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015 いつの世も、パイオニアは辛い。 [写真の発明]

015 いつの世も、パイオニアは辛い。
三次元・動空間を、二次元・静止画に転換。
写真の発明 ― 1 「ダゲレオタイプ」(銀板写真)

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19世紀イメージ

前回はフランス人エミール・レイノウが、スリット(隙間)の付いた円筒を回転させて動画を得る「ゾートロープ」に改良を加え、ミラーを応用した「プラクシノスコープ」を作り、更にそれを大きな会場で上映できる「投影型プラクシノスコープ」にまで発展させたところまでお話ししました。

 前回の記事では、「プラクシノスコープ」の発展プロセスを見て頂くために一気に並べて説明しましたが、それは1876年から1900年までの24年間に及んでおり、実はその間に、映画の誕生に欠くことのできない現在につながる写真技術、つまり「乾版写真の発明」が入るのです。今回はエミール・レイノウのその後を後回しにして、写真の発明について簡単に辿ってみることにしましょう。


●世界初の写真乳剤はアスファルト
 16世紀に発明された「カメラオブスキュラ」によって、立体的で動いている情景を紙に投影する技術は、「レリゴー!」…つまり、あるがままに風景を捉えたいという願望から生まれたものでした。「カメラオブスキュラ」で外景が紙に投影されれば、それをそのままその紙に静止画として定着できたらいいのに、と考えるのはごく自然な成り行きです。その糸口がつかめたのは、自然現象や物事の摂理を科学的に考えようとするようになった18世紀以降でした。

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●16世紀のカメラオブスキュラ 

                   
  
19世紀の初めには、ある種の銀の化合物に感光性があることが分かりましたが、1826(1827年説あり).フランスの画家ニセフォ―ル・ニエプスによる世界初とされる写真の感光材は、なんと土瀝青(アスファルト)の溶液を塗った錫(すず)板。

図1.jpg カメラオブスクラ.jpg
●ニセフォール・ニエプス    ●19世紀初頭のカメラオブスキュラ

彼は「ヘリオグラフィ」と称する小型のカメラオブスキュラを仕事場の窓際に設置し、8時間(12時間説あり)もの露光…つまり、太陽が天空にある間中感光させて外景を焼き付けたのでした。(時は文政9年。シーボルト随行のオランダ使節を将軍家斉が拝謁)

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●ニエプスの「ヘリオグラフィ」による世界初とされる写真


●ニエプスとダゲール、共同研究へ

 実験は成功したものの、実用には程遠い。やがてニエプスは、銀が化学変化で黒くなる特性を持つことに気づきました。けれども間もなく兄が起こした事業が失敗して家は破産状態となり、ニエプス自身も永年にわたる研究で私財が払底してしまったので、ナポレオン軍のイタリア遠征に士官として従軍した誇りも捨てて、同じパリに住むルイ・ジャック・マンデ・ダゲールに協力を求めました。

ダゲールは、パノラマや舞台背景画家として成功していましたが、1822年には背景画を発展させた「ジオラマ館」をオープンして、巴里っ子の耳目を集めていました。

図4.jpg●ルイ・ジャック・マンデ・ダゲール

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●ダゲールが描いた廃墟の背景画  奥行きを強調したトリックアートといえる。

パノラマやジオラマの背景を描くためにダゲールは、光源とレンズ性能の高い木箱の幻灯機を使って原図を拡大していましたから、その木箱を逆に暗箱として応用すれば、外景を箱の中に取り込むことができることを知っていましたので、ニセフォールとの共同研究の契約書にサインしました。1829年のことです。
 (パノラマについては、後に別項を設ける予定です)



●「ダゲレオタイプ」(銀板写真)
 二人の最大の課題は露光時間の短縮です。ニエプスは銀メッキを施した銅板にヨウ素を塗ったものに感光させれば、水銀蒸気によって定着できることを発見し、共同開発を続けます。ところが無理がたたったのか、ニエプスは1833年に脳卒中で急死してしまうのです
(動画関係では前に述べた「ストロボスコープ」「フェナキスティスコープ」「ゾートロープ」が開発されていたころ頃です)

ダゲール.JPG
●ダゲール撮影
「芸術家のスタジオ」1837

図3.png
●ダゲールが撮影したパリのタンプル大通り 1839~1840?
 長時間露光のため、馬車や人物など動くものは写っていない。


ダゲールは残された息子イシドールと協力して〈ヨード方式〉を完成させ、1839年、「ダゲレオタイプ」(銀板写真)と命名して発表します。
 「ダゲレオタイプ」は露光に20~30分かかりましたが、それでも建物など動かないものしか撮影できない「ヘリオグラフィ」に比べたら格段の進歩です。人物撮影には椅子が必須で、頭は支え棒で固定されましたが、こののち「銀板写真」とも呼ばれる肖像写真が人気を呼び、多くの富裕層にもてはやされるようになります。

 銀板写真の表面は鏡のようで、見る角度によってポジ(陽画)に見えたりネガ(陰画)に見えたりします。その代り焼き増しができませんでした。けれどもその分銀板写真は〈自分の分身〉として、貴重品同様に大事に扱われました。

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「ダゲレオタイプ」初の商業用写真機 1839

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●「ダゲレオタイプ」(銀板写真)


 ダゲールはこの発明について「自己を複製する科学的、物理的手法」と述べています。これはとりもなおさずこの時代にすでに〈人物のコピー〉を予言したものとして傾聴に値します。
  

●ダゲールのその後
 「ダゲレオタイプ」は同年、フランス政府により年10,000フランの終身年金と引き換えに、公有財産として国に買い上げられるのですが、その年金の配分がダゲールに6,000フラン、ニエプスの遺族には4,000フランだったことから、ニエプスの息子イシドールは「ダゲレオタイプは父親の成果を受け継いだだけだ」と抗議する問題にまで発展しました。
 
結果は翻らなかったようですが、そのたった10日あまり後。ダゲールのジオラマ館に火災が発生。それが元でダゲールは破産しそうな憂き目に合うことになります。火災が自然火災か不審火によるものか。歴史は沈黙しています。

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●野外撮影には、撮影機材、現像用器具、薬液、水銀ランプなど一式を搭載する馬車が必要だった。

 1841年、イギリスのタルボットは、それまでネックとなっていた
焼き増しを可能とする「ネガ・ポジ法」を開発しました。カロタイプ処理と呼ばれるこの手法はネガに紙を使用するものだったので、鮮明な画像を得ることができず完璧とは言えませんでしたが、露光時間は30秒ほどに短縮されました。

タルボット (2).JPG●タルボットと彼の写真スタジオ
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 ダゲールはその後パリ郊外に住みましたが、その村の教会が貧相に見え、パノラマ絵師としての創造力を掻き立てられました。1842年、彼は祭壇の後ろに13×19フィートの大壁画を描いています。舞台背景やパノラマは平面に立体的な絵を描く一種のだまし絵と言えます。ダゲールの壁画は教会に荘厳な奥行きを与え、礼拝者を感動させました。
 その9年後の1851年、ルイ・ジャック・マンデ・ダゲールは心臓発作でなくなります。63歳でした。

 ダゲールは写真技術の進化に大いに貢献しましたが、写真術としてはまだまだ緒に就いたばかり。写真を職業とする人たちの間でさえ問題が山積していました。そこで新しい方式が求められ「湿版写真」が生まれるのてすが、次回はそのあたりを。
                             
〈この項、つづく〉





016 歳をとらない〈分身〉とは? [写真の発明]

016 元祖「プリクラ」登場!
「湿版写真」から「乾板写真」へ。 


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●19世紀イメージ

 前回は「映画」の技術開発に不可欠な写真技術に触れておくことにし、ダゲールによる「ダゲレオタイプ」(銀板写真)と、それに次ぐタルボットの「ネガ・ポジ法」について語りました。今回は更なる実用化に向けて開発された「湿版写真」の登場についてお話ししておきましょう。

