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023 トーマス・アルバ・エディスン登場。 [技術の功労者]

023  インスピレーションでは浮かばなかった〈動く写真〉   
        トーマス・アルバ・エディスン ―1

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●エジソンと「フォノグラフ」(蓄音機) 1877(M10) 30歳

 
エディスンを世界に冠たる大発明家と呼ぶことに異論を唱える人はいないでしょう。
 当時の発明家たちは、自分の研究の秘密を守るということもあって、例外なく孤高でしたが、エディスンのアイディアは多岐にわたったため、「頭脳者集団」を構成し、手分けして研究に当たっていたところが大きく異なります。それにより、何種類もの研究を同時に進めることができたのでした。

 
また彼は数々の発明で特許をとり、発明をお金に変える実業面でも天才的な才覚を発揮した人物でもあったようです。
一般的には未だ職人的手工業生産が残る社会で、今日の先駆けともいえる分業化の経営手腕を発揮して効率を上げていた、名実ともに経営者と呼ぶにふさわしい人物でした。

 


●「フォノグラフ」(蓄音機)の成功で一躍スターダムに
 エディスンが発明の歴史の表舞台に登場するのは1868(M元)年あたりからのようです。1870年23歳の時に、証券取引所の電気表示機の特許が40,000ドルもの高額で売れ、研究所兼作業場を設立。潤沢な定期収入も得られるようになると、29歳までの6年間に300人もの作業員を雇うほどの急成長を見せました。この間に彼は発電や送電に関する120件以上もの発明を行い、実績と名声を欲しいままにしていきます。

 彼が、のちに「メンロー・パークの魔術師」と呼ばれるようになる、米国ニュージャージー州、メンロー・パークに研究所を設立したのは1876(M9)年のことでした。彼は名声を元手に
欧米の優秀な科学者や技術者を集め、今で言うプロジェクトチームを編成。その総帥として、電気事業に焦点を当てました。その構想は広く、発電、送電、通信、照明から電気鉄道(電車)や今でいう家電関係に至るまで広範なものでした。
 若くて気鋭の彼の脳裏には、鉄鋼王と呼ばれて財界に君臨していたアンドリュー・カーネギーや、石油産業で財を築いたロックフェラー一族のような大実業家の姿がイメージされていたかもしれません。鉄と石油の次に来るものは電気だ、という明確な読みがあったのではないでしょうか。

 
ところがこの年、音声を電波に変える新しい通信手段である電話の発明でグレアム・ベルとバッティング。特許申請は先に出したのですが、その2時間後に提出されたベルの申請内容の方が優れていたために、タッチの差で負けてしまいました。この時のエティスンの悔しさは、後にエディスンが関係することになる「GE」(ゼネラル・エレクトリック)と、ベルが設立する「AT&T」の時代になっても、ライヴァルとして続くことになります。  

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●時代背景  1879(M12)年、ドイツにジーメンスのおとぎ電車が登場した。

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●1890年前後には、電話は通話だけでなく、音楽配信や劇場中継などにも利用された。
  上/男性四重唱の電話送信   
         (4人の音声を蓄音機で録音したとすれば、マルチチャンネル録音になるところだった)
   下/劇場中継を聴くホテルロビーの賓客たち。
      
 さて、ベルに後れをとったエディスンが
、その技術の応用として思いついたもの。それが、音声を記録できる「蓄音機」という構想でした。音を記録するためにはメディアが必要です。彼は、蝋を塗った円筒を考え、それを回転させながら、電磁石の上に置かれた薄い振動板で増幅された音声の波動を針で刻み込んでいく方法を考えました。「蝋管蓄音機」といわれるものです。

 
音声を再生させる場合は、録音と反対に、蝋管に刻まれた音の溝を針でなぞり、その振幅を振動板によって音として再現します。その音は非常に小さいものでしたので、後に彼はチューリップ型の拡声器を取り付けました。エディスンはこの音声録音・再生装置を「フォノグラフ」と名づけました。

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●「フォノグラフ」(蝋管蓄音機) の仕組み  

サプライズをどう演出するか。話題づくりで大成功。
 1877(M10
)年12月のある日、31歳のエディスンは、前日に完成したばかりのその機械を携えてサイエンティフィック・アメリカン誌の編集室を訪れました。
 応対した係員の前にエディスンはその機械を取り出すと、たいした説明もしないうちに、やおらハンドルを回し始めました。するとどうでしょう。「こんにちは。初めてお目にかかります。私はフォノグラフと申します」と、機械が自己紹介を始めたのです。係員が驚いたの何の。それが早速記事になって欧米を駆け巡ったことは想像に難くありません。

 ところがフランスあたりのやっかみ連
から、「どうせペテン師のほら話だろう」、との声が上がりました。「…ならば」とエディスンは代理人をフランス科学アカデミーに送り込み、改良版の公開実験を行うことにしました。
 その時は一般の人たちもいっしょ。満場の会場が静まり返るのを待って、例の「フォノグラフ」自身による自己紹介が始まりました。

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●パリ、トロカデロにおける蓄音機のデモンストレーション
   水を打ったように
静まり返った大会場に、か細い音楽。だがその後は熱狂的な拍手、拍手! 

 それだけでも信じられないのに、次に代理人が声色を使って、「君はフランス語が話せるかい? もちろんですとも」と吹き込んだものを再生すると、代理人の声とは思えない低音の声が同じ言葉を繰り返しました。別人が同じ言葉を発したように聞こえて聴衆は戸惑いましたが、それは手回しの回転スピードが録音のときと違ったためで、代理人はすぐに自分の声と同じ感じの再生スピードでやり直しました。会場が沸き立ったことはいうまでもありません。

●発明の完成は、ゴールではない
 発明は、ただ特許を申請すればおしまい、ではありません。それを真っ先に生み出した人物が自分であることを世の中に宣言し、銀行家や投資家、資産家といった人たちから資金を集めて、事業として動き出さなければ儲けにはつながりません。そこにPRの大切さがあるのですが、そういった実務は、実は他の科学者や発明家たちがいちばん苦手の分野です。それに、研究の片手間でできるような仕事ではありません。

 その点エディスンはPRの効果をよく知っていましたから、そうした活動を行うスタッフも揃えていました。その素性は必ずしも感心したものではなかったようなのですが、それは次の機会に譲ることにして、とにかく一方は徒手空拳。それに対してエディスンは、プロデューサーとしてチームプレイを統率していたのでした。

 
当時、発明のPRといえば、発明家が学会などで講演を行ったり、実験を見せたりしていました。ところが「フォノグラフ」は人の声だけではなく、音楽を記録することもできるのです。
 エディスンは「フォノグラフ」は決して専門家向けの道具ではなく、社会全般に広く受け入れられるものであることを確信していました。

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●上/ピアノ演奏の録音  下/コルネットの録音 ともに1889(M22)年

 エディスン
は「フォノグラフ」の将来性について、次のポイントを挙げています。
◎速記者の代行ができる。
◎遺言状の代わりに使える。
◎離れていて会えない人や、他界した人の声が聴ける。
◎手紙を書く代わりに「フォノグラフ」で録音したものを送り、受け手が「フォノグラフ」で再生する。
◎小説を吹き込み、複製すれば、家庭でお茶を飲みながら名作を聴ける。
◎歌手の歌声を吹き込めば、安いお金で、毎晩でも部屋の中でオペラが聴ける。
◎録音フォイルの回転スピードを変えたり、逆に回したりすれば、変化に富むアリアを楽しめる。
◎子供たちの言語教育や、俳優の台詞の訓練に使える。
◎人の声を出す人形や、人の声で時刻を知らせる時計などの玩具に使える。

 これらの項目はほとんど、今日のニューメディアにもそっくり当てはまると思いませんか。エディスンが「フォノグラフ」の将来性について、ここまでのビジョンを持っていたということは驚嘆に値します。こうした洞察力は、さすがエディスンというしかありません。

 
発明を完結させることがゴールなのではなく、実はそこからがスタートなのだということを知っていたトーマス・アルバ・エディスン。彼は、「音声」の次に来るもの、それは何かも知っていました。ただし、それは彼の例のインスピレーションから生まれたものではなかったようです。エディスンが声の出る機械を開発している間に、アメリカとヨーロッパでは複数の発明家や科学者による〈動く写真〉の研究はどんどん進んでいたのです。

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●「フォノグラフ」(蝋管蓄音機)発明時のトーマス・アルバ・エディスン 1877

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●進化した「改良型フォノグラフ」とエディスン 1888
  
左の小型発電機で発電して電気モーターを回し、レシーバーで聴く。





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024 昨日の友は、今日の敵。 [技術の功労者]

024  そのPRはプラス? マイナス?

          トーマス・アルバ・エディスン - 2
 
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●1880年代末にエディスンを訪れたこともあるフランスの舞台女優サラ・ベルナール。
 初期のフランス映画にも登場。


 1870年、若干23歳で、特許で得た40,000ドルを元手に本格的な事業を発足させたトーマス・アルバ・エディスン。
彼は、1876(M9)年、ニュージャージー州メンロー・パークに研究所を開設すると、スタッフと設備を充実。成果第一号として翌1877年に「フォノグラフ」(蝋管蓄音機)の発表に至りました。
  
彼は財界への働きかけも怠らず、当時の花形である鉄道や銀行の大物たちと強固なパイプで結ばれるようになっていきます。彼は自分を成功に導いた「特許」というものの計り知れない効力を知り、発展の限界が見えないほどの将来性を持つ電気の開発に打ち込んでいきます。本国はもちろんヨーロッパへと多忙を極めるエディスンには、〈動く写真〉を考える余裕はありませんでした。

●白熱電球の明るさに、人々は天国を見た

  当時、アーク灯やガス灯に代わる新しい照明として「電気」の研究が進められていたのですが、エディスンは1878年に「エディスン電灯会社」を輿し、国内ではウェスティングハウス・エレクトリック社、海外ではドイツのジーメンス(シーメンス)社といった第一線の企業と競合しながら、その開発を急いでいました。

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●トーマス・アルバ
・エディスン     ●エディスンの白熱電球 1879(M12)

  照明システムの末端は電球です。メンロー・パークの研究者たちは、真空のガラス球の中に白金の細い線を封じ込み、電流を通じて発光させるところまでは成功していました。けれども、電圧を上げるとたちまち溶けてしまうため、それに代わるものとしてエディスンは、炭素のフィラメントを考えつきました。それに適する素材が見つかるまで、考えられるあらゆる繊維が試されたといわれていますが、1879(M12)年10月の末、ついに成功。
   それは、特殊な真空ポンプで空気を抜いたガラス球の中に、炭化させた糸を封じ込めたものでしたが、その電球は45時間も連続して輝き続けたのでした。

  研究はさらに続けられ、新たな電球の公開実験が1880(M13)年の新年パーティを兼ねてメンロー・パークで行われることになりました。招待された政財界の大御所や新聞記者たちは、大晦日の夜、特別仕立ての列車で到着しました。
    彼らは真っ暗闇の中で、何が起こるのだろうと半信半疑のまましばらく待たされていましたが、しびれを切らす直前に突然閃いたまばゆい明かりに、思わず声を失ってしまいました。彼らは光り輝く何百という電球に取り囲まれていたのでした。
  翌日の新聞には、パーティに参加した記者による「私は天国を見た!」という記事が踊っていました。この発明で、京都男山・岩清水八幡宮の竹がフィラメントとして利用された話は有名です。

  またしてもエディスンの演出の勝利でした。ガス会社の株は暴落し、「エディスンの人気は留まるところを知りません。
1881(M14)年にエディスンは、米国屈指の資産家で銀行家のモルガンの後ろ盾で、鉄道や電信で成功した投資家たちに支援され、「エディスン電気照明会社」を興しますが、その後も継続して、電気照明のシステム開発をはじめ発電、送電用機器の開発に力を注ぎます。


●出るくいは打たれることも

 1882(M15)年、35歳のエディスンはニューヨークのウォール街南部をモデル地域に定め、オフィス、商店、住宅などの照明として13,020個もの電球に電気を供給することになりました。そのために市内に4階建てのビルを購入。蒸気機関を動力とする8基の発電機を備えた「エディスン中央発電所」が発足しました。

IMGP7782.JPGIMGP7788.JPGIMGP7784.JPG1882ニューヨークのエジソン中央発電所.JPG
●上4枚 エディスン中央発電所 1880~ 1882

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●ニューヨークにおける大統領選挙キャンペーン・デモパレード 1884(M17)

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●馬車にもヘッドライトと室内灯が 1885(M18)

   「これからは電気の時代です。太陽のように明るく、無色無臭で健康的。しかも炎を出さないから安全快適。電線は新時代の象徴として町中に張り巡らされ、家庭では照明に限らず、暖房、ミシン、洗濯機などの動力をはじめ、トースターや電気アイロンなど、便利に使われるようになるでしょう」・・・・・・

   ところが、その前に立ちはだかったのがウェスティングハウス社でした。この会社はエディスン社が直流の電気を普及させようとしていたのに対して、交流の電気を主張している会社でした。
1883(M16)年にジョージ・ウェスティングハウスは交流式の方が柔軟な電力供給システムを組めることをつかみ、特許をとろうとしていたのです。その技術の最先鋒は、エディスン社で働いていたことのあるニコラ・テスラでした。彼はエディスン
社で交流電流の優位性を主張してエディスンと対立し、たった1年ほど在籍しただけで、ウェスティングハウス社に移っていたのでした。

    結果的に今日の家庭の電流は交流式なのですが、エディスンにとって、これは会社の将来を脅かす大問題でした。まして直接のライバルが以前の部下とあっては退くことはできません。

ニコラ・テスラb.JPG●ニコラ・テスラ


●仰天。ライバルに向けたエディスン側の対抗策とは
    
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1886.JPG
●エディスン電灯会社の外観と内部の復元写真 1886(M19)
 デトロイト郊外「ヘンリー・フォード博物館」に移築されている


 
エディスンは直流の方が交流よりも優れていることを証明しなければなりませんでした。そこで例のPR活動が登場します。
  ただし、この話は必ずしもエディスンが指示したとは言えません。どんな会社にもお偉方に気に入られるように先手を打って立ち回る勝手連がいるように、これもそういった軽薄極まる連中が<エディスンのためを思って>考え、実施したことだと思います。
  それは広告業界でネガティブ・キャンペーンと呼ばれるもので、相手のマイナス面を挙げて自己の優秀性をアピールする手法ですが、エディスン側のやり方は、現在では到底考えられない発想によるものでした。

    彼らは、ウェスティングハウス社が提唱する交流電流の危険性をアピールする公開実験を企てました。たくさんの野良犬、野良猫が狩り出され、報道陣の前で交流電流を通した鉄板に乗せられて焼かれたというのです。当時は衛生面や危険性などで社会に悪影響を及ぼすものを排除するということで、歓迎されたかもしれません。
  また、1888年(M21)、処刑用に電気椅子が考えられたときには、エディスン側は得たりとばかりに、「死刑にこそ交流電流がふさわしい」ことをPRするために、野良犬による公開実験を行ったりしたのでした。
  これらの動物たちが研究の役に立ったというならまだしも、単なるデモンストレーションの犠牲にされたということは、今日では考えられないことでした。


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●電気椅子のテスト、といっても彼は座っているだけですよ、当然。 1890( M23)
) 

     この話をするときには、19世紀末では小動物に対する倫理観が希薄だったことを前提にしなければなりません。アジアでは犬は食卓にのぼっていましたし
、ヨーロッパでは野犬がもたらす狂犬病も脅威でした。野良犬、野良猫は、当時はゴミ同様の存在だったかもしれません。

  それにしても、このような公開実験が大衆に全面的に支持されたとは思えません。部下がやったとしても、それはトップの座にあるエディスン自身に何らかの形で跳ね返るはず。知らないでは済まされません。
  そう考えると、エディスンの発明それ自体は輝やいているのですが、この後に続く映画誕生に関する限り、そこに登場するエディスンは必ずしも他の発明ほどには輝いて見えないのです。

  蒸し返すようですが、ニコラ・テスラがエディスン社を離れた理由については、次のようなエピソードがあります。交流電流の優位性を唱えるテスラにエディスンは言いました。「それなら、もし、直流用に設計されているこの工場のシステムを、君の言う交流電源で動かすことが出来たら、50,000ドルのご褒美を上げようじゃないか
」。
  自分の持論に自信を持っていたテスラは、勇んで設計を見直し、見事にそれを実現してしまいます。ところがエディスンに「あれは冗談で言ったんだよ」とはぐらかされてしまったというのです。このエピソードも冗談だといいのですが・・・。

   とはいえ、飛ぶ鳥を落とす勢いのエディスンは、1889年、電気関連の系列会社をまとめた大企業のトップとして君臨することになります。その企業とは彼の名を冠した、エディスン・ゼネラルエレクトリック・カンパニー(のちのGE
)です。   
                                
つづく

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●ニコラ・テスラの人体放電実験 1877

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●ニコラ・テスラの高電圧放電実験



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025 火(非)の無いところに、立つ煙。 [技術の功労者]

025  疑惑の人
          トーマス・アルバ・エディスン - 3

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●パ
リ万博に向けて建設中のエッフェル塔 1888年6月                ●トーマス・アルバ・エディスン 1880頃

 映画の発明に向けて、アメリカやヨーロッパでたくさんの発明家や研究者が苦難の研究を続けていた19世紀末。ガラスの写真で行き詰っていた機械的な問題にブレークスルーをあたえたものが、1888(M21)年、ジョージ・イーストマンによるセルロイド製ロールフィルムの発明でした。

  これによって映画の発明競争は一挙に最終段階に突入するのですが、それまで〈動く写真〉にさほど関心を示さなかったエディスンが、「機は熟した」とばかりに動き出します。

200px-GeorgeEastman2.jpg●ロールフィルムの発明者 ジョージ・イーストマン

●エディスンは〈動く写真〉では明らかに後発だった
  1877(M10)年、蓄音機「フォノグラフ」の発明で注目され、その2年後に「白熱電球」で世界をあっといわせたエディスンは、話題になっている〈動く写真〉に、決して無関心ではありませんでした。それどころか、ますます普及している「フォノグラフ」と〈動く写真〉を合体させたら…とすでに考えていたふしがあります。

  1882年、ニューヨークで彼は「エディスン中央発電所」の開設を急いでいましたが、南隣りのニュージャージー州ウェスト・オレンジで、あのエドワード・マイブリッジによる動画上映付きの講演会が開かれると聞くと、多忙な時間を遣り繰って出向いていきました。 

 その数日後、エディスンとマイブリッジは会うことになりました。そこでマイブリッジから出た言葉は思いもよらないものでした。自分の「ゾーアプラクシスコープ」とエディスンの「フォノグラフ」を同期させた、音声付き映写機を作れないものか、という相談だったのです。
 エディスンは即答を避けました。エンドレスで同じ動画が繰り返されるだけの装置では、エディスンの考える〈動く写真〉のイメージとは大きくかけ離れていたからではないでしょうか。結局その話は物別れに終わったようでした。

マイブリッジ.JPG IMGP7708.JPG
●マイブリッジ   ●ゾーアプラクシスコープ
★関連記事 http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/2009-07-20 


 エディスンは〈動く写真〉の発明競争を十分意識はしていましたが、動かなかった背景には、それがどれほどの利益をもたらすのかをつかみ切れていなかった事業家としての見方がありそうです。それに彼のプライドが、今さら他の発明家の後を追うことを潔しとしなかったのかも知れません。

 けれども、マイブリッジも同じことを考えているということが、エディスンの気持ちを動かしました。後発だということを自覚していたエディスンは、他の発明家たちと全く方式の異なる装置を生み出さなければなりませんでした。
 思索を巡らす中でエディスンは、改良を加えて完成度を高めた「フォノグラフ」の仕組みを〈動く写真〉に転用することが、遅れを取り戻す近道になると考えました。「うまくいけば、誰もまだ完成させていない音声付き動画装置の発明を実現できるかもしれない」。

 他の発明家たちがこぞって上映式の動画装置を目指す中で、エディスンはあえて上映方式を選びませんでした。「フォノグラフ」の動画装置への転用は、先発の方式との明確な差別化を目指したからであると考えるのが妥当ではないでしょうか。

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●改良型フォノグラフ
★関連記事 
http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/2009-07-28  



●オリジナルの研究を手がけてはみたものの…

 エディスンの発想は、蝋管に刻む螺旋状の音の溝の代わりに、連続写真を螺旋状に並べたら…というものでした。まずドラムにフィルムシートを巻きつけ、手回しで連続写真を螺旋状に写し込みます。次にその連続写真のシートを「フォノグラフ」のドラムに巻きつけて、回転させながらその動きを覗き見るというものです。

 こうして「フォノグラフ」から10年後の1887(M20)年。エディスンは研究所兼電気製品製造工場をウェスト・オレンジに建てたことを機に、活動拠点もメンロー・パークからそちらに移して、〈動く写真〉の開発に着手したのでした。


エジソン 螺旋フィルム.jpg

●光学蓄音機用ロールフィム 動画参照


  蓄音機の動画版とも言うべき装置の開発を仰せつかったのは、日ごろエディスンから信頼され目を掛けられていたスコットランド生まれの敏腕技術者、ウィリアム・:ケネディ・ローリー・ディクスンでした。

  彼は成人して間もない1881年。青雲の志を抱いてイギリスからアメリカへやってきた青年の一人でした。彼の目的は一つ。世界的発明家の元で身を立てたいと思っていたのでした。幸運にもエディスンに会えた彼は早速、発足したばかりの「エディスン電気照明会社」に採用され、技術者としての手腕を発揮。今ではエディスンの助手として信頼され、技術面を支えていました。

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●ウィリアム・ディクスン            


●ディクスンによる光学蓄音機 (再現動画は無音声です)


  ディクスンが最初に使ったのは紙製のロールフィルムでした。紙フィルムの誕生は、ガラス板の写真で行き詰っていた動画の仕組みをそのしなやかさで見事に解決してくれ、たちまち〈動く写真〉の研究者たちに迎えられましたが、高速で送る時に均衡を保てない、すぐに切れてしまう、などの新たな問題が発生し、みんな苦慮していたのですが、ディクスンも全く同じ苦労を味わうことになりました。

  ところが翌
1888(M21)年、ジョージ・イーストマンがセルロイド製のシートフィルムを発明したという朗報が入りました。ディクスンは早速それを取り寄せてみると、それは1フィート四方のセルロイドシートにゼラチン感光材が塗られているものでした。彼はそのシートをシリンダの幅に断ち、巻きつけて使うことにし、試行錯誤の結果、一応の成功を見ました。これを彼は「光学蓄音機」と呼びました。

  けれども、写真を一コマごとに停止させる、動画に不可欠な間欠送り機構に無知だったため、またも研究は行き詰まってしまいました。

●「動く写真」に関する情報はエジソン周辺にあふれていた

この1880年代の終わりから映画誕生の年とされている1895(M28)年末までの10年足らずの間は、欧米の開発者たちの動きが入り混じっていて実に複雑です。

のちに映画撮影機のプロトタイプと称されるエチエンヌ・マレーの最新型「フィルム式クロノフォトグラフ」が発表されたのも1888(M21)年でした。あの写真銃や多重露光を考案した発明家です。

マレー.jpg 1890 マレー フィルム式クロノフォトグラフ.jpg
●マレー            ●フィルム式クロノフォトグラフ 1888
★関連記事 http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/2009-07-21  


1887クロのフォトグラフ 2.JPG  1890 マレイのフィルム式クロノフォトグラフ 2.JPG
●フィルム式クロノフォトグラフ 1888                          ●フィルム式クロノフォトグラフ 1889


マレーも最初に開発した「クロノフォトグラフ」はまだロールフィルムが発明される前だったために、1枚のガラスの写真乾板の上に連続写真を多重露光の形で写し込むものでした。

  けれども1887年から取り掛かった
「フィルム式クロノフォトグラフ」は、ロールフィルムの採用によって、1本のフィルムの上に1コマずつの連続写真として記録できるようにしたものでした。そしてそこには電磁石で正確な間欠運動を起こすフィルム送り機構も付いており、メカニズムは「科学アカデミー報告」という学会で紹介されていました。

一方、この年、やはり先に述べたウィリアム・グリーンがエディスンに手紙を送っています。彼は今日、フィルムを正確に送るためのパーフォレーションの考案者として伝えられていますが、立体映画を撮影するカメラについての研究も続けていました。彼はエディスン宛てに、自分の撮影機兼映写機とエディスンの「フォノグラフ」を結びつけた音声映画撮影・再生装置について、詳しい図面を付けて送ったといわれています。ただし、この話はエディスン側によって否定されているようです。
グリーン.JPG グリーン 立体鏡映画カメラ.JPG
●グリーン         ●立体映画撮影・再生機
★関連記事 http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/2009-07-25

また、1889(M22)年8月に開催されたパリ万国博覧会で、エディスンは「フォノグラフ」と「白熱電球」のデモを行っているのですが、その際、マレーがエディスンに、オットマール・アンシュッツの「エレクトロ・タキスコープ」やエミール・レイノウの「テアトル・オプティーク(光の劇場)」を案内したということも知られています。

オットマール・アンシュッツ2.JPG アンシュッツのタキスコープ1895.jpg
●アンシュッツ       ●エレクトロ・タキスコープ
★関連記事 http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/2009-07-25  

エミール・レイノー.jpg レイノウのテアトル・オプティーク1893.jpg
●レイノウ          ●テアトル・オプティーク〈光の劇場〉
★関連記事 http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/archive/c2305470851-1  


  つまりエディスンは、何人もの発明家が何年もかけて取り組んできた〈動く写真〉の最先端技術を、1890年までにほとんど見聞きすることができたということです。おそらくエディスンはその時、ディクスンに任せている蓄音機を応用した音声動画装置「光学蓄音機」の限界を知ったに違いありません。

  そしてもう一人、覚えておいででしょうかオーギュスタン・ル・プランス・・・。ニューヨークで世界初の映画上映を成し遂げようと、勇んでパリ行きの列車に乗り込んだまま行方不明になってしまった、あの発明家のこと。彼が失踪したのは1890(M23)年9月でした。

結局、ル・プランスの足取りはつかめなかったのですが、エディスンによる新方式の動画装置「キネトスコープ」が発表されたのはその翌年、1891(M24)年のことでした。そこで、〈動く写真〉の開発に後れをとったエディスンの名前がささやかれた訳です。
 
ル・プランス2.jpg IMGP7742.JPG
●ル・プランス        ●単レンズ式撮影機
★関連記事 http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/2015-03-27  


●灰色疑惑の背景

エディスンは特許の取得に対しては最優先だったようです。それは発明家として当然のことですが、自分の成功は特許権が予想外の高額で売れたことに端を発している、ということも大きく作用していると思われます。また、その後、特許に関する係争で、何回か苦汁を飲まされてきたことも事実でした。

  
当時、アメリカの特許制度には「暫定特許出願」というものがありました。これは発明を構想の段階で出願しておけるもので、あとで誰かが同じようなものを発明した場合に、「それは自分が先に考えていたんだよ」と主張できるというものです。機構的な詳細記述は多少曖昧でも(実はそこが一番肝心な部分のはずですが)「このようなもの」という概念が新しければ、申請は受理されていたようです。

  
エディスンはアイディアが沸くたびに「暫定特許出願」を行っていたようです。蓄音機はまったくのオリジナル発明として誰もが認めるものですが、通信機にしても白熱電球にしても、この〈動く写真〉にしても、エディスンは優れたコーディネーターのようなもの。その手腕はすばらしいのですが、先に考えていた人たちからは反論され、訴訟も発生しました。 エディスンはその対抗策として、腕っこきの顧問弁護士団を編成していました。

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●エリス島の移民局

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●エリス島に上陸した移民

  またアメリカは、増え続ける移民を受け入れる窓口として、1892年、ニューヨークはエリス島に移民局を設置。移入した民族はさまざまで、いさかいがあり、治安が乱れ、アメリカの社会情勢は混沌を極めました。

  例えば、エディスンが1887年からウェスト・オレンジに研究所を構えている1890年代初頭のニュージャージーと言えば、マーティン・スコセッシ製作総指揮のテレビ映画「ボードウォーク・エンパイア」の舞台でもあります。移民の中からギャングが台頭し始めた時代です。それ以前から悪徳の魔手は政界、警察機構、司法の世界にまでおよび、贈収賄、買収などは日常茶飯事。みんな疑心暗鬼でライバルの動静を伺う。そのために探偵業が大繁盛。その探偵もスパイ、密告の手先、といった社会環境の中で、前回お話したような、金のためには何でもする連中を、〈エディスンのためを思って〉裏で操る「身内の勝手連」が存在していたとしたら・・・。

  オーギュスタン・ル・プランスの失踪事件で関係者の間でささやかれた
疑惑は、エディスンに垣間見えるそうした影の部分を、人々が感じていたからではなかったでしょうか。

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●時代背景  19世紀末 車が登場する直前の光景

★次回はジョージ・イーストマンの「ロールフィルム」について


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026 決まっていなかった映画フィルムの幅 [技術の功労者]

026  決まっていなかった映画フィルムの幅
        ジョージ・イーストマン


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●19世紀末の典型的な業務用(プロ用)スチルカメラ  20世紀前半まで大いに活用された。

  これまでは〈動く写真〉を、メカニズムの開発という面から展望してきました。それが写真技術の制約を受けていた訳ですが、乾板写真の登場で露光感度や現像処理が飛躍的に高まったとはいえ、相変わらず硬いガラス板や透明度の低いゼラチンや紙製フィルムの膜面にしか露光できないで行き詰っていた、というところまでお話しました。
  その切実な問題は、アメリカのジョージ・イーストマンがセルロイド製のロールフィルムを発明することによって解決されます。今回は硬質な感光ベースに代わって初めて登場する、「フィルム」と呼ばれる柔軟なメディア(媒体)についてお話ししましょう。 


●みんなが写真を楽しめるように

  今でこそ写真といえばデジタルの時代ですが、つい最近まで、あるいは現在でも、プロ業界やマニアの間でロールフィルムが使われていることはご存知のとおりです。ところが、1884(M17)年にジョージ・イーストマンが最初に生みだしたロールフィルムは、紙製だったのです。それでも紙製フィルムが開発されると、〈動く写真〉の開発者は、「待ってました」とばかりにこぞってそれを導入しました。

200px-GeorgeEastman2.jpg●ジョージ・イーストマン

  そもそもイーストマンは、銀行員だった青年時代から、当時の先端技術である写真に興味を持ち、専門家が持つような湿板写真用のカメラを持っていました。
湿板写真(コロジオン湿板)は撮影の直前に感光液をガラスに塗り、露出時間も長くかかり、露光後は薬液が乾かないうちに現像しなければならないという代物ですから、カメラ自体が大きな木箱で重い上、がっしりとした木製の三脚や現像用具一式を馬車に搭載して運ぶほどの大仕掛けなものでした。
  プロでさえ大変な写真撮影を、なんとかもっと簡単に出来ないものかと考えたことが、本格的に写真に取り組むきっかけでした。

1890写真用三輪車.JPG1870年代のカメラマン.JPG
1885~1900年頃のカメラマン 撮影器具類の運搬に馬車が必要だった

●〈動く写真〉用に、まず紙製ロールフィルムを
  ゼラチン乳剤を使い、乾いた状態で感光できる新方式の乾板写真(臭化銀ゼラチン乾板)が、ベネットによって発明されたのは1878(M11)年のことでした。
  
イーストマンはその情報をつかむと、自分でも実験を繰り返した末、2年後の
1880(M13)年、乾板の改良に成功。同時にその乾板を大量に生産できる機械の特許も得ました。そこで早速プロ向けの写真乾板の販売を始めたのですが、イーストマンのやり方は正直そのもの。不良品があればすべて良品と交換するという良心的なもので、短期間に多くのプロから絶大な支持を受けるに至りました。

IMGP7806.JPG
IMGP7804.JPG
●写真撮影風景 上/1884 マグネシウム光による室内撮影
            下/1888 自然光と補助光を利用した写真スタジオ


  この信頼を元に、彼は写真の楽しみをもっと広く、誰にでも味わってもらえるようにと考えたのですが、ネックはガラスの乾板でした。そこで彼はガラスに代わる素材を考えました。そして紙をベースにした感光紙に思い至ったという次第です。
  この紙製感光シートが、硬い・重い・割れ易い、というガラス乾板で行き詰まっている〈動く写真〉の開発者たちの最後の突破口になりそうだと読んだイーストマンは、
1885(M18)年に、ある程度の長さで巻いて使える紙製感光シートを商品化します。すると予想通り、すぐに発明家たちから反響がありました。結果、この紙製ロールフィルムが、〈動く写真〉の研究を加速させることになったことは、前回にお話した通りです。

グリーン5.JPG P1050562.JPG 
●イーストマンの紙製フィルムを使ったフリーズ・グリーンとル・プランスの動画フィルム
★関連記事 グリーン  http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/archive/20150330 
        ル・プランス 
http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/archive/20150402


  
ただ、スチル写真なら紙ベースでもいいのですが、〈動く写真〉には機構上、透明度と丈夫さが不可欠であることを知っていたイーストマンは、紙製ロールフィルムは当座の役割として、すぐに本格的なロールフィルムを作るため、その生地となるシートフィルムの開発に取り掛かりました。


●透明で丈夫なロールフィルムの誕生
  
彼が着目したのはセルロイドでした。セルロイドは1869(M2)年にアメリカのハイアット兄弟がこの名称で登録したもので、合成樹脂のはしりとされていますが、成型加工が簡単なので象牙の代用品やメガネフレームなどの装飾品、あるいは玩具などに利用されていました。
 
  
イーストマンが技師の協力を得て、セルロイドのフィルムベースの開発に成功したのは
1886(M19)年のことでした。初めて生み出されたのは長さ50フィートあまりのフィルムシートでした。
  彼はまずプロカメラ用に「巻き取り式フィルムホルダー」を考案しました。フィルムシートからプロカメラ用の幅に裁断されたフィルム
は、スプールに巻かれ、もう一方のスプールで巻き取るという仕組みで、これはのちの映画用リールに発展するものです。

aod2.JPG

  次に彼は最初の念願だった、誰でも写真を楽しめるように、小型軽量で持ち運べるカメラを開発しました。これが
1888(M21)年に"あなたはシャッターを押すだけ。あとは我々に…("You press the button, we do the rest")
という名キャッチで売り出された小型カメラ「ザ・コダック」です。この世界初の小型カメラは一躍イーストマンの名を高め、1892(M25)年、「イーストマン・コダック社」の誕生につながっていきます。

  
1888年といえば、エミール・レイノウがゼラチンフィルムに手書きした「テアトル・オプティーク(光の劇場)」を公開し、フリーズ・グリーンが紙製フィルムによる「マシン・カメラ」に成功し、エチエンヌ・マレーが「フィルム式クロノフォトグラフ」を完成させ、エジソン社のウィリアム・ディクスンが「光学蓄音機」で行き詰っていた頃です。

1895.JPG ●ロールフィルム使用のハンディカメラの例 1895

  セルロイドは、紙や木から作るニトロセルロースに樟脳を混ぜた天然素材です。ニトロ(硝酸)はダイナマイトの原料でもあり、発火の危険性が高く、それから作られるフィルムは極めて燃えやすい可燃性フィルムでした。「イーストマン・コダック社」はその問題に取り組み、
1908(M41)年、難燃性フィルムを開発します。

  ちなみに1950年代以降は、ポリエチレンテレフタレートによる安全な不燃性フィルムが使われるようになります。
  また、ついでながらジョージ・イーストマンは、収益を自社株の配当に比例して社員に分配したり、自己の持ち株の三分の一を社員に譲渡するなどして社員を優遇。また大学や病院などへの多額の献金など慈善活動も顕著で、人道的な経営者、篤志家としても知られています。


●フィルムの幅は決まっておらず、受注生産だった
  ところで1880年代末における〈動く写真〉の開発では、発明家や研究者はそれぞれがてんでに独自の仕様で進めていたため、フィルムの統一規格はまだありませんでした。注文に応じて指示された幅のフィルムを作って納める受注生産です。細いものでは13ミリ、広いものでは70ミリなど、いろいろな幅のフィルムが生地から切り出され、感光剤が塗られ、巻かれて納品されました。

1880 ロチェスターオフィス イーストマン.jpg●ロチェスターのイーストマンの会社

  
イーストマンは日増しに増加するフィルムの受注に備えて、1889(M22)年5月、ニューヨークはオンタリオ湖南岸のロチェスターに新しいフィルム工場を建てることになりました。それは8月に完成し、工場のガラステーブルの上で、幅3.5フィート、長さ200フィートに及ぶ長尺のフィルムベースの生産が開始されたのでした。(200フィートは正味の長さ。撮影の始めと終わりの、陽にさらされて黒味となる分だけ
実際はもっと長い) 


  こうして
ジョージ・イーストマンが開発したセルロイド製フィルムは、こ
れ以上研究を進めることが不可能と思えるほどの強固な〈動く写真〉の壁を一挙に取り除いてくれました。けれども、その開発において不可欠で中心的な役割を担うためには、もうワンステップ経る必要がありました。
  つまり、幅広で200フィートというフィルムシートをどのように使ったらいいかと言う目安のようなもの…それがありませんでした。そして、その指標を与えてくれたのが、実はエディスンの指示による「光学蓄音機」の開発で行き詰っていた同研究所の技師、ウィリアム・ディクスンだったのです。
                                                  つづく 

ウィリアム・ディクスン.jpg 

●「光学蓄音機」開発に行き詰っていたエディスン研究所の技師、ウィリアム・ディクスン
★関連記事 
http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/2009-08-04
                               


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027 人は〈時間のベルト〉を手に入れた。 [技術の功労者]

027 フィルムの幅は、なぜ35ミリ?
           ウィリアム・ディクスン / ジョージ・イーストマン

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●1889年「第4回パリ万国博覧会」のシンボル、エッフェル塔

 1887年、エディスンは、自分が発明した「フォノグラフ」(蓄音機)を動画用に転用した「光学蓄音機」の開発を、絶大の信頼を寄せている技師のディクスンに指示しました。それは翌年、一応の成果を収めたものの、紙製フィルムを使用する限界に突き当たり、技術的に行き詰っていました。
 その打開のきっかけを作ったのは、1889年、フランス革命100周年を記念する「第4回パリ万国博覧会」でした。それは白熱電球の発明で世界に揺るぎない名声を得たエディスンの、一大デモンストレーションの場でもありました。


●新素材は隘路を切り開く 
 1889年5月、トーマス・アルバ・エディスンは「第4回パリ万国博覧会」の会場に立っていました。歴史的な街区の美観を損なうという理由で反対も多かったというエッフェル塔が312メートルの威容を誇り、鋼鉄でアーチ形に組み立てられた巨大な空間を持つ機械館とともに〈鉄の時代〉の繁栄を圧倒的な華々しさで象徴していました。

 博覧会の様相は日暮れとともに一変しました。日本の参加も加え29ヵ国のパビリオンが立ち並ぶ広大な会場は、万博始まって以来の夜間開場。それはエディスンの白熱電球によって初めて実現したものでした。
 メインストリートやパビリオンはまぶしくきらめく電球で飾られ、エッフェル塔は電灯とアーク灯のコラボレーションで、フランス国旗をイメージしたトリコロールのライトアップ。広い庭園では連日、カラフルな照明に彩られた噴水ショーが開かれていました。それは、〈鉄の時代〉はまた〈電気の時代〉でもあることを誇示しているようでした。

1889-3.JPG

1889_Exposition.JPG
●「機械館」の様子

 この会場の一角に新しい技術を展示している建物があり、エディスンはある人物を訪ねることにしました。そこでエディスンは大きな啓示をうけることになります。その人物とはエチエンヌ・ジュール・マレーです。彼は完成させたばかりの「フィルム式クロノフォトグラフ」を展示して、上映の実演を見せていたのです。

 エディスンの訪問を快く迎えたマレーは、同じ展示館で出店しているオットマール・アンシュッツとエミール・レイノーを紹介します。アンシュッツは「エレクトロ・タキスコープ」で。レイノーは「テアトル・オブティーク」(光の劇場)の実演で好評を博していました(前
々回に記述)。けれどもエディスンは、マレーの「フィルム式クロノフォトグラフ」に最も関心をひかれたようでした。

オットマール・アンシュッツ 3 .gifマレー.jpg
●オットマール・アンシュッツ ●エミール・レイノー

 全く新しい概念によるセルロイドのロールフィルムこそ、「光学蓄音機」の開発に行き詰まっているウィリアム・ディクスンの問題を解決するに違いない。それにしても〈動く写真〉の開発はこんなに進んでいる。なんと回り道をしたことか。
 エディスンは万博会場に9月いっぱい詰めていなくてはならなかったので、直接関係することはできません。はやる気持ちを抑えてエディスンは、早速ディクスンに「光学蓄音機」の研究をやめ、イーストマンのロールフィルムを使う方式に
方向転換するよう指示をあたえました。
                                             
2-3 edison 5.jpgウィリアム・ディクスン.JPG 200px-GeorgeEastman2.jpg
●トーマス・エディスン ●ウィリアム・ディクスン  ●ジョージ・イーストマン

 このことは後の1894(M27)年の新聞で、「この転換は、マイブリッジやマレーの研究成果をヒントに発想したものです」とエディスン自身が明言しています。マイブリッジの「ゾーアプラクシスコープ」とマレーの「フィルム式クロノフォトグラフ」がヒントだと言い換えてもいいでしょう。


●エディスンも〈動く写真〉の上映を考えていた?
 エディスンから方向転換の指示を受けたディクスンは、それからわずか数ヶ月。パリ万博からエディスンが戻るまでに、早くも結果を用意していました。

 1889(M22)年10月6日。ニュージャージー、ウェストオレンジの研究室に足を踏み入れたエディスンはびっくり。なんと、スクリーンに映ったほぼ等身大のディクスンが、帽子を取って自分に挨拶する姿を見ることになります。「お帰りなさい、エディスンさん。このキネフォノグラフをきっと満足していただけると思います」。
 声はスクリーンの動作に合わせてディクスン本人が話したのですが、エディスンは思わずひざを打って言いました。「そうだよ、そうなんだよ。私の装置は人が等身大で現れ、演劇やオペラの動きと台詞はもちろん、ボクシングのパンチの音までいっしょに聞かせてやろうというものなんだよ」。

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●「ディクスンの挨拶」これは1891年撮影のもの

 それより先の6月のある日、エディスンから方向転換の指示を受けたディクスンは、すぐにニューヨークはロチェスターのジョージ・イーストマンのオフィスを訪ねました。そこで彼は、「幅35ミリ、長さ50フィートのフィルムを4本ほしい」と頼んでいます。

 イーストマンの35ミリ幅、50フィートのロールフィルムを使ったディクスンの
「キネフォノグラフ」は、1秒に46コマというスピードで撮影され、上映時間は13秒ほどでした。フィルム送りのために突起のあるホイールが使われ、フィルムには穴が開けられていましたが、このパーフォレーションはフリーズ・グリーンを真似るまでもなく、1860年代に発明された自動電信機のテープに開けられた穴を思い出せばよかったのでした。(子供の頃、縁日で、テープの両サイドにピンクや水色を塗って売られていた、小さな穴の開いたテープがありました)


●「経費は最小、効果は最大」を考えたとき
 「キネフォノグラフ」はすぐに改良が加えられて1891(M24)年「キネトグラフ」となり、更に2年後の1893(M26)年、「キネトスコープ」として生まれ変わります。ここでも35ミリ幅のフィルムが使われましたが、ディクスンはこの数字をどこから割り出したのでしょうか。

 フィルムの幅は機械の構造を決定します。1コマの画面面積を大きく取ればきれいな画面になりますが、レンズもそれだけ大きくなり、機械も大型になります。ディクスン自身それまでの大型カメラの不便さを見ていますから、最小限度の1コマ面積をどれくらいにすればいいかと考えたに違いありません。また結果的に1コマの画面のアスペクト比(縦横比)を見ると3対4になっていて、黄金比が考慮されたようです。

 更にディクスンは、フィルム送りをスムースにするためのパーフォレーションの位置と形と大きさをいろいろ考えました。フィルムの片側だけ、コマとコマの間の真ん中など、いろいろ試した結果、フィルムの両サイドに、1コマに付き4つの穴を開ける仕様がいちばん安定するということを割り出しました。するとそれもフィルムの幅を決める際に考慮しなければなりません。

35ミリフィルム ディクスン.JPG P1050691.JPG       
●ディクスンの考えた35ミリ動画フィルム規格 画面のアスペクト比(横:縦)は4:3 
 この規格は世界標準規格として現在も変わらない。
 これを横にして2コマ分を1コマとして撮影するのがフィルム/スチルカメラの規格
 右は、ほぼ50フィートのフィルムロール。下のDVDと比較を。



●これは結果からの推量に過ぎませんが…
 イーストマン社が供給しているフィルムベース(生地幅)は42インチ(約106cm)でした。彼はこの生地から出来るだけ多くの本数を切り出したいと考えたはずです。

 
当時のフィルムの製造法はよく分かりませんが、製造設備はガラステーブルだったといいますから、おそらく溶かしたジェル状のセルロイド樹脂をその上で圧延したものと思われます。
 仕上がった
生地の天地左右は厚さにむらが出るため若干切り落とす必要があります。それを最小限にみて正味幅を105cm。この幅を元に、彼が必要とする1コマの画面の大きさと両脇のパーフォレーションを加えた必要最小限の幅が35ミリだったのではないでしょうか。

 そうするとフィルムの原反からは105cm÷35mm=30本の35ミリフィルムを切り出すことが出来る計算です。正味幅がもう少し狭い場合は28本だったかもしれません。
 また、ロールフィルムを利用するためにジョージ・イーストマンが考えたフィルムの幅が70ミリで、映画用はその半分の幅にしたという説もあります。
 いずれにしても、これがディクスンが考えた、明瞭な画質を保ちながら機構的な要求も兼ね備えた、必要最低限のフィルム幅だったのではないかと思うのです。この本数はコストパフォーマンスと言う面からも釣り合いのとれたものであったことはもちろんです。


●人はついに〈時間のベルト〉を手に入れた。
 
エディスン社のウィリアム・ディクスンが考案したフィルム規格が伝わると、〈動く写真〉の研究者たちがこぞって35ミリ幅のフィルムをイーストマンのところに指定して来るようになりました。その事実が何よりも、ディクスンのフィルム幅の妥当性を表明していると思うのです。(それにこだわらない研究者もおりましたが)

 そこでイーストマンの会社では、35ミリフィルムの量産体制に入るとともに、一般向けの小型カメラにも流用することを考えました。それは写真の楽しさを広めようと考えていたイーストマンにとっても好ましいことでした。
 こうして、35ミリロールフィルムというデファクト・スタンダードが生まれました。それがこれから到来する映画の時代を背景に、世界共通の国際規格として認められるまでにそう時間はかかりませんでした。

 私たちがつい最近まで楽しんで来た映画とスチル写真のフィルムは、材質と感光材は大きく改良されとはいえ、基本的には1889年にウィリアム・ディクスンが考えた仕様がそのまま使われて来たことはご承知の通りです。

 なお、35ミリフィルム発祥の真実についてはよく分かっていないようです。ただ、インチが単位の米国で、なぜセンチなのかという疑問はあります。
 
アメリカは1875年にメートル法を導入しましたが、それまでのヤード・ポンド法は現在も依然として使われていますから、この当時も両方の単位が使われていたのではないでしょうか。

 それはともかく、こうして人間は、時間を目に見える形で留めることのできる〈時間のベルト〉を手に入れました。絵に描き、影を動かし、写真に留め、今また人はその写真を動かそうとしています。この欲求はどこまで発展していくのでしょうか。


 次回は
「キネトスコープ」という動画メカをご紹介します。

キネトスコープ.jpg
●「キネトスコープ」1893   

                        次回に続く


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028 「囚人護送車」の中で行われたこと。 [技術の功労者]

028  ハードを売れば、ソフトが売れる

        「キネトスコープ」


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●時代背景 19世紀末はインフラ整備で膨大な鉄鋼の需要があった 1890年頃の様子

 1889(M22)年秋、エディスン研究所の技師ウィリアム・ディクスンは、「第4回パリ万国博」から帰還したトーマス・エディスンに、自分が開発した撮影兼映写が可能な「キネトグラフ」を見せました。エディスンはその成果を誉めましたが、あくまでも覗き見式にこだわりました。ディクスンは不本意でしたが、折角考えた「キネトグラフ」を元に、彼にとっては後戻りと思える覗き見式を考え出しました。その動画装置は「キネトスコープ」とネーミングされました。

●「キネトスコープ」は機械仕掛けの覗き見装置  
 「キネトスコープ」は、フィルムメーカーのジョージ・イーストマンの会社が開発した50フィートのセルロイド製ロールフィルムを使用するように設計されました。外観は縦長の木箱です。ちょうど大人が立って覗ける位置に、凸レンズの拡大鏡をはめた覗き窓が設定されています。
 これは当時はやりのピープ・ショー(覗き見ショー)の応用でした。この時代、ボードヴィル劇場などで人気があった出し物の一つがピープ・ショーですが、それが盛り場やイベント会場にもこの種の場所や装置が設置されて、人気を博していたのです。

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●中で演じられる曰くありそうな芸を、周囲の窓から覗き見るピープ・ショー。


  「キネトスコープ」のフィルムは木箱の中で、リールには巻かれずにエンドレスでつながれていて、箱の上下に設けられた多数のスプロケット(フィルムの穴に噛ませる、突起の付いた回転軸)を交互に通過するようになっています。このスプロケットは、ウィリアム
・ディクスンが35ミリフィルムの規格を考えたときに、パーフォレーション(フィルムの穴)の仕様と合わせて考案したものです。
  
 「キネトスコープ」の動力は蓄電器です。スイッチを入れると光源が点灯し、モーターがスプロケットを回転させてフィルムを送ります。通過するフィルムの1コマ1コマに回転シャッターが同期して断続的な光を与えることで、写真が動いて見えるのです。スピードは1秒46コマ。時間にして30秒足らずの〈動く写真〉の繰り返しです。このような仕様で1893(M26)年3月、「キネトスコープ」は誕生しました。


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●研究用「キネトスコープ」             ●商品版「キネトスコープ」1893

●映写式か覗き見式か、運命の分かれ道
 
ディクスンが映写もできる「キネトグラフ」を試作したことを承知しながら、エディスンが覗き見式にこだわった理由。それは、映写式動画装置では他の研究者たち・・・特にヨーロッパにおいて・・・すでに大きく差をつけられ、巻き返しが難しいこと。それは海外特許を得られる確率が低いということに通じるのですが、実業家としてのエディスンの見方を考えると、とにかく肝心なことは、ピープ・ショー方式の方がすぐにでも利益を生めそうだと判断したからではなかったでしょうか。

 実は、電気事業をしっかりと軌道に乗せたエディスンは、すでに新しい事業に取り掛かっていました。時代は重工業が花形でした。鉄道、橋梁などの巨大インフラや大型船舶、高層ビル建設などで、際限なく鉄材が求められていました。
 エディスンが没頭していたのは鉄鉱石から電磁的な方法で鉄を取り出す事業でした。彼はサウスカロライナにある鉱脈を買い、将来的には「エディソニア」と呼ぶ大工業地帯を形成するというビジョンの元に、精錬工場を稼働させていました。もし、その取り組みが成功すれば、〈動く写真〉よりもはるかに巨大な利潤を見込めることでしょう。そう考えるのは経営者として当然のことでした。

2-3 edison 5.jpg ウィリアム・ディクスン.JPG
●トーマス・エディスン        ●「キネトスコープ」の実際の開発者 ウィリアム・ディクスン

 かと言ってエディスンンが〈動く写真〉を軽視して、ディクスン任せにしていたという訳ではなさそうです。エディスンが考えていた将来的な〈動く写真〉とは、オペラ劇場の公演やボクシングを臨場感たっぷりに楽しめるもの、というからには、これは公開…つまり映写を視野に入れていたと見ることができそうです。

 それでもなお覗き見式にしたのは、「キネトスコープ」の動画にはガタつきがあり、回転シャッターの開角度が狭くて画面も暗く、拡大上映して鑑賞するに耐えられるようなものではなかったからでした。
  それに、彼が見聞きしてきたライバルたちの〈映写式動く写真〉の開発に遅れをとった今は、差別化の手法として覗き見式にこだわる必要があったのでした。
  
●エディスンの考えは、一家に1台の家電型娯楽機
 
「キネトスコープ」の開発にはすでに巨額の開発費がかかっていました。その早期回収を図るためにエディスンが考えたこと。それは、「キネトスコープ」の商品化、つまり、機械そのものを売ることでした。

 彼は先に自分が発明した「フォノグラフ」(蓄音機)が、当時のセレブ階層に大歓迎で受け入れられたことに自信を持っていました。それに彼は、近い将来「フォノグラフ」と「キネトグラフ」を結んで、音の出る写真動画を実現しようと考えていたのではないでしょうか。裕福な家庭のリビングルームで、居ながらにして劇場やリングサイドの興奮を音声といっしょに楽しめるもの。今でいうテレビのような構想だったのかもしれません。 


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●エディスンと「フォノグラフ」(蓄音機)1877(M10)

 ただし、いきなり家庭用に売り出しても、高価だし、果たして売れるものかどうか分かりません。今日のパソコンやプリンター、スマホなどの売り方に見られるように、ハード(キネトグラフ)の利益は薄く設定しても、ソフト(動画フィルム)でもうける、という手法も考えたかもしれません。 

 いずれにしてもハードを売るためにソフトは不可欠。ソフトとはこの場合、バラエティに富む35ミリの動画コンテンツをたくさん提供できる環境を用意することです。一つはそのための施設。もう一つは売り方と販売網です。エディスンはまずその施設として、ディクスンをリーダーに、早速、ウェスト・オレンジの研究所の中庭に撮影スタジオを建てる計画に取り掛かりました。

●世界初の撮影スタジオは「囚人護送車」?
  1894(M27)年2月、完成したスタジオの正式名称は「キネトスコーピック・シアター」でしたが、黒くて奇妙な外観が囚人護送車に似ていたところから、みんなからはそのあだ名と同じ「ブラック・マリア(ブラック・マライア)」と呼ばれました。

1893 ブラック・マリア.JPG
●世界初、エディスンの動画撮影所「ブラック・マリア」1894  太陽の位置に合わせて回転できた

 「ブラック・マリア」の
外側はすべてタールで黒く塗られ、内部も真っ黒に塗られています。フロアの一方に人物が演技をする空間があり、対面には撮影のための電気仕掛けの「キネトグラフ」が…これは1メートル四方位の大きいものなので、床に固定されています。撮影時には屋根を開けると太陽光を採り入れることが出来ます。

 更にスタジオの床全体が車輪の付いたターンテーブルで、床下に作られた円形のレールの上に乗せてあるので、太陽の動きに合わせて向きを変えられるというものでした。世界初の映画撮影スタジオはこうして誕生しました。

 このスタジオからは、子供のジャグリング、ダンスをする女性、マッチョマンのポーズ、赤ん坊の入浴、猫のボクシング、ノミのハイジャンプなど、「キネトスコープ」用のいろいろなソフトが生み出されました。1本のフィルムは15秒程の長さの繰り返しで使うのですから、物語を考える必要はありません。ボードヴィルで人気のある役者の一発芸や、動きが面白いと思われるものは片っ端から「キネトスコープ」のソフトとしてフィルムに記録されていきました。


 ●「キネトスコープ」 34秒 無音

 ●キネトスコープのソフト 「くしゃみの記録」 8秒 無音 
SNEEZ.jpeg
●「くしゃみの記録」1892


●他の開発者はみんな映写式の開発に取り組んでいた
 一方でエディスンは次の手を考えていました。「キネトグラフ」は世間に初めて登場するもので、しかも高額商品です。それを売ろうというのですから、まず多くの人にその登場を知らせ、楽しい機械だということを知ってもらう必要があります。そのための市場戦略をどう構築するか。PRをどう打ち出すか。このあたりにまで考えが及ぶところが、実業家としてのエディスンの腕の見せ所になってきます。

 ところで、エディスンが覗き見式にこだわって、ディクスンと「ブラック・マリア」で「キネトスコープ」用フィルムの制作に取り組んでいるとき、大西洋をはさんだ両岸で、他の研究者たちはみんな〈映写式動く写真〉を目標に開発を進めていました。  
 
同じアメリカではトーマス・アーマット、フランシス・ジェンキンズ、レイサム父子といった人たち。イギリスではバート・エイカーズ、ロバート・ポール。イタリアではフィロティオ・アルベリーニ。ドイツではマックス・スクラダノフスキー、ハーマン・カスラー。そしてフランスではリュミエール兄弟……。
〈映写式動く写真〉は欧米のあちこちでゴールを目前にラストスパートを迎えていたのです。 

                                 つづく


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029 これぞ、エディスンの「動画自販機」。 [技術の功労者]

029 さあてお立会い、動画の自販機だよ。

    キネトスコープパーラー - 1 

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●「キネトスコープパーラー」 エディスンの名と胸像が飾ってある 1894(M27)

  戦後世代は米国寄りの教育で、「映画の発明者はアメリカのエディスン」と教えられました。けれども今は「フランスのリュミエール兄弟」が定説です。そのちがいはどこにあるのでしょうか。
  19
世紀末、欧米の〈動く写真〉の開発者たちがこぞって映写式装置の開発にしのぎを削っていた頃、エディスンはいち早く覗き見式動画装置「キネトスコープ」★1を完成させました。キネトスコープはたちまち大衆の耳目を集め、一躍話題の中心になりますが……

●発明王エディスンの誤算
 
「キネトスコープ」の機械そのものを売るという思い切った勝負に出たトーマス・エディスン。彼のキネトスコープ用フィルムを撮影するためのスタジオ「ブラック・マリア」★2はフル稼働で、<覗き見>に向きそうな素材を考え出しては撮影を続けていました。
 このフィルムはキネトスコープの本体を売るために欠かせないコンテンツでしたが、決しておまけではありません。エディスンはフィルムの権利もしっかり考えていました。

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●「ブラック・マリア」                      ●「キネトスコープ」  

 キネトスコープの特許は米国内に限って申請しました。認可は1891(M24)年に下りましたが、なぜヨーロッパを含めなかったのか。それは、〈動く写真〉の開発はヨーロッパの方が先行していることをエディスンは知っていたからでした。
 つまり、キネトスコープは機構的にフランス、イギリスに遅れをとっているため、特許の可能性が薄い。その代わりアメリカ本土では、〈動く写真〉でトップを走っていたオーギュスタン・ル・プランスが失踪★3した後では、エディスンに先行する研究は存在しなかったからでした。

 このように、エディスンが映写式装置ではなく覗き見式を進めたこと。そしてキネトスコープの特許を米国内だけに留めてしまったこと。これがのちのちエディスンが苦境に立たされる分かれ道になるのですが、いかに過去に白熱電球を発明し「稲妻を手なづけた男」と賞賛され、アルバート・アインシュタインに「人類史上もっとも偉大な発明家」とまで言わしめたエディスンでも、神ならぬ身の知るよしもありません。
 
それはそれとして、さて、本命のキネトスコープ自体をどう売るか、です。

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●トーマス・エディスン ●小型発電型フォノグラフとエディスン1888

●プロモーション開始はニューヨークから
  
エディスンは特許をとった翌1892(M25)年に「キネトスコープ社」を設立しましたが、その経営には、鉱山所有者で、カリフォルニアでは金満家のチャールズ・ラフと義弟のフランク・ギャモンが当たることになりました。
  エディスンは「キネトスコープ社」(ラフ&ギャモン商会という説もあり)にキネトスコープとフィルムの製造独占権を与えました。

  ラフとギャモンは、翌年に控えたシカゴ万国博覧会をキネトスコープデビューの好機と考えました。彼らは、更に改良がくわえられた「小型発電型フォノグラフ」(蓄音機)といっしょに、キネトスコープ10台を揃えた大々的なブース展開プランを立てていました。ところがエディスン側では製造が間に合わず、お流れになってしまいました。
  そこで彼らは、ニューヨークでキネトスコープのアンテナショップを開くことを考えました。これが当たれば全米に広げることが出来るかもしれません。

  こうして1894(M27)年4月、「キネトスコープパーラー」1号店がニューヨークのブロードウェイに登場しました。外観の装飾は当時の流行であるゴテゴテの中国風で、火を吹く竜をあしらった物々しさ。入口正面にはエディスンの胸像が飾られ、誰でも知っているあの大発明家による新機軸であることを誇示しています。
   フロアの中央には「キネトグラフ」が数台並べられています。今で言うネットカフェのような、いかにも時代の先端を標榜する人種が喜びそうな、小洒落た雰囲気のフロア構成です。

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●「キネトスコープパーラー」1894

●大当たりした「キネトスコープパーラー」
  パーラーオープンのニュースを知って、早速珍しがり屋の客が列を作りました。キネトスコープは言うなればピープ・ショーの自動販売機です。覗き窓の脇にコイン投入口があり、料金は当時としては高額な25セント。大変な開発費がかかったことを考えれば、うなずける料金設定です。

  コインを入れるとスイッチが入ってモーターが回りライトがつき、動く写真が始まります。並べられたキネトスコープには「ブラック・マリア」で撮影された、犬、ネコ、闘鶏、床屋の様子、ボクシング、ダンスなどのフィルムがそれぞれセットされ、13秒ほどの動画が3回繰り返されるとおしまいです。すると客は次のキネトスコープに移動して、また25セントを投入するのです。

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●電動式動画自販機「キネトスコープ」を覗き見る人
 下は{ブラック・マリア}で撮影された
動画フィルムの例 

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キス.jpg


●ひんしゅくを買いながらも人気があった「キス」

  キネトスコープの客の大半は<覗き>を楽しむだけですが、写真が動くということ自体が驚きであった時代です。話題が話題を呼んで来客は引きもきらずの大好評。中には予想通り、ぜひリビングにおいて楽しみたい、というセレブ客も出てきました。エディスンの予想は当たりました。
  こうしてキネトスコープパーラーはセンセーショナルな新聞記事の見出しとともに、「アメリカにエディスンのキネトスコープ登場!」というイメージを印象付けることに成功しました。

●「キネトスコープパーラー」は英仏にも広まった。
  
けれども本命は、個人客よりも、たくさんの機械を購入して「キネトスコープパーラー」の名で興行をしてくれる商売人です。ラフとギャモンは、彼らに看板と機械と興行権を売ることを考えたのです。今日のフランチャイズ方式のはしりかも知れません。

  ニューヨークでのお披露目興行の成功に勢いを得たラフとギャモンは、この年の秋にはまず戦略拠点として、サンフランシスコ、アトランティックシティ、ワシントン、バルチモアに直営のキネトスコープパーラーを開設。興行を軌道に乗せる一方で、フランチャイジー(加盟者)探しにも本腰を入れたので、各地にキネトスコープパーラーが出現しました。

  
キネトスコープパーラーの評判はアメリカに留まりませんでした。成功を聞きつけたイギリスとフランスの興行主からも機械の注文が来るようになりました。「キネトスコープ」は1台250ドル、300ドルという高値で輸出されるようになり、関連してフィルムも続々とプリントされました。こうしてキネトスコープは、1年も経たないうちに、欧米を筆頭に世界各地に広まっていきました。
  つまりこの時期、覗き見式か上映式かを問わなければ、〈動く写真〉をいち早く事業化したのは、トーマス・エディスンしかおりませんでした。


●ディクスンは「上映式」の開発を続けたかった。
 
「キネトスコープ」の評判が高まれば高まるほど心中穏やかでないのは、これまで実際に「キネトスコープ」を開発してきたウィリアム・ディクスンでした。

ウィリアム・ディクスン.JPG●ウィリアム・ディクスン

 彼は最初にエディスンに見せた、上映もできる「キネトグラフ」★4が、エディスンによって半ば無視された形で覗き見式に変更させられたことが納得できませんでした。
  
「欧米がリードする〈動く写真〉の開発の流れが例外なく上映方式に向かっているのに、どうして自分の上映方式を認めずに逆行するのか。これでは大西洋の向こうに後れをとり、取り返しのつかないことになってしまう」。

  強いあせりと同時に、自分が苦労して完成させた「キネトスコープ」が、すっかりエディスンの名前に変わっていることにも、少なからず不満を感じていました。このディクスンの苛立ちが、このあと新しい展開を見せることになります。 


                                      つづく

関連記事
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★2 http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/2009-08-16
★3 http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/2015-03-27
★4 http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/2009-08-12


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030 いよいよ大詰め。映画誕生前夜のうごめき。 [技術の功労者]

030  去る者は追わず。
      キネトスコープパーラー -2
               

1894デトロイトのキネマスコープパーラー.JPG
●デトロイトのキネトスコープパーラー 1894  
 この経営者はのちにイギリス映画界の大御所となる。


   1894(M27)年後半、ラフとギャモンが経営する「キネトスコープパーラー」がアメリカ東部に登場すると、それはたちまち全土に広がりました。同時に話題は海を越えたヨーロッパに伝わり、パリにも代理店が置かれることになりました。ロンドンでも「キネトスコープ」の注文が相次ぎました。「キネトスコープ」が新しい娯楽として爆発的に歓迎されればされるほど、ソフトととしてのフィルムの需要が追い付かなくなってきました。

●一人ずつ見せるのか、大勢に一度に見せるのか。
   「キネトスコープ」はアメリカでの特許があるにもかかわらず、その人気にあやかろうとする熱心な興行師の中には、見よう見まねでキネトスコープに似せた機械を作って、興行やパーラーの開業を目論む人たちも出てきました。機械自体が売り物でしたから、1台購入して分解してみれば一目瞭然だったわけです。
   
特にパリ、ロンドンでは、キネトスコープの特許が米国に限定されていることを知ると、いろいろな人たちがキネトスコープそっくりの機械を自作して、「キネトスコープパーラー」を始めるような始末でした。

   ただ、フィルムは簡単には作れません。そこで厚かましくもエディスン社にフィルムの提供を申し出た興行師もおりました。さすがにエディスンはそれを断りました。
  
偽キネトスコープを作った人たちの中には、1回に一人の覗き見式ではなく、一度に大勢が楽しめる上映式の方が効率がいいのではないかと考える人たちもいて、偽キネトスコープを上映式に改良しようとする人まで出てきたのです。

P1110630.JPG●キネトスコープの内部(仕組み)

●詭弁のようにも思えるが…
   いずれにしても、大西洋を挟んだ両側で「キネトスコープ」が一挙に広まったのですが、それは同時に、単調な動きが繰り返されるだけのフィルムの内容に人々が飽きてしまう傾向に拍車をかけることになりました。
  先行きの危機感を覚えたラフとギャモンは、エディスンに、一人ずつ交代で覗いていたのでは回転率という点からも効率が悪いと訴え、フィルムの内容を充実させ、早急に上映式「キネトスコープ」を作るように提案しました。
それに対するエディスンの返事は意外なものでした。

  「我々はキネトスコープの販売で、すでに満足すべき利益を上げているではないですか。上映式を売り出してみたまえ。全米で10台も売れようものなら、1回だけの上映で観客はいっぺんに見終わってしまう。一人ずつ覗いて見るからいつまでも行列が出来るんです。あなた方の言う上映式は、折角毎日金の卵を産み続けるニワトリを殺してしまうことになるんですよ」

   
エディスンはあくまでも、さながらオペラグラスを覗いてステージを楽しむ、そんな様子をイメージしていたようなのです。これを伝え聞いたディクスンは、自分が進めてきた上映式「キネトスコープ」の研究続行が、ここウェスト・オレンジの研究所では絶望的であることを感じ取りました。

2-3 edison 5.jpg      ウィリアム・ディクスン.JPG         
●トーマス・エディスン       ●ウィリアム・ディクスン

●エディスンの切り札は功を奏さなかった。
   自信を持ってそこまで言うエディスンには、実はとっておきの切り札があったのです。そ
れは今で言うトーキー映画、つまり音声付き、それもステレオで聴ける〈動く写真〉の構想でした。
   エディスンのスタジオ「ブラック・マリア」では、ウィリアム・ディクスンによるそのためのテストフィルムも作られ、エディスンはその成功に賭けていました。
「キネトスコープ」の脇から2本のイヤフォンケーブルが出ていて、客はそれを左右の耳にはめて立体音響を聞くのです。電動式蓄音機「フォノグラフ」と覗き見式動画機「キネトスコープ」を合体させたこの新式マシンは、エディスにより「キネトフォン」と名づけられました。

1893 ブラック・マリア.JPG●ブラック・マリア
IMGP7811.JPG
●ブラック・マリアの内部 右に立ツ人物の左がキネトスコープカメラ
 左のフォノグラフ(蓄音機)で録音の実験をしている。録音は同期していない。


キネトスコープKINETOSCOPE.jpg●イヤホンで音も聞ける「キネトフォン」


●ディクスンによる「キネトフォン」のテスト撮影 16秒
 ヴァイオリンを弾いているのがディクスン。実際は音を同調させた。


  
例によってエディスンは、マスコミの前で新方式の「キネトフォン」をPRし、新聞は大きく書き立てました。けれども、画面と音声の同期を図る仕組みは考案されていなかったため、実際には動きと音声は次第にずれ始め、音量も小さすぎました。もともと騒音に囲まれているパーラーの中ですから、音声が小さいのは致命的です。ということでキネトスコープパーラーでの興行は呼び物にはならず、音楽好きのお客にはかえって不評を買うことになったようでした。

●反乱の兆し
   とはいえ、「キネトスコープパーラー」の人気は今でもうなぎのぼりです。しかし、上昇気流はそのあとが怖い。幾たびか辛酸
をなめてきたエディスンですから、そういう時ほど危機感を抱いて次の手を打つことが必要であることは心得ていました。
 そこで初めてエディスンは、キネトスコープの販売代理人であるラフとギャモンの要請を飲むことにしました。直ちにエディスンはラフとギャモンの「キネトスコープ社」に技師を派遣して、上映式キネトスコープの開発に当たらせることにしました。

エディスン関係相関図.png

   
「さあ、ようやく出番が回ってきたぞ!」、そう思ったのは、初めから上映式キネトスコープの開発を進めてきたウィリアム・ディクスンでした。
  けれどもなぜか「キネトスコープ社」に派遣された技師は彼ではありませんでした。自分でしか成し得ないと自負していたディクスンにとっては青天の霹靂。エディスンが彼に与えた屈辱と絶望感は、いかばかりだったでしょう。
   
結局、派遣された技師は、上映式キネトスコープを実現できずに終わるのですが、これを契機にディクスンの心は決まりました。彼の協力を求めている人たちが他にいたのです。

  
ウッドヴィル・レイサムと、グレイとオトウェイと名乗る兄弟の親子トリオ。彼らは、ラフとギャモンによるニューヨークの「キネトスコープパーラー」1号店がオープンした時に訪れてインスピレーションを受け、エディスンにも受け入れられて、同じナッソー通りに「キネトスコープパーラー」を開いたばかりの父子です。
 

●1894
年にすでに存在していたスポーツ専門チャンネル。
   ウッドヴィル・レイサムは南部の名門の出で、南北戦争当時は少佐でしたが、戦後は物理と化学の教授を務め、1894年に退職したばかりでした。

  同一地域で先に開業しているラフとギャモンとの競合を避けること、という条件付きということもあって、彼らは他のパーラーとの明確な差別化戦略を打ち出しました。
  当事アメリカで人気を博していたのはボクシングでした。そこで、ボクシング専門のパーラーと銘打って1894(M27)年8月にオープンしたところ、長蛇の列。警官が出動して整理するほどの人気を呼びました。現在で言うスポーツ専門チャンネルのようなものが登場したのです。
  実はこのレイサム兄弟も、覗き見式キネトスコープには不満を抱いていました。


IMGP7817.JPG●キネトスコープのボクシング

   エディスンはレイサム父子を厚遇し、彼らから相談を受けたウェスト・オレンジのスタジオ「ブラック・マリア」を貸しました。彼らはそこに特設リンクを組んで人気絶頂のボクサーを呼び集めました。つまりそこで、やらせによるボクシング試合の情景が撮影されたのです。
   カメラはリンク全体をフレームに収めた固定ショットで、試合の流れをそのまま写し続けているだけでしたが、6ラウンドをそれぞれ1分。計6本のフィルムに記録されました。
 
   公式試合ではないため、全体の試合の流れは観客が喜ぶように運び、クライマックスは6巻目の最後に訪れるように計算されていました。
(動画の萌芽期にすでに構成が考えられ、演技指導が行われていたと見ることが出来ます。構成はシナリオの前提であり、演技指導は監督と呼ぶ役職の誕生につながります)
   これを1ラウンド25セントで「キネトスコープパーラー」に掛けました。つまり、最終の6ラウンドまで6分間すべてを覗き見るためには1ドル50セントが必要でした。けれどもこれが大当たりをとったのでした。

●ディクスンの決別
   
覗き見でこれだけ反響が大きいのだから、いっぺんで大勢の観客に見せられる映写方式なら絶対に成功する。そう確信したウッドヴィル・レイサムはエディスンに提言しますが、エディスンは首を縦に振りません。
  彼は息子たちに、すでに上映式の動画装置を手がけた経験を持つウィリアム・ディクスンを、エディスンの研究所から引き抜くことを示唆しました。

   ディクスンは間もなくレイサム兄弟と技術面で隠密裏に連絡を取り合うようになり、上映式キネトスコープの開発に力を貸すことになります。そして1895(M28)4月、兄弟との研究に見通しがつくと、ディクスンはついに意を決して、8
年間勤め上げたエディスン研究所を後にします。

エディスン相関図2-1.png

woodville latham 1831-1911.jpg●ウッドヴィル・レイサム
 
   レイサム父子の「キネトスコープパーラー」は絶好調でした。その隆盛を横目で見ながら、米国内に散らばった他のパーラーの人気は、次第に頭打ちになってきました。パリの代理店からは、新作を早く、という矢の催促です。
 観客が落ち込む前に手を打たなければ・・・。エディスンの周囲でも、一日も早く大勢の観客の前で上映できる映写機を完成しなければ、と考える人たちもおりましたが、エディスンは動きません。ウェスト・オレンジには日一日とあせりが高まっていました。

  エディスンにしてみれば、ディクスンに裏切られた感じでした。8年間も技術に関しては自分のパートナーとして優遇したはずなのに、後ろ足で砂を掛けるようにして出て行ってしまった。・・・。「困ったことになった。こんな時こそディクスンが居てくれたら・・・」などと、エディスンは決して弱音を吐くような人ではありませんでした。


●映画誕生前夜。ヨーロッパにおけるその他の動向。
  折も折、イギリスでは光学機械製造業者のロバート・ウィリアムポールが、エディスンの「キネトスコープ」を元に、同類の装置を製作していました。実は彼は、1894年の暮れに開店したロンドンの「キネトスコープパーラー」から頼まれたのでした。

ロバート・ポール.jpgロバート・ウィリアム・ポール

  そのパーラーの持ち主は、エディスン社から元締めを任されたラフとギャモンから、イギリスにおけるパーラーの代理店を認められており、イギリス全土に「キネトスコープパーラー」を広げたいと思ったのでした。ところが何しろ「キネトスコープ」の値段が高すぎる。そのため、ロバート・ポールに類似の覗き見式動画自販機づくりを頼んだのでした。
  エディスン側からの特許権侵害訴訟を恐れていったん断ったポールでしたが、「キネトスコープ」の特許は米国に限定されているから大丈夫、と言われて、取りかかったのでした。
  この後、ロバート・ポールは独自の撮影機、映写機を開発し、映画の製作にも乗り出し、後に「イギリス映画の父」と呼ばれることになります。

シャルル・パテ2.JPG●シャルル・パテ

  「キネトスコープ」の登場に心を動かされたフランス人の一人に、シャルル・パテがおります。パテは1894年秋から、結婚間もない妻と二人で有り金をはたいたお金でエディスンの「フォノグラフ」(蝋管蓄音機)を買い、それを元手にパリの盛り場や縁日などを巡回する興業を行っていました。
 
 1895年が開けて間もない頃、やはり「キネトスコープ」を購入したいと相談に来た友人との間で、フィルムに話題が及びました。パテが「エディスンのフィルムはこれしかないんですよ。同じ場所ではすぐに飽きられてしまいます。だから場所を変えてやるしかないのですよ」 というと、その友人は「それじゃ,あなたがフィルムを作ったらどうですか」 。
  それをきっかけにパテはその後、弟といっしょに映画製作の道に入り、やがてフランス屈指の映画会社「パテ・フレール」を創立することになります。

レオン・ゴーモン.JPGレオン・ゴーモン 
ドゥメニ.JPG エティエンヌ・マレー.png

ジャック・ドゥメニ         ●エチエンヌ・マレー
                    1890 マレイのフィルム式クロノフォトグラフ 2.JPG 
                    ●フィルム式クロノフォトグラフ
アリス・ギイ.JPGアリス・ギイ

  同じ年、学生時代に写真を学んだレオン・ゴーモンは、31歳でパリ、サン・ロック通りにある勤め先の写真会社を自費で買い取り、「ゴーモン社」を設立したところでした。
  顧問にはエッフェル塔の設計者ギュスターヴ・エッフェルを迎え、前述のエチエンヌ・マレーが開発した「フィルム式クロノフォトグラフ」をその共同開発者ジャック・ドゥメニといっしょに販売しながら、発声映画の研究・製作に取り掛かることが目的でした。映画製作を目的とした最初の企業と言えるでしょう。
  その前年、ゴーモンが前の写真会社の副社長を務めていた時に、うら若い一人の女性の訪問…今でいう就活…を受けました。彼女は面接したゴーモンに、歳は20歳、名はアリス・ギィと名乗りました。彼女は後に「ゴーモン社」で、世界初の女性映画監督として活躍し、名を残します。

リュミエール兄弟.jpgリュミエール兄弟

  そして、同じくフランスではリュミエール兄弟が、動画装置の最後の難関となっていたフィルム送りの円滑な仕組み(レンズの後ろで1コマ1コマを一瞬の間止める間欠送り機構)について、すばらしいアイディアを思いついたところでした。
   
                          
 ★次回はジョルジュ・メリエスについて簡単に押さえておきましょう。


シマンテックストアデル株式会社





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031 映像は、魔法に近いものなんだ。ジョルジュ・メリエス [技術の功労者]

031 映像は、魔法に近いものなんだ。
    ジョルジュ・メリエス 

P1110408.JPG IMGP7799.JPG
●時代背景 19世紀末、セレブの社交生活

 
これまでに述べてきた〈動く写真〉。それは、エディスンの「キネトスコープ」による<覗き見式動画>に対抗するように浮上してきた<上映式動画>への渇望が高まった時点から、単なる動画ではなく「映し画」、つまり「映画」へと明確に舵を切ったのでした。この点が今日、「動画」と「映画」を認識する上で大事な点だと思うのですが、これまでは〈動く写真〉を機械的側面(ハード面)から見てきました。それは、装置ができて初めて映画が作れる訳ですから致し方のないことでした。

 さて今回は、のちに映画発明者としての栄誉を担うことになるリュミエール兄弟と友好を保ち、「表現としての映画」(ソフト面)を牽引していくことになるジョルジュ・メリエスについて、簡単に押さえておくことにしましょう。


●マジックのステージに新しい表現によるトリックを。
  ジョルジュ・メリエスは1888M21
)年以来、パリ中心街の一角に「ロベール・ウーダン劇場」というマジック専門のシアターを持っており、彼自身マジシャンであり、興行師でもありました。
  「ロベール・ウーダン劇場」とは、その名が示す通り魔術師と称えられたマジックの奇才ロベール・ウーダンの劇場だったのですが、それを故あってジョルジュ・メリエスが譲り受けたのでした。


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●ロベール・ウーダン劇場                        ●ロベール・ウーダン 

  メリエスは、ステージに「マジックランタン」(幻灯機)1を早くから採り入れて、映像によるトリックの演出を積極的に行いました。また、オッフェンバック、ベルレーヌ、モローといった芸術家たちとも交流があるインテリで、その洗練された感性は、それまで奇術、魔法、魔術と呼ばれてイカサマ呼ばわりされることもあったマジックのいかがわしさを払拭。ある種芸術的な出し物としての評価が高まっているところでした。
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●ジョルジュ・メリエス 自作自演のステージはそのまま映画に引き継がれる。  

  実際彼のステージは、単に奇をてらった出し物を見せておしまいではなく、ストーリー展開はもちろん、ステージ上の舞台装置、照明はもちろん、彼自身が演じるコスチュームのデザインに至るまで、高度な芸術的・演劇的手法が採り入れられていました。
  彼が〈動く絵〉〈動く写真〉という新しいメディアの台頭を知った時、自分の想像する奇想天外な物語をその手法で綴ってみたいと考えたことは十分に想像できます。
  
●メリエスの関心は動く映像に向けられていた
  1888(M21)年。彼は近くのグレヴァン蝋人形館でエミール・レイノウによる「テアトル・オプティーク(光の劇場)」2の公演があると聞くと、早速出かけて行きました。
  そこで絵が実際に動くことを見たメリエスはいたく感動。興奮のあまりレイノウに面会して絶賛したくらいに「動画」に心を動かされました。メリエスはマジック愛好家からプロのマジシャンになったくらいですから、新奇なものをいち早く自分のステージに採り入れることには人一倍積極的な人物だったのでしょう。

1893テアトル・オプティーク.JPG エミール・レイノー.JPG
●「テアトル・オプティーク(1888)」とエミール・レイノウ

  『レイノウの「テアトル・オプティーク」では、確かに等身大の人物が動いて見えた。残念ながら、それは写真ではなくて絵だったが。あれが写真であれば、早速自分のマジックのステージに採り入れるものを……。』
  けれども、世間にはまだ、彼の求めに応じられるレベルの映像装置は生まれておりませんでした。彼は自分でも〈動く写真〉について研究を始めることになります。

●メリエスも「キネトスコープ」と出会った。
  1894M27)年5月。そんなメリエスのところに、マジシャン仲間の友人が、50年代と思しき男性を伴って訪れました。彼らは最近パリにオープンしたばかりの「キネトスコープパーラー」3で、エディスンの動画装置を覗き見てきたところだというのです。
  男性は1880年代に乾板写真が実用化されたころから乾板や印画紙の製造をはじめ、今ではリヨンに300人の従業員を擁する写真工場を構えているアントワーヌ・リュミエールと名乗りました。
  「私には二人の息子があって、兄は化学、弟は物理学の学位を持っています。私は今はその工場を二人にやらせています。その二人に私は〈動く写真〉の開発を勧めたのですが、二人とも興味をもって進めています。実はここだけの話、あともう少しというところまで来ているんですよ」。そう。前回の最後にちょっとだけ紹介した、あのリュミエール兄弟のお父さんです。
  
  メリエスも「キネトスコープ」の名は聞き及んでいましたから、たちまちみんなで動く写真談義が始まりました。この日はもっぱら「キネトスコープ」で〈動く写真〉を見たときの驚きが話題になったようでした。

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●「キネトスコープパーラー」と「キネトスコープ」1894.4~

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●アントワーヌ・リュミエール                ●オーギュストとルイのリュミエール兄弟

●<覗き見式>ではだめ、ということで意見は一致。
  ところが7月になったある日、メリエスを訪れたアントワーヌはかなり興奮していました。「メリエスさん、見てください。アメリカに発注していたキネトスコープが届いたんです。12本のフィルムもいっしょです。息子たちに見せるために取り寄せたんですが、その前に劇場の皆さんにも、と思いましてね」。こうしてジョルジュ・メリエスは初めてエジソンの「キネトスコープ」に接することになります。

kinetoscope2small.jpeg●「キネトスコープ」を覗き見る客

  「どう思います?」と意気込んで聞くアントワーヌにメリエスは、「これは確かに面白い。新らしもの好きが喜ぶでしょう。でも、この映像がスペクタクルなものになるには、箱の中では無理でしょうね」と極めて冷静に答えました。メリエスもまた、画面の人物が等身大に拡大できない<覗き見式>では、自分のステージには無用、と考えたのでした。
  「そこですよメリエスさん。私の息子たちが、きっとそれを成し遂げて見せるでしょう」。アントワーヌ・リュミエールは胸を張って答えました。

  翌日アントワーヌ・リュミエールはリヨンの会社に「キネトスコープ」を持ち帰り、二人の息子たち……オーギュストとルイのリュミエール兄弟に見せました。これが縁で、アントワーヌ・リュミエールを介してリュミエール兄弟も、ジョルジュ・メリエスと親しく言葉を交わすようになