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033 映画誕生。例えればディズニーランドのライド体験 [映画の誕生]

033 こうしてシネマ・スペクタクルは誕生した。
    映画誕生 「シネマトグラフ」初公開-1
      
1895 シネマト ポスター2.JPG

 今回は、いよいよ映画誕生の瞬間です。
 
時は1895年(M28)12月28日、暮れも押し迫ったサタデーナイト。ところはパリ。キャピュシーヌ大通り14番地。オペラ座近くにある「グラン・カフェ」。その地下サロン「インドの間」が、歴史に名を残す舞台となりました。
 リュミエール兄弟の「シネマトグラフ」
初公開に集まった人たちの中から、有名な映画関係者が生まれることになります。この会場は確実に、産声を上げたばかりの新しいメディアをはぐくむ揺籃の役目を果たしたのです。

19c末.JPG
●19世末 パリ、キャピュシーヌ大通りの様子

●初公開に揃った、そうそうたる顔ぶれ。
 初公開イベントを企画したのは、リュミエール兄弟の父、アントワーヌでした。彼は知人を介してカフェの持ち主に「入場料は一人1フランとして、フロアの借り賃は入場料収入の2割でどうでしょう」と持ちかけました。
 相手は「今さら幻灯なんて、ネコでさえそっぽを向きますよ」と言い、即座に自分が損をしない金額をはじき出しました。「1日30フラン。どうです? 妥当でしょう? いやならいいですよ」。


lumieres2.JPG●オーギュストとルイのリュミエール兄弟

 さて、初日の夕方。高らかな呼び込みの声にもかかわらず、集まった観客は招待客をまじえて35人。カフェの持ち主は、自分の読みがぴったり当たったことに満足でした。
 ところが数は少なくても、その中身が濃かったのです。

グランカフェ インドの間.png
●インドの間における世界初・映画上映会の様子(ただしこれは再現写真かも)

 観客の中にはまず、エミール・レイノウの「光の劇場(テアトル・オブティーク)」を常打ちにしているグレヴァン博物館(蝋人形館)の館長。パリ屈指のナイトクラブ「フォリー・ヴェルジェール」の支配人といった人たち。
 それから、「シネマトグラフ」を見て4日後に「イゾラトグラフ」という映写機を作り上げてしまうイゾラ兄弟といった、機械自体に興味を持って訪れた人たち。

 次に、シャルル・パテ、レオン・ゴーモンといった興行師たち。この二人は間もなく映画製作を開始し、現在のフランス映画界を二分するパテ社とゴーモン社の創設者となる人たちです。
 それから、自分のステージでぜひ映像マジックを使ってみようと思い立ったマジシャンたち。
 「ロベール・ウーダン劇場」の支配人兼作家兼演出家兼主演俳優のジョルジュ・メリエスもリュミエール兄弟との友人ということで招待されていましたので、同劇場の花形スターで愛人でもあるジュアンヌ嬢(よくある話)といっしょに真っ先に駆けつけておりました。

IMGP7901-2.JPG  ジュアンヌ・ダルシー.JPG
●ジョルジュ・メリエス     ●ジュアンヌ・ダルシー

●これが映像マジックの第一歩。
 会場の一隅にスクリーンの白布が張られ、反対側に「シネマトグラフ」の映写機が、手回し上映でガタつかないようにがっちりとした高い木組みの台に固定されています。
 観客に手渡されたプログラムには12本の作品が列記され、簡単な説明が付いていました。長さはすべて17メートル(50フィート)の1巻物ばかり。どれも時間にして1分足らずの作品です。映写技師は一定スピードでハンドルを回し続けることが出来るプロフェッショナルです。

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●「シネマトグラフ」と映写技師    ●世界初の映画とされる「工場の出口」

 リュミエール兄弟は謙虚な人たちでしたから、アメリカの大発明家とちがって「シネマトグラフ」を世紀の大発明などと吹聴することはありませんでした。簡単な挨拶のあと早速上映となりました。ジュアンヌ嬢とドキドキしながらスクリーンに見入ったメリエスは、あとでこう語っています。

 「正直言ってがっかりしました。スクリーンに映し出されたものは、私が自分の劇場でマジックの最後に見せている幻灯と何ら変わらなかったのです。先日リュミエール氏に会った時、彼は私に度肝を抜くようなものを見せて上げるというので期待して出かけてきたものを。つまらん。
 そう思ったとたん、なんと、スクリーンに映る工場の出口から、大勢の人たちが一斉にこちらに向かってゾロゾロと近寄ってくるではありませんか。これには本当に度肝を抜かれてしまいました。リュミエール氏の言ったことは嘘ではなかったのです」


 もうお分かりのように、リュミエール兄弟は初公開で最初の上映フィルムとなる「リュミエール工場の出口」の上映に際して、いきなり動かさずに、わざと静止画で見せておいたのですね。
 生まれて初めて映画を見る人たちは、始めから動く写真を見せられただけでびっくりすると思いますが、静止画と思っていたら突然動き出した、というリュミエールの演出の方が数段効果的だったと思うのですが、いかがでしょう。
 この例からもリュミエール兄弟は、映画を撮る時に何らかの演出を考えて撮影に臨んでいたことが伺えます。

●映画は最初から演出されていた。
  当日公開された「映画」は12作品ですが、その中から「リュミエールといえば、これ」と挙げられる有名な6作品を動画でご覧いただきます。動画は2作品ごとに3箇所に挿入してあります。
 これらのフィルムはすべて関係者の協力で作られたもので、決して見たものをそのまま思いつきで撮影したものではありませんでした。

IMGP7905.JPG
「工場の出口」……………画面は中央で真半分に分けられ、室外と室内の明暗が対比されています。リュミエール工場の出口から繰り出してくる社員たちが画面の左右に分かれるように演出されています。動きには犬も加わり、自転車、馬車の登場と次第にスケールアップします。映画史に残る誇り高き出演者たちです。
「工場の出口」には同じシチュエーションで3本のバージョンがあり、そのこと自体、演出が行われたことを物語っています。

IMGP7938.JPGIMGP7908.JPG列車の到着.jpgIMGP7965.JPG
「列車の到着」……………リュミエール兄弟の父の別荘の近く、ラ・シオタ駅のホームに、リュミエール一族を総動員して撮影されたもので、工場の従業員たちもエキストラで駆り出されているのではないでしょうか。
ロングショット(遠景、全景)に始まった情景が、カメラはまったく動かないのに、次第に視野がミディアム(中景)、アップ(近景)と1カットの中で大きく変化します。
こういった映画表現の概念はまだ生まれていなかったのですが、「列車の到着」には、舞台では見られない画面のパースペクティブ(遠近感)を生かした、映画表現ならではの特徴がすでに芽生えていると見ることができます。

●動画「工場の出口」「列車の到着」


IMGP7911.JPG
赤ちゃんの昼食」………兄のオーギュスト、奥さんのマルグリッド、娘のアンドレの食事風景。日常的なホームムービーに見えるこのような画面にも、撮影し易いように3人が横並びという演出が施されています。また3人がカメラを見ることはありません。その点が「カメラに向かってニッコリ」のホームムービーとちがうところです。

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「水を撒かれた散水夫」…1分弱という時間の制約を逆手にとって、完全な演出による見事なコメディに仕上がった作品です。コントや瞬間芸の世界ですね。
散水夫はいたずら坊やを追いかけて行っても画面から外れることはなく、わざわざカメラの前に戻ってきてからお仕置きを始めます。

●動画「赤ちゃんの昼食」「水を撒かれた散水夫」


IMGP7940.JPG
「港を出る船」……………自分が海中に放り出されたような不安感で、観客が思わず脚を上げて動揺したという作品です。女性を立たせ、風でスカートがひるがえるのを見せる演出も、なかなかのものです。

IMGP7910.JPG
「エカルテ遊び」…………
リュミエール兄弟の仲間によるカルタ遊びのコメディです。給仕役のコミカルなアクションは、まさに演技そのものです。

●動画「港を出る船」「エカルテ遊び」

●始めて映画に接した人々の驚き。
 
映画は奥行きのある三次元の情景を撮影し、スクリーンという二次元の平面に映し出すものです。その質感の違いによる違和感をどこかで覚えながら、観客は会場に張られた白布を食い入るように見つめていました。

 「列車の到着」では、ばく進してくる機関車の威圧感に恐れをなして、叫びを上げて思わず浮き足立ったり、通り過ぎた機関車がどこに消えたのかと、スクリーンの裏を覗く人もいたそうです。「水を撒かれた散水夫」では、ホースの水が自分に降りかかるのを避けようとして頭を動かしたり、画面に海水が満ち溢れている「港を出る船」が始まると、無意識のうちに両足を浮かせてしまったという人もいて、会場はさながらテーマパークに迷い込んだ子供たちのように、やんやの大賑わいになりました。

 これらのエピソードは、あとで多少話に尾ひれが付いたかも知れません。それにしても生まれて初めてスクリーンで動き回るほぼ等身大の人物をみた驚き、そして実際の風景の中に自分が立っているような迫真的な臨場感。そのスペクタクルから呼び起こされた感動は、現在の私たちには想像もつかないくらいショッキングなものだったのではないでしょうか。 

 なお、「シネマトグラフ」に撮られた人たち(身内や社員)がどのような機会にこれらのフィルムを見たかはどこにも書かれていないのですが、ほぼ等身大で動く自分の〈分身〉を、どんな気持ちで観たことでしょう。   

                                                   つづく

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034 映画誕生。こうして「映画」は動き始めた。 [映画の誕生]

034 こうして「映画」は動き始めた。

       「シネマトグラフ」初公開-2  映画の原点とは

P1110645.JPG

  前回はパリにおけるリュミエール兄弟の「シネマトグラフ」による映画誕生の瞬間をお話しました。今回はその続きです。
  なお、その時に上映されたフィルムの一部は、前回のブログで動画でご覧いただけます。今回の話はその動画をご覧になると、より分かりやすいかと思います。

●マスコミは白黒に色彩を感じ、館主は大損

この初公開の話題は、日を追うごとに口コミで広がりました。当然初日にはマスコミも呼んであったのですが、たまたま人気歌手の結婚式とぶつかり、記者はほとんどそちらへ駆けつけてしまったのでした。「シネマトグラフ」初公開についてパリの新聞にエキサイティングな記事が載ったのは二日目の12月30日でした。


「グラン・カフェにおいて28日の夜、世紀の新発明が公開された。それは日常生活を写真に焼き付けたもので、その時の情景が等身大の色付きで、しかも動いて再現されるのである。これならば、亡くなった人に会うことも出来るようになるだろう」

自分でグラン・カフェを取材した記者は、「シネマトグラフ」のあまりにもリアルな画面に圧倒されて、まだ付いてもいない色彩まで見た気になってしまったのでした。また、ここでも言われていることは「亡くなった人にも会うことができる」という表現。つまり〈分身〉が意識されていることに注目しておきたいと思います。

IMGP7859.JPG●「シネマトグラフ」と映写技師  

 「シネマトグラフ」は好評に告ぐ好評でロングランも決まりました。3週間後にはなんと一時は3000人近い観衆が「グラン・カフェ」を取り囲み、警官が出動して整理に当たるほどの大盛況だったそうです。
 カフェの持ち主は、最初にリュミエール兄弟の父アントワーヌが示した「借り賃は興行収入の2割でどうか」という条件を断って「1日30フラン」としたばっかりに、大もうけを逃してしまいました。とにかくこうしてシネマ・スペクタクルは誕生したのでした。


●映画の原点は、カメラを固定し1カット1シーンの長回し

 誕生したばかりの映画。映画の原点と呼ぶべきもの、それはどんな特徴を備えていたのでしょうか。

IMGP7866-2.JPG●「シネマトグラフ」

◎フィルム規格
幅35ミリ、両側に 1コマにつき4個のパーフォレーション。
画面のアスペクト比は4対3(横×高さ)。

 このフィルム規格はエディスン研究所に在籍したウィリアム・ディクスンが考案したもので、後にスタンダードサイズと呼ばれます。


◎画像
は、モノクローム(白黒)、サイレント(無音)


◎撮影/映写スピード

 
1秒につき16コマで一定。 2回転で1秒のハンドル手回し操作。 

(アメリカでは、映写技師は定速を保つために心の中で、例えば「マックのじいさん、イヤイヤヨ~、畑じゃアヒルが、イヤイヤヨ~」とうたいながらハンドルを回したそうです)  
 
リュミエール兄弟は、人や物の動きをそのまま再現することに主眼を置いていたため、撮影と映写スピードはあくまでも一定を貫いていました。従って、早まわしや逆転映写などは行われていません。


◎カメラ
は三脚に固定のまま。
 人物自体が近づいたり遠ざかることはありますが、カメラを近づけたり引いたりする撮影テクニックはまだ生まれていません。
 ただし、移動する船からの撮影(移動撮影)は試みられています。


◎撮影
は1カット1シーンの長回し。

 17メートル(50フィート)のフィルムがなくなるまで1分弱の情景を連続撮影。
 つまり、1本のフィルムがなくなるまでノーカットで撮り切る撮影法です。従って、ある動きを写し続けただけというものが多いのですが、「水を撒かれた散水夫」や「エカルテ遊び」★前回ブログに動画あり のように、カメラを動かせないという制約をはっきり意識して、画面フレームの中で進行するように演出されて撮影されたものもあります。

なお、この2本は起承転結が考えられていて、すでに物語としての映画の発展性を予見させるものだと考えます。

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●「水を撒かれた散水夫」                                           ●「エカルテ(カルタ)遊び」


●「映画誕生」は誰が決めた?

さて、こうして現在では、1885年12月28日の「シネマトグラフ」初公開をもって「映画誕生の日」とされ、リュミエール兄弟がその発明者とされている訳ですが、ちょっと待ってください。それは一体、いつ、誰が決めたのでしょうか。ノーベル賞なら分かります。けれども、私はこのシリーズをまとめるに当たってたくさんの書籍、文献を参考にしていますが、この点について明確に述べている記事に出くわしたことがないのです。

 映画の発明はある特定の組織や機関、例えば国際科学技術アカデミーとか、国際特許認定機構といったようなところが、「はい、ゴールはここですよ。今ゴールインしたあなたが発明者です」と言ってその時点で認証式を行い、賞状と金一封を手渡すというようなものではないようです。そもそも「映画」は、古今の発明の数々をクロスオーバーさせた技術の集大成である上、その発明には終わりがなく、どこがゴールか分かりません。


 多分その筋の研究者たち、この場合はのちの映画史家たちが述べた中から、もっとも妥当と思われる説が世界的に定着したものと思われます。ですからそれが定まるまでは、アメリカはエディスンを主張し、イギリスはフリーズ・グリーン、ドイツはマックス・スクラダノフスキー、イタリアはフィロティオ・アルベリーニ、そしてフランスはリュミエール兄弟を譲らず、「我こそは」と争われた時期があったようです。


●リュミエール兄弟が映画の発明者とされた訳は

 リュミエール兄弟が結果的に映画の発明者とみなされた理由についても、明快な説はなかなか見当たりません。まとめると次の功績が評価されたことによるもの、とされているようです。

lumieres2.JPG●リュミエール兄弟


技術的には
◎撮影、映写、ポジへの焼付けが出来る複合機であること
◎スクリーンに拡大投影したこと

◎他の同様の機器と比べて、写真を動かす機構の完成度が高いこと
◎小型、軽量を実現したこと 

社会的には
◎興行として入場料を徴収したこと
◎世界に与えた技術的、経済的な波及効果が極めて大きいこと
  (リュミエール兄弟はその後、カメラマンを世界に派遣し、記録映画を撮影させた)

 これらの理由は、リュミエール兄弟の発明が他の開発者に比べて最高の水準であったということに他なりません。

このように、映画の誕生をいつとするかの論議はあくまでも後世の話であって、当時欧米においては、更なる研究開発競争がそれまでと同じように継続されていました。

 アメリカでは、エディスンもディクスンもレイサム父子★1も、リュミエール兄弟の「シネマトグラフ」の成功を遠くに聞きながら、<上映式動画装置>の開発に新しい局面を迎えていたのでした。

4 edison 13.jpg   ウィリアム・ディクスン.JPG ウッドヴィル・レイサム 1831-1911.jpg
トーマス・エディスン                         ●ウィリアム・ディクスン                        ●ウッドヴィル・レイサム

 何はともあれ、こうして映画は誕生しました。これまでは、絵や写真をどうしたら動かせるかという技術面での開発でした。ここからはその技術を使ってどう見せるかの発見が大きなテーマとなってきます。
 映画は「表現」という新たな地平を目指して動き出したのです。
 トーマス・エディスンのお話もまだまだ続きます。
                                              つづく

◆関連記事
 ★1 リュミエール兄弟のシネマトグラフとは
    http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/2009-08-31 







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035 余裕は「たるみ」から生まれる。ん? [映画の誕生]

035  長尺を可能にしたフィルムの「たるみ」。

       フィルムループの発見

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釣りの場合も、たるみがあるから糸が切れない。
 

 20世紀の到来を目前に控えた1895年(M28)の末。リュミエール兄弟の「シネマトグラフ」初公開をもって「映画誕生」とされたのはあくまでもあとのこと。そこで「めでたしめでたし」と完結したのではなく、欧米では相変わらず20名を越える科学者の熾烈な競争はそのまま続いておりました。

ところで、エディスンと袂を分かったウィリアム・ディクスンのその後は……。話は8ヶ月ほど前に遡ります。つまり「映画誕生」を挟んだその前後のエピソードです。

●ディクスンはレイサム父子と<上映式>を開発

フランスのリュミエール兄弟が「シネマトグラフ」初公開を行うことになる1895(M28)年の春4月。アメリカでは、エジソンの「キネトスコープパーラー」を経営するウッドヴィル・レイサムが、のちに映画が物語を語るに欠かせない、ある重要な発見を成し遂げました。それを手伝ったのは、ウェスト・オレンジのエディスン研究所に在籍していたウィリアム・ディクスンでした。

ウッドヴィル・レイサム 1831-1911.jpg   ウィリアム・ディクスン.JPG    
●ウッドヴィル・レイサム ●ウィリアム・ディクスン               


研究所の実験室長だったディクスンがエディスンの元を去った直接の原因。それは、在籍中に取引先のレイサムと極秘に会っているディクスンの情報を、逐一エディスンに報告していた営業部長ウィリアム・ギルモアとの確執でした。

 ギルモアはエディスンに営業手腕を買われて1年前にその席に就任したばかりでしたが、ディクスンとは初めから馬が合わなかったようです。たまたま二人ともウィリアム。「何であんな奴が・・・」とお互いが自分の名を呪うようになって、それがかえってまずかった。
 
ウィリアム E ギルモアb.JPG   エディスン相関図2-1.png
●ウィリアム・ギルモア


 ディクスンはエディスンに、「8年間、会社とあなたに尽くした私か、それともたった1年のギルモアか」どちらか選べ、と迫ったのですが、話はこじれるばかり。結局、自分の方から身を引かざるを得なかったという苦々しい思いが後を引いていました。

ディクスンはレイサムの会社で、彼の兄弟たちといっしょに、エディスンにやらせてもらえなかった「映写機」の開発を、こっそりと注意しながら続けていました。

●エジソンの特許に触れないように新方式を考案

 レイサム父子は、自分たちの経営するニューヨーク・ナッソー通りの「キネトスコープパーラー」で、1ラウンドずつしか見られない<覗き見式>のボクシングを、大きなスクリーンで、しかも6ラウンドを一挙に見せることができれば大評判は必至と考え、独自に映写機の開発を進めていました。

1894デトロイトのキネマスコープパーラー.JPGkinetoscope2small.jpegIMGP7817.JPG
●「キネトスコープパーラー」と人気のボクシング

 その場合、「キネトスコープ」を<上映式>に改造することはエディスンの特許があるために出来ません。ただ、「キネトスコープ」を実際に開発したのはディクスンでしたから、彼は特許に触れないように開発を指導することが出来ました。

 フィルムの幅を倍の70ミリにして1コマの面積を大きく取り、撮影・上映スピードも毎秒40コマ。1ラウンドを30秒で構成することにして、6ラウンドのすべてを納めるためには、試合の前後を含めて4分間。そのために必要なフィルムの長さを1000フィートと弾いてフィルム会社に特注しました。


ところが、映写機の開発で問題となったのはフィルムの重さです。レイサム父子の「キネトスコープパーラー」でボクシングを見せていたフィルムは35ミリ幅ですが、1ラウンド1分間をそのまま見せられる150フィート(通常は50フィート)の特別仕様で重さは300グラム程度。

 この長さと軽さでは問題にならなかったことが、4キロほどもある1000フィートの70ミリフィルムを掛ける必要があるその映写機では大問題でした。長すぎるフィルムは掛け流しのままにする訳にはいかず、巻き取りリールは必須となりました。

●長時間連続上映を可能にした「レイサムループ」とは

それにしてもこの重さは並ではありません。フィルムはもちろん手回しです。映し始めはフィルムが重すぎるために突っ張ってしまい、うまく回せず、パーフォレーション(フィルム両側の孔)が破れてしまいます。無理をして回したらフィルムが切れてしまうのです。

フィルムの巻き量が上下均等になったあと、つまり、下の巻き取りリールの方にフィルムが溜まってくると比較的うまくフィルムを運ぶことが出来るようになるのですが、これでは安定した映写には遠く及びません。

W LATHAM PROJ-3.JPG
●「パントプティコン」1895 右が光源、左が映写レンズ
 1000フィートのフィルムのために、供給リールと巻き取りリールが考案されている。


この問題を解決したのがフィルムの"あそび"です。つまり、フィルムを装てんするときに、レンズ位置にかかる上下に数コマ分のたるみ(ループ)を付けることによって運行に余裕を持たせたのでした。このちょっとしたアイディアが長尺フィルムの撮影・映写を可能にし、のちにストーリーのある長編映画の実現につながります。これが考案者の名をとって「レイサムループ」と呼ばれるものです。

レイサムループlatham.JPGP1020608-2.JPG
●左/上の供給リールの左、Loopと小さく書かれたところが「レイサムループ」
 右/8ミリ映写機のレイサムループ 上下に設定。


こうしてディクスンは、自分が望んでいた上映式の機械を、以前エディスンのところで作り上げた「キネトグラフ」に似ても似つかないどころかそれをはるかにしのぐ高機能で、他に先駆けて完成させることができました。もちろん、エディスンの特許を侵害しているはずはありません。

レイサム父子はこの映写機の事業化のために会社を興し、ディクスンも出資することにしました。レイサム父子は早速新人のボクサー二人と契約を結び、6ラウンド4分間一挙上映用のフィルムを撮り上げました。

 この撮影機は比較的小型軽量に設計されていたので、野外に持ち出して、公園で遊ぶ少年たちの様子や、周りで憩う大人たちの姿を撮影することも出来ました。彼らはこの映写機を「パントプティコン」と名づけて、4月21日に新聞社を招いて公開上映を行いました。


●エジソン、「パントプティコン」に横ヤリ

 一方エディスン側は、ウッドヴィル・レイサムが「キネトスコープ」の得意先であるところから、エディスン取巻きの弁護士集団は常にその動向を注視していました。またその配下の金で動くような連中からの情報も、逐一ギルモアの耳に入ってきました。それにより、ディクスンが裏で「パントプティコン」開発に力を貸していることは十分掌握していました。

 ちなみに当時のエディスンの会社では、総帥エディスンの下で、先に述べた営業のベテラン、ウィリアム・ギルモアが取締役として実権を握り、特許・法律関係では「ダイヤー&ダイヤー」社がその任務を担っていました。

 同社の代表リチャード・ダイヤーはエディスン社の最高顧問弁護士であり、物理と化学を得意とする弟のフランク・ダイヤーもエディスン社の主任顧問弁護士として在籍していました。
 こういった法制の表も裏も知り尽くしたそうそうたるメンバーが、影に日向にエディスンの特許紛争に関わlり、これまでにも「訴訟のエディスン」とささやかれるほどあちこちで特許訴訟の火の手を挙げていたのです。


   「パントプティコン」公開の翌日、早くもニューヨーク・サン紙にエディスンのコメントが発表されました。
 「レイサム機はキネトスコープの模倣。告訴を辞さず」
 記者の取材に答えたエディスンの談話のあらましは次のようなものです。


 「その撮影機の仕組みは私のキネトスコープそっくりである上、映写もキネトスコープを使って私が最初にやったことだ。私たちはすでに6ヶ月も前にそれを実現している。その改良版をキネトスコープの名称で使うならともかく、別の名称で国内上映するなら、それは特許の侵害となる。場合によっては告訴することになるかもしれない」

 そして更に

 「我々は2、3ヶ月のうちに、より完璧な上映式キネトスコープを作り出すだろう。その時にはスクリーンに映る人物は等身大になるはずだし、動きと同時に声を聞くこともできるだろう」


 エディスンの頭の隅には、以前1889年のパリ万博から帰った時にウィリアム・ディクスンが「お帰りなさい、エディスンさん」と言いながら見せた上映式「キネフォノグラフ」のイメージが浮かんでいたに違いありません。 ★1


ディクスンの挨拶.JPG
●ディクスンが作った上映式「キネフォノグラフ」による、
 自作自演の「ディクスンの挨拶」1889 


 特許というものは実に難しい。すでに述べたようにエディスン研究所では〈動く写真〉の開発はディクスンに任され、「キネトスコープ」はディクスンが開発し、上映式もディクスンが実現していたものです。

 ただ、このように実際にはディクスンが手がけたものを、その代表者であるエディスンが「私がやった」ということはあながち間違ったことではないのかもしれません。
 例えばこの数年後に登場することになる自動車の「フォード」も「ディズニー」のアニメーションも、その事業体のトップの名前がブランドの名称として使われています。エディスンはその先駆けといえるのでしょう。

4 edison 13.jpg●トーマス・エディスン

●<上映式>に遅れをとったトーマス・エディスン
 
エディスンの名前が付いた会社はいろいろありますが、例えばGEも最初は「エディスン・ゼネラルエレクトリック・カンパニー」でしたが、1892年に会社の合併によりヘッドの「エディスン」が外されることになったとき、彼の落胆振りはかなりのものだったと伝えられています。それほど自分の名を付けることにこだわり、面子を重んじるエディスン。

 「キネトスコープ」の代理権を与えているチャールズ・ラフとフランク・ギャモンの「ラフ&ギャモン商会(キネトスコープ社)」★2からは、「上映式キネトスコープを早く作ってくれなきゃ、もうやってらんないよ」と矢の催促です。

「間もなく上映式を出す」。エディスンは新聞にはそう公言したものの、実はディクスンが去ったため、<上映式>実現の見通しはまったく立っていなかったのでした。 

 ところが、窮すれば通ず、天は天才に味方した・・・かどうかは分かりませんが、そんなエディスンの元に、思いもかけない朗報が飛び込んで来ることになります。  

                                                つづく

■関連記事

★1 上映式もディクスンが実現 
    http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/2009-08-12 

★2 ラフ&ギャモン         
    http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/2009-08-19






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036 リベンジは、「パラパラ漫画」で [映画の誕生]

036   リベンジは、「パラパラ漫画」で。

      「ミュートスコープ」 「ファンタスコープ」

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●19世紀末美人
 
 

 1895(M28)年12月28日。のちに映画誕生とされるこの日をはさんで、アメリカではトーマス・エディスンとウィリアム・ディクスンとの確執が続いておりました。毎回いろいろな年月、人物、機械名が登場しますが、私自身も混乱しないように必死です。W

●ディクスン、レイサムの元を離れる 

レイサム父子にウィリアム・ディクスンが協力して生み出した「パントプティコン」。この新式映写機は、トーマス・エディスンから特許侵害と訴えられました。

これは明らかに威嚇である。そう受け止めたウッドヴイル・レイサムは、直ちにエディスンに対する書簡のかたちで、新聞紙上で反論しました。


 「私のパントプティコンは映写式だが、エディスンのキネトスコープは覗き見式で映写は出来ない。また、こちらは1,000フィートのフィルムを使えるが、そちらはそれも出来ない。何をもって特許侵害といえるのか」

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●ウッドヴィル・レイサム           ●ウィリアム・ディクスン            


   エディスン側では「パントプティコン」のフィルム駆動にスプロケットとパーフォレーションが使われているだけでも特許侵害を主張できると踏んでいました。このような場合、いつもは直ちに強制執行の役人(執行吏)を差し向けていたのですが、営業部長ウィリアム・ギルモアは、近々公開されそうな「パントプティコン」の評判を見守った後でも遅くはないと判断し、成り行きを見守ることにしました。

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●レイサムの「パントプティコン」上映風景 1895

   「パントプティコン」は1895年5月、ニューヨーク、ブロードウェイの劇場で初公開されました。お得意のボクシングの試合が食卓テーブルの面に上映されたそうですが、芝居の中でテーブルを倒し、そのクロスにでも上映する趣向だったのでしょうか。画面が小さく、試合自体も平凡でエキサイティングなシーンがなかったため、レイサム父子の期待に反して大きな話題を呼ぶことが出来ませんでした。

 それが直接の原因ではありませんが、間もなくディクスンとレイサムの関係は醒め、6月、ディクスンは出資金を引き上げてレイサムの会社を離れます。レイサム父子はその後も映写機の開発を続けますが、大きな成果は得られませんでした。
 エディスン側は上映式「パントプティコン」の不評に胸をなでおろしましたが、それは一時しのぎで、自社の映写機開発につながるものではありません。


●ライバルの台頭とエディスンの内憂外患

「キネトスコープ」は海外の特許をとらなかったばかりに、特にイギリスではその亜流が数多く生まれ、本家本元の利益を脅かしています。エディスンは「機械を買わなければフィルムは売らない」ことにしたのですが、そんなことでは生易しいと考えたギルモアは、ヨーロッパに人を派遣して、それまでに輸出したエディスンのフィルムを全部買い占めるように指示しました。ヨーロッパの興行師たちは、「キネトスコープ・パーラー」は開いていても、商売が出来なくなりました。これは業界にとってもショッキングな出来事でした。
   ところが、上映するフィルムが無くなったヨーロッパでは、かえってそのことが撮影機と映写機の開発を促進させ、独自の映画づくりにつながっていくのです。

ロバート・ポール.jpg  シャルル・パテ2.JPG
●ロバート・ポール        ●シャルル・パテ

 イギリスではロバート・ポールがすぐに撮影機の開発を始めました。エディスン社からフィルムの供給が断たれれば、自分でフィルムを作るしかないと考えからです。彼はエディスンの特許に触れないように細心の注意を払って作り上げた小型軽量の撮影機で、ロンドンや近郊の名所など、いろいろなフィルムを撮り始めます。その上、「バイオスコープ」という映写機まで作り上げてしまいます。
   彼の作品上映は1896年2月から始まりました。ロンドン技術学校、王室教会図書館で公開したあと、オリンピア劇場、アルハンブラ劇場へと発展しますが、ボードビリアンによる解説付きの「ドーバーの荒波」が特に人気を呼びました。
 彼はその後、当時50フィート約1分という制約があったフィルムを2本つないで、ストーリー性のある作品を作るようになります。
  
 フランスでは、シャルル・パテが、エディスンの政策の矢面に立たされました。彼はエディスンの「フォノグラフ」とロバート・ポールが作った亜流の「キネトスコープ」を販売していたのですが、販路はすでに南アメリカやニュージーランドにまで広がっていたのです。そのフィルムを供給できないとなれば完全にお手上げです。そこでパテも、本腰を入れて自分で映画製作を行おうと決心します。
 たまたま母が亡くなったことを機に、シャルル・パテは1896年、兄弟の遺産を出資金として資本金40,000フランの「パテ・フレール社」を設立。グラン・プールヴァルの一角に開業することになります。   

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●トーマス・エジソン(左)と彼の右腕ウィリアム・ギルモア(右)

 とにかく、エディスンの取り巻きが配下を動かして行った陰の動きは、この後もその前も枚挙にいとまがありません。エディスンが名実ともに発明王、偉人として後世の人々に称えられるには、自身の名を損ねる社内のこういった動きこそ「内憂」と気づき、処断すべきだったでしょう。ところが実際は、ギルモアのように自信過剰で声が大きく、それなりの実績を上げてさえいれば、優柔不断な経営者にとっては切れ者・有用な人物として映り、頼もしく感じてなんでも任せてしまうのでしょうね。

●ディクスンのリベンジは「パラパラ漫画」

 さて、出資金を回収してレイサムの元を離れたウィリアム・ディクスンは、新しい事業にそれを注ぎ込みました。デビュー当時より下火になったとはいえ一人勝ちしている「キネトスコープ」に一矢報いようと、エディスンのライバル会社を起こそうとしていた人たちと手を組んだのです。

   ニューヨーク保証信用会社から20万ドルもの融資を受けて発足したその会社の名はアメリカン・ミュートスコープ・カンパニー(AMC)。エディスンの資力に勝るとも劣らないこの会社は、早速「ミュートスコープ」と「バイオスコープ(撮影機)」「バイオグラフ(映写機)」の製造を開始して「キネトスコープ」を追い上げました。

ミュートスコープa.JPG P1110635.JPG
●「ミュート・スコープ」卓上型                     ●「ミュートスコープパーラー」用スタンド型

 「ミュートスコープ」はエディスン社の「キネトスコープ」同様、覗き見式でした。写真もエンドレスの繰り返しです。けれども、「キネトスコープ」以上のものでなければ新たに登場するはずはありません。AMCの狙い通り、時代に逆行するように思われるその覗き見式がクリーンヒットを飛ばすのです。それほどエディスンの「キネトスコープ」の特許に触れないように考えられた「ミュートスコープ」は魅力的だったのです。

 発想はパラパラ漫画。「ミュートスコープ」は、撮影された連続写真の1コマ1コマを厚紙に焼き付けて回転軸に束ねたものを、手回しハンドルで回しながら見る仕組みですが、「キネトスコープ」に比べて画面が大きい。写真が鮮明。ガタツキが無い。照明や動力用蓄電池不要。堅牢。そして何よりもソフトの質。それと「キネトスコープ」よりも長く楽しめること。初期の撮影はディクスンが担当したのですが、ロケによる当時の躍動的な街頭風景が、エディスンの「ブラック・マリア」1の密閉されたスタジオの中で、未熟な演技指導のもとに撮影されたものより格段に生き生きとしていたのです。

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●パーラー用「ミュート・スコープ」 右のエジソンの「キネトスコープ」よりも洗練されたデザインが評判を呼んだ

 「ミュートスコープ」 無音 66秒
だれもが教科書の隅に書いた覚えがあるパラパラ漫画より、はるかに高尚な「ミュートスコープ」。
後半には自動車が登場するところを見ると、1910年代まで興行が行われていたとみることができる。  

  「ミュートスコープ」は1895(M28)年10月に発売されるや否や、それまでの「キネトスコープ」に飽きたペニー・アーケード2からの注文が殺到。たちまちのうちに「キネトスコープパーラー」は「ミュートスコープ・パーラー」に模様替えというありさま。
  実際に「キネトスコープパーラー」は次々と閉鎖に追い込まれ、新聞記者の間ではラフとギャモンの「キネトスコープ社」の破産は時間の問題といううわさまで立つようになりました。万事窮した総元締めのエディスンですが、妙案はなかなか浮かんできません。

●「ファンタスコープ」という新展開

「ミュートスコープ」がニューヨークに出回り始めたちょうどその頃、10月のある日。エディスン直系の代理店「キネトスコープ社」(ラフ&ギャモン商会)のチャールズ・ラフとフランク・ギャモンのところに、トーマス・アーマットと名乗る若い男性が訪れました。彼が携えていたのは、何と1台の映写機でした。
 

「ワシントンのキネトスコープパーラーで見たのですが、そのとき以来、箱の中ではなくて何とか動く写真を映写できたら、と考えて友人のチャールズ・ジェンキンスと二人で作ったのがこの機械です。こちらがキネトスコープの元締めと聞いて持参しました。見て頂けませんか」。

エディスン相関図3.JPG


    機械の名称は「ファンタスコープ」。聞けばその機械は、エディスン社の「キネトスコープ」用35ミリフィルムをそのまま使って上映できる映写機だというのです。

1866-1948 Tomas Armat.jpg    1867-1934 Charles Francis Jenkins.jpg  

●共同開発者のトーマス・アーマット(左)とチャールズ・ジェンキンス(右) 


    アーマットとジェンキンスの二人が出会ったのは1894(M27)年秋。同じ電気関係の学校で、お互いに映写機の研究をしていることで話が合いました。すでにジェンキンスは映写機の製作に着手していたのですが、資金的に乏しかったので、アーマットが5,000ドルほど支援して、共同で開発しようということになりました。

  二人はフィルムの間欠送りといういちばんの難関を、マルタクロス歯車を使った独自の仕組みで突破。連名で特許を申請すると、この年(1895)の夏、アトランタで開催された「連邦綿花博覧会」で見世物小屋を借り、有料公開に臨みました。ところが、真っ暗な会場をこわごわ覗いた農民たちはスリを恐れて入りたがらず、興行は失敗に終わってしまいました。


  その後二人はいったん別れて、ジェンキンスは以前から取り組んでいる独自の映写機の開発を続けました。アーマットも研究を続けていましたが、やはりお金がかかります。ジェンキンスに貸してある5,000ドルのことも気になります。思案を続けたのちアーマットは、もしや自分の持つ特許が売れるかもしれない、そう思ってラフとギャモンを訪ねてみたのでした。

●さて、ラフとギャモンの胸中は……

ラフとギャモンはもしかしてイカサマかもしれないと思いました。こんな若造に最先端の映写機が作れるなんて。とにかく見てみよう、ということで急きょ別室で上映してみることになりました。
  ところが開けてびっくり。この若者が持ち込んだ映写機は、「キネトスコープ」のフィルムを滑らかに淀みなく、壁面に大きく見事に映し出したのでした。

ジェンキンスのファンタスコープ.JPG
●「シネマトグラフ」の35ミリフィルムをそのまま上映できる上、1000ftの長尺フィルムの使用も可能な
「ファンタスコープ」

                    maltese マルタ歯車.gif
              正確なフィルムの間欠送りを実現したマルタクロス歯車


    アーマットの登場はラフとギャモンにとってはまさに渡りに船。いくらエディスンをせっついてもらちが明かなかった映写機が、突然転がり込んできたのです。飛んで火に入る夏の虫。(季節は10月でしたが)

  しかし内心の動揺をそのまま顔に出すような両人ではありません。海千山千の二人の頭に申し合わせたように、とっさにある考えが閃きました。
  二人はあくまでも平静を装って二三の改良点を指摘すると、「来年明けまでにやれますか? あと2か月ほどありますが。それまでにこちらも検討しておきましょう」、ということでアーマットを返したのでした。

リュミエール兄弟の「シネマトグラフ」初公開は、まさにその年の暮れの28日でした。 
                                                    つづく


★1 「ブラック・マリア」
            http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/2009-08-16         
              
★2 ペニー・アーケード

      貨幣の最小単位である1ペニー硬貨1枚で遊べる器具を揃えた遊び場のこと。

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037 エディスンに、たなボタ式の新発明 [映画の誕生]

037 エディスンに、たなボタ式の新発明

     「ヴァイタスコープ」

1896 ヴァイタスコープ.jpg
●「ヴァイタスコープ」の上映 1896
 

 1895(M28)年10月。ウィリアム・ディクスンたちの「ミュートスコープパーラー」に追い上げられ、危機に瀕していたエディスン社直属の総代理店・キネトスコープ社(ラフ&ギャモン商会)に降って沸いた神の恵みの「ファンタスコープ」。ジェンキンスとアーマットの合作によるその映写機は、果たして「キネトスコープ」で行き詰まりを見せるエディスン社の救世主となることができるのでしょうか。

●上には上が。
 

 トーマス・アーマットを返したあと、ラフとギャモンは「ファンタスコープ」があれば自分たちの会社は立ち直れる。そればかりか、これは絶対に金になる、と手を取り合いました。

4 edison 13.jpg ウィリアム E ギルモアb.JPG 1894 キネトスコープ.JPG
●トーマス・エディスン         ●ウィリアム・ギルモア            ●キネトスコープ      

  11月末、ノーマン・ラフはエディスン研究所の営業部長ウィリアム・ギルモアに連絡を取りました。

 「私たちはキネトスコープのフィルムを上映できる映写機を見つけました。アーマットという青年が持ち込んだもので、技術的にも申し分の無いものです。彼は撮影機も作っていて特許を持っています。はなはだ申し上げにくいのですが、そちらで映写機開発の予定が無ければ、私たちがその権利を買ってこちらで製造したいと思うのですが、いかがでしょうか」


 この話は早々にギルモアを経てエディスンに届きました。エディスンとしては愉快な話ではありませんでしたが、映写機を作ろうにも作れない現状では、その話を受け入れるしかありません。とにかく全幅の信頼を置いているギルモアに任せておけば、自分が不利になるようなことにはならないだろう。そう考えてエディスンは、アーマットの映写機の件はギルモアに任せることにしました。

1895 シネマト ポスター2.JPG
●リュミエール兄弟の「シネマトグラフ」初公開ポスター

 そうこうしているうちに年末を迎え、パリからはリュミエール兄弟の「シネマトグラフ」が大成功に終わったことが伝わってきました。エディスンは覗き見式「キネトスコープ」の終焉を悟りました。暮れから新年に向けて、ギルモアの裏工作は着々と進められました。

●2,000ドルか、名声か。

 一方、「ファンタスコープ」の特許が売れるかもしれないという感触を得たアーマットは、しばらく会わなかったジェンキンスに連絡を取りました。「ファンタスコープ」の特許はチャールズ・ジェンキンスとの連名になっているので、それを自分名義に移しておこうと考えたのです。

 アーマットはジェンキンスに、

「この件はどうなるか分からないが、自分としてはすでに5,000ドルを投資したような形でそのままになっている。けれども、あと2,000ドルほど出す用意がある。それだけあれば君も研究を続行できるだろう。その代わりその2,000ドルで、君の持つ権利の一切を買い取りたいと思うが、どうだろう」、と相談しました。

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●「ファンタスコープ」共同開発者の
 トーマス・アーマット(左)とチャールズ・ジェンキンス(右)


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●二人で開発し、アーマットが売り込んだ「ファンタスコープ」

アーマットから5,000ドル出してもらっている弱みがあり、相変わらず研究資金も潤沢でないジェンキンスにとって、目先の2,000ドルは大金です。彼は反対する理由が見つからず、その場で了解のサインをしたのでした。それはチャールズ・ジェンキンスの名が映画開発の歴史から消えた瞬間でした。(でも、マイナーな場所では、エディスンの裏話といっしょに、映画の発明で忘れてはならない人としてこのような形で語り継がれてはおります)


●若者は、威光暗示に弱かった。

 1896(M29)年の年が明けたばかりの1月なかば。約束どおり手直しを加えた「ファンタスコープ」を携えて、再びアーマットがラフとギャモンのキネトスコープ社を訪れました。機械の動作を一通り確かめて、随分良くなりましたね、と褒めた後、ラフが切り出しました。

 「今度のお話は、エディスン氏も大変期待していますよ。そこで私たちはあなたの提案を受けようと思います。あなたの権利を買いましょう」。

エディスン相関図3.JPG


 あの偉大なエディスンにも認められた。それだけでアーマットの気持ちは高揚しました。その様子を見て取ると、ラフは話を続けました。

「そこでですが、私たちがこの映写機を量産するに当たっては、まず資金を調達する必要があります。私たちはファンタスコープでもアーマットスコープでも、どんな名前で着手してもいいのですが、問題は果たして投資家たちがそのネーミングに魅力を感じるかどうか。はっきり言って金が集まるかどうかという懸念があります。
 
ところが幸い、私たちにはトーマス・エディスンという大発明家がついています。この名前を使わない手は無いと思います。もちろん、売り出すときにはアーマット型映写機と名づけてもいいし、軌道に乗れば発明者としてあなたの名前を登録することもやぶさかではありません。
 こうした手順は商売のやり方のひとつで、日ごろよく行われていることはあなたもお判りでしょう。私たちは
あなたもきっと同じ立場で考えていただけるものと思っておるのですが、いかがでしょう」



●新年の祝杯は、ことの他うまかった。

「ファンタスコープ」をエディスンの発明とするようにラフとギャモンに知恵を授けたのはギルモアでした。

彼らのキネトスコープ社が破産してしまうと元も子もないのはエディスン側です。ギルモアとしてもそれは絶対に防がなければなりません。そこでギルモアは、彼らが「ファンタスコープ」を作ることを認めて上げることを恩に着せ、その代わりにアーマットの「ファンタスコープ」をエディスンの発明とするというところに持っていくように知恵を授けたのでした。策略といってもいいでしょう。もちろんこういった謀議は書類には残しません。具体的に指示を与える訳でもありません。双方、阿吽の呼吸で行われるものです。


 ラフとギャモンにしても、「ファンタスコープ」を目にしたときから、なんとかアーマットを仲間に引き込みたいとは考えたのですが、そのレベルまででした。ところがギルモアはアーマットをエディスン研究所に招いて「ファンタスコープ」の改良を続行させる考えでした。その方策を聞いて、さすがエディスンが頼りにしている重役だけのことはある、と感心しました。

  これがうまく行けば、エディスン側とラフとギャモンの双方にとって有益であるばかりでなく、アーマットにもちゃんと見返りがあるわけです。誰も損をしないで三方丸く収まる…こんないい話は無いではないか。アーマットが反対する理由など無いはずだ、と自賛しながら、彼らは新年の祝杯を挙げたに違いありません。


●先進技術をわざわざ引き戻したエディスン。
 

 言葉こそ丁寧ですが、ラフの話にはNOと言えない響きがありました。若いアーマットはエディスンに認められたよろこびでいっぱいでした。それに2,000ドルどころか7000ドルの回収も夢ではない。アーマットの頭の中はうれしさが渦を巻いていました。彼が無条件でその申し入れを受け入れたことは言うまでもありません。 事の成り行きは、老かいなギルモアと商才に長けたラフとギャモンの思惑通りになりました。


 エディスンは、すでに完成している「ファンタスコープ」をそのまま受け入れたのでは自分の発明とはならないので、アーマットに指示して手を加えさせると、「ヴァイタスコープ」と名づけました。
 その最初の「ヴァイタスコープ」とは、アーマットの機械が折角長尺のフィルムを掛けられるものであったにもかかわらず、わざわざ自社製作の「キネトスコープ」用50フィートフィルムをエンドレスで上映するために、逆行して改造されたものでした。

 エディスン側には当然のことながら長尺のフィルムを使える撮影機は無く、その開発を若いアーマットに依存するのは大発明家としての沽券(こけん)にかかわる。それよりもいち早く<上映式>を公開することで遅れを取り戻すこと。それがエディスンにとってのプライオリティ・ワンだったのでしょう。

 ただ、上映式とは言っても、今さら1分足らずのフィルムをエンドレスで見せられて喜ぶ観客はおりません。それはあくまでも"エディスンが発明した上映式映写機"と宣言するための方便だったのではないか、という気がします。

IMGP8009.JPGIMGP8011.JPG
●最初の「ヴァイタスコープ」1896 上映式とはいえ、相変わらず50ftフィルムのエンドレス上映

IMG_3413-2.JPG●改良型
ヴァイタスコープ


 エディスンはすぐに、大会場で上映するための「ヴァイタスコープ」の改良をアーマットに指示しました。それは200フィートの長尺フィルムが使える仕様でした。フィルムの運びをよりスムースにするためにスプロケットが改善され、明るい映写画面を得るためにレンズの前に広い開角度を持つ回転シャッターが付きました。
  それらは当然エディスンの新たな特許として申請されるため、こうした過程を経るうちに、いつしか「ヴァイタスコープ」の原型を発明したアーマットの名前は薄れていきました。

●いちばん得をしたのは誰?
  まもなく新聞は、エディスンが満を持して発表する傑作映写機の発売を予告。1896(M29)年
4月にニューヨーク最大のミュージックホール「コスター&バイアルズ」で「トーマス・エディスン、最新の驚異、ヴァイタスコープ」として初公開されました。
  上映はボードヴィルの幕間でしたが、ホール
の後ろにしつらえられた急ごしらえの映写室で、アーマットが「ヴァイタスコープ」の手回し操作に汗を流しているとき、エディスンはステージ上で、場内を埋め尽くした観客から絶大な賞賛の拍手を浴びていました。

 エディスンがほとんど手を施さずに上映にこぎつけた映写機「ヴァイタスコープ」は、フランスのリュミエール兄弟の「シネマトグラフ」公開に遅れること約4ヶ月。こうして誕生しました。
 エディスン、この時49歳。

IMG_3396-2.JPGIMG_3394-2.JPG
●スプロケットとシャッター羽根に改良が加えられた上映式「ヴァイタスコープ」
 この本体の上下にリールが付き、後ろにアーク灯のランプハウスが置かれる。、

IMG_3404b-2.JPG●長尺リールを備えた劇場用ヴァイタスコープ

1896 ヴァイタスコープ.jpeg

●人気を呼んだ「アナベルのバタフライダンス」 無音 12秒
アナベルはブロードウェイのダンサー。撮影者の妻が1コマずつ手で彩色した。
写真が動けば、次はカラー……という願望がすでに顕在化している

Iヴァイタスコープ1896.JPG
●エディスンの発明とされる「ヴァイタスコープ」の上映
 いよいよ大画面上映時代の幕は上がった。

 一方、アーマットと別れたチャールズ・ジェンキンスは、その後も「ファンタスコープ」で興行を続けていました。アメリカ南部ではそこそこの成功を収めていましたが、ラフとギャモンのテリトリーと競合するシカゴその他の北部地域ではなぜか客が集まらず、現地の新聞はジェンキンスの興行を手ひどくこき下ろしました。ジェンキンスの名は映画発明家の栄誉から漏れただけでなく、事業としても結果は悲惨でした。その陰には、ラフとギャモンの手下による映写技師と新聞記者の買収という妨害工作があったと伝えられています。

 また、ラフがアーマットにした口約束…軌道に乗れば、あなたを発明者としよう…も、結局なし崩しの形で、守られることはありませんでした。 
                     
つづく

◆「ブァイタスコープ」関連の機器及び図版の写真は 映写機研究家・永吉洋介氏提供







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