●湿っていないとダメな「湿版写真」

 1841年にイギリスのタルボットが編み出した「ネガ・ポジ法」は、ダゲールの「ダゲレオタイプ」のもつ、複製が作れないという最大の問題点を解消し、被写体の〈分身〉である肖像写真のコピーを可能にしました。これにより、被写体である人物は、その写真が傷んでも焼き直すことにより、いつまでも撮影時の若さを保つことができるようになりました。人の誰もが願う「不老不死」…その〈不老不死の分身〉がある意味で約束された訳です。

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●外光を採りいれた「ダゲレオタイプ
」の写真スタジオ 左壁際に立ててあるのは頭押さえのポール


 「ネガ・ポジ法」による写真法には、その後、露出や現像時間短縮のために、紙からガラス板への転換や薬液の調剤などに改良が加えられた結果、1851年、イギリス人彫刻家フレデリック・アーチャーによって新しい技法が誕生します。

あーちゃー.JPGフレデリック・アーチャー

それは、コロジオンという液体と銀の化合物を塗ったガラス版に露光させるというもので、露光時間を12分という短時間で実現できるものでした。けれどもこの技法は、コロジオンが湿っている間に撮影と現像を済まさなければならないというもので、「湿版写真」と呼ばれました。
 
カメラマンは撮影の直前にガラス版にコロジオンを塗り、12分間ハラハラしながらレンズに被せてあるシャッター代わりのふたを開けて撮影し、撮影後は大急ぎで現像液へ、という大忙しの手順なのでした。

●写真スタジオの登場
 
それでも「湿版写真」は従来に比べれば画期的な大変革でした。「湿版写真」が発表されると直ちに、欧米を中心とする大都市のあちこちに写真スタジオが登場するようになりますが、それは、撮影・現像という複雑な作業をコロジオンが湿っている間にやらなければならないという「湿版写真」の特性と無縁ではありません。

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●1850年代には欧米において名刺写真が流行。 ●リンカーンの名刺写真

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●多眼式写真機
はポートレート写真を身近なものにした。

スタジオ撮影のニーズは圧倒的に肖像写真でした。そのうちにいちいち焼き増しする必要のない複数レンズを備えたカメラも登場し、一度に4枚とか8枚の写真撮影もできるようになると、肖像写真は更に手軽なものとなり、「名刺写真」として自己紹介の際などに利用することがブームになったりしました。

 複眼レンズカメラはその後さらにエスカレートし、9枚、12枚と増え、25枚というものまで出現しました。こうなると大きさはほぼ切手大。人々は好んでこの切手サイズの自分の肖像写真を手に入れると、ブローチやペンダントにはめ込んだり、手紙に張り付けたりして楽しみました。20世紀末に一世を風靡した「プリクラ」の起源はこんなところにあったともいえるでしょう。


●「湿版写真」の時代はおよそ20年間

複数レンズのカメラは間もなく立体写真の撮影に転化されます。立体写真については稿を改めたいと思いますが、すべてはかなり写真の実用化が進んできたことの証明です。
 一方で複数レンズのカメラは、〈動く写真〉の研究者にもある種の啓示を与えます。このことについては、追って〈動く写真〉の項目でお話したいと思います。

このように「湿版写真」の登場はいろいろな方面に明るい波紋を呼び起こします。とは言え、湿っているうちに、という難点が解消されるわけではありません。ただ難点というのは現在の見方であって、当時の写真家たちは、大層便利になったものだと喜んでいたはずです。
 
そうは言っても屋外での撮影ともなるとその装備は大変なもので、ただでさえかさばる撮影機材の他に、暗室すらも運ばなければなりませんでした。

 
1861年にアメリカで南北戦争が始まると、写真家ブラディたちは写真記録班として従軍。戦争終結の1865年までに数1000枚の写真を撮影したということですが、彼らは撮影機材と移動式暗室を馬に曳かせて飛び交う銃弾の下をかいくぐり、決死の撮影を行ったのでした。

1863 ブラディ.JPG
●南北戦争
でブラディが撮影した写真「死んだ狙撃兵」1863


●写真を使った玩具の登場
 
ところで「湿版写真」が登場したことは、当然のことながら、それまでの〈動く絵〉の研究を〈動く写真〉へと向かわせました。「絵」よりもリアリティのある「写真」を使おう、ということで、動画研究の流れが大きく転回します。

この段階で現れた発明が、以前「013」の記事の最後に前出しした「キネマトスコープ 1861」と「ファスマトロープ 1870」です。それぞれ「ゾートロープ」と「フェナキストスコープ」の絵の部分を写真に代えた玩具です。
 また、「ヘリオシネグラフ 1850頃」を開発したウヒャチウスも、マジックランタンを結合させた〈動く写真〉の投影装置を発表します。そのどれもが円盤に張り付けた写真ですからエンドレス。物語性はありません。とにかく最初の〈動く写真)はそのような形で映画前史に登場してきます。

1850頃ゾートロープ-2.JPG 図 1.jpg ヘリオシネグラフ 2.JPG
●ゾートロープ         ●フェナキストスコープ     ●ヘリオシネグラフ
 写真が誕生すると〈動く絵〉の部分が写真に置き換えられ〈動く写真〉へと進化した。



●今日に通じる「乾板写真」、いよいよ登場
 
とにかくコロジオン湿版写真術は、露光の失敗や現像処理の手違いなどのトラブルもあり、あまりにも専門的過ぎました。なんとか乾燥状態で撮影・現像を行えないものか。その願いは、1871年、イギリスの医師リチャード・マドックスによって叶えられます。

まどっくす.JPG●リチャード・マドックス

1880年代.JPG P1050036-4.JPGP1050036-2.JPG 
●乾板による肖像写真      こちらは記事に花を添えるためのイメージイラスト

 「乾板写真」は、臭化カリウムと硝酸銀の溶液をゼラチンに加えた感光乳剤をガラス板に塗ったもので、この方式によると薬剤が乾いた状態で感光させることができるようになったのです。「湿版写真」と比べて大掛かりな設備と手間がかからなくなったばかりでなく、保存が利くため、工場で生産できるようになりました。
それはコストの低下を意味します。また、ガラス乾板の露光感度は格段に高くなり、小型のカメラも登場するようになります。こうして「乾板写真」は瞬く間に世界に広がりますが、あくまでもそれは報道や上流社会の特権階級が楽しむことに変わりはありませんでした。

なお、日本に写真技術が伝わったのは1843年(天保14)と言いますから、「銀板写真」が発明されてわずか4年後のことでした。オランダ船によって長崎に持ち込まれた機材は1848年、薩摩藩主島津斉彬公の手に渡りましたが、薬剤の調合が難しく、撮影に成功したのは1857年9月と言われています。

 それ以降、日本でも写真館が開業されるようになりますが、大抵は外国人でした。長崎化学伝習所で薬学研究の立場から写真術を研究していた上野彦馬が外国人から学んだのは「湿版写真」でした。上野は1862年(文久2)、長崎で上野撮影局を開設すると、そこに訪れたのが坂本竜馬でした。誰でも知っているあの有名な写真はそこで撮影されたものですが、竜馬の〈分身〉は150年以上経過した今日でも立派に生き続けているということなのです。

 

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 さて、映画誕生に欠かせない写真技術について簡単に説明してきましたが、〈動く写真〉の話に戻す前に、もう一つ頭に入れておきたいテーマがあります。それは「立体写真とパノラマ」です。次回はそのあたりを。














017 行ったつもり、観たつもりの「パノラマ」と「立体写真」 [写真の発明]

017  映画以前の「疑似体験満喫装置」が、これ。
  「パノラマ」と「立体写真」

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●カティ・サーク 1969 学研の図鑑より

 前回は「映画誕生」の前提となる写真術の発明について概略を述べておきましたが、今回は写真に関連する「パノラマ」と「立体写真」について押さえておきたいと思います。
 
ご存じの通り両者は今日では、「パノラマ」は劇場の大スクリーンに。「立体写真」はCGによる3D映画に置き換わって進化していますが、それはどういったところから生まれたものなのでしょうか。

●「パノラマ」…その場に立ち合っているような臨場感
 「パノラマ」とは〈広い眺望〉という意味ですが、1785年にイギリスのロバート・パーカーがその原理を考え出しました。
 
パーカーは研究の末、1800年までにロンドンのレスター・スクエアに本格的なパノラマ専門劇場をオープンします。それはキャンバスを張った内壁が10,000フィートもある360度の円形シアターでした。

シアターは4階建てで、その中心には建物全体を支える太い柱があり、柱には各階の中空から上下を展望できるように、半分ほどのところまで手すり付きの床が張り出しています。入場者はキャンバスに描かれた大壁画を、各階を昇りながら、下りながら、あるいは周りながら眺めるという趣向です。


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●ロバート・パーカーのパノラマ館 
 各フロアから360度全円周に描かれた情景を上下から展望可能。 
 

最初の出し物は海洋王国イギリスが世界に誇る帆船の大艦隊でした。絵はもちろん動きませんが、照明と効果音が付けられました。

人々は360度の見た目いっぱいに海洋を埋め尽くす圧倒的な戦艦の姿にびっくり仰天。おまけに時間の進行につれて変化する朝から夜までの背景の色合い。圧巻は合戦です。艦砲のとどろきと赤い光が交差して艦砲射撃をほうふつさせる光の演出に観客は大感激、大感動。

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●パリのヴァリエテ座(左)とパノラマ館(右)

こうしてパノラマは一挙にブームを呼び、ヨーロッパ全土はもちろん、アメリカにも広がります。それぞれ大都会にはたいていパノラマ専門劇場が建つほどになりますが、ほとんどがスペクタクルを中心とする戦争の名場面で構成されていたので、やがてネタがなくなってしまうと、1830年頃にはパノラマ館の人気は下火になってしまいました。

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●イメージ 南北戦争、セブン・パインズの戦い                           

 ところが、アメリカは違いました。1865年に終結した南北戦争の名場面がパノラマでよみがえったのです。フランスで活躍していたパノラマ画家たちは、アメリカを目指します。こうして1880年代後半のアメリカでは、ゲティスバーグの戦い、アトランタの戦い、シャイロゥの戦いといった名場面が、ボストンやシカゴのパノラマ劇場で大人気を博し、パノラマブームが巻き起こるのです。

これは、過去に起こった現実の情景の中に等身大で自分も立ち合ってみたい…タイムスリップ…という欲求の代替行為に他なりません。

●「立体写真」…立体を立体のまま撮影できる道具がほしい。
「立体物をそのまま手にとれるような感じに描けないものだろうか」…人の両眼による
立体視の原理を応用したこの試みは、写真が生まれる前にすでに、鏡を利用して立体画を書く器具と技法を生み出しています。

立体図法.jpg


立体的な絵を画きたいと考えたくらいですから、写真が登場すれば写真の立体化が考えられるのは当然です。
「立体写真」の装置が登場したのは1858年。考案者はイギリスの光学技師ジョン・B・ダンサーでした。まだ湿版写真の時代に、すでに「待ってました!」とばかりに立体写真が生まれているのです。

それは、人の両眼に当たる2個のレンズを備えたカメラで撮影し、右目と左目用に撮り分けられた2枚の写真を現像後、レンズの付いた双眼写真鏡、つまり「ステレオスコープ」で覗いて立体視を得るものでした。(その後いろいろな方式が誕生)

初めはやはりお金持ちの道楽。「立体で観るなら、絶対これ」とばかりにご多分に漏れず密かに紳士の間で楽しまれたのはヌード写真でした。ここでは、こういったニーズが新しい技術開発の後押しをしているという風に受け取ることにしましょう。

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●1864年、州立公園となったヨセミテ
のハーフドーム


 当時、欧米のセレブたちが求めた写真は、近隣諸国の名所旧跡を写した風景写真でした。日本でいえば海外旅行写真です。この当時の旅行は汽車や汽船によるものでしたが、いかにセブとは言え簡単に出かけるわけにはいきません。そこで臨場感100パーセントの「行った気になれる立体写真」、という訳です。

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●イメージ

こうして「ステレオスコープ」は、ビクトリア王朝におけるヨーロッパの富裕層のステータスとして豪邸に飾られ、何十何百とコレクションされた異国の立体写真が来客に披露されたのでした。

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●ロンドン万国博で発表されたステレオスコープが一大ブームを引き起こした。1851

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●家族揃っての団らん写真やお祝いの写真として、立体写真がもてはやされた。

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●19世紀のステレオスコープ        ●これは20世紀初頭のステレオビューワー

●国情・世情が写真の需要を後押し
 19世紀後半のヨーロッパはイギリス、フランス、ドイツなどの列強諸国が覇権を巡って渡り合い、自らを先進国、文明人と呼んで未開の地を我が物にするための植民地開拓が進んでいました。その先ぶれは、まだほとんど明らかにされていない未知の大陸を詳しく調べようとする探検に委ねられました。

 例えばスコットランドの探検家デイヴィッド・リヴィングストンは、宣教師としての立場で1840年から1871年までの間に3回ものアフリカ探検を実施。ザンベジ川で発見した広大な瀑布に当時の英国女王の名を冠してヴィクトリア滝と名付けたり、奴隷商人による虐殺現場を目撃したりして、結果的にアフリカ大陸横断に成功しました。

これはほんの一例で、この他、1862年にはイギリスのスチュアート、オーストラリア縦
断に成功。1865年、イギリスのウィンパー、マッターホルン初登頂と続きます。

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●パリ
で公開された40人乗り係留気球 1878

 1869年は特に、ヨーロッパとアジアを結ぶ海路に大きな進展がありました。イギリスで紅茶を運ぶティー・クリッパーとして建造された高速帆船「カティサーク」は、中国大陸との距離を縮めました。また同年11月には、地中海と航海をつなぐスエズ運河が開通。ヨーロッパにとってはアフリカ大陸を回らなければ届かなかったアジアとの距離が格段に近くなったのです。「写真」が活躍する舞台は揃っていたのでした。

 これらの心躍る情報は、1868年にロール紙の使用で印刷の高速化を実現した輪転印刷機がロンドンのタイムズ社に登場すると、未知の世界へのあこがれに一層拍車がかかります。

「立体写真」は新聞が伝える世界のニュースと連動するように、パリ、ロンドン、ニューヨークの街頭風景はもちろん、地中海の遺跡群、アルジェリアのカスバ、モロッコのバザール、エジプトのピラミッド、はては万里の長城まで、格好の被写体として写し取り、人々に楽しまれています。

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●ガソリンエンジンが登場する前の電動軽三輪車1888

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●さあ、まだ見ぬ国へ。列車の旅、船の旅をいざなう観光ポスター。


●立体写真から〈動く写真〉への渇望へ
 
「立体写真」は奥行きのある現実の空間を、一度、一対の2枚の平面写真に変換し、それを更に「ステレオスコープ」で再変換して立体感を得るものです。このような面倒をしてまで、人はなぜ立体写真を求めたのでしょうか。

そこには、より現実に近い再現を…という強い欲求が感じられます。しかし、「立体写真」は必ずしも現実を再現してはくれませんでした。決定的な〈動き〉が備わっていないからです。そしてその欲求が〈動く写真〉に向けられて行ったことは、想像に難くありません。

 つまり、人々が「映画」に求めてきたことは今に始まったことじゃない。それどころか、写真が誕生する前からの願望であり、「写真」自体、そうした要求の中から誕生してきたもの、と言えるでしょう。
 
〈動く写真〉の研究者たちも、「写真を動かしたい」という次の段階の要求に応えるべく、ヨーロッパで、アメリカで、暗中模索を続けているのでした。


※立体写真関係の図版は伊藤俊治著「ジオラマ論」より引用させて頂きました。
※ポスター2点は鹿島茂著「パリ・世紀末パノラマ館」より引用させていただきました。
※お詫び
 HTMLを不勉強なため、文字面がきれいに揃わなかったり、過去記事には本文の文字の大きさが異なったりする不具合がありますので、どうぞご容赦ください。




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