開しました。けれども、フランスでは怪盗ものの「ジゴマ」「ファントマ」シリーズが大流行し、自社でも大当たりをとっていた連続活劇の上映手法に倣い、全4巻を1巻ずつ週変わりで4回の連続物として配給するという愚行を、まだ繰り返しているのです。 
                              
つづく

★次回はイタリア史劇の最高峰とされる「カビリア」について。


★添付の動画は本来は無声映画です。
 音楽や効果音は、当時の公開状況を想定して後世に付けられたものです。








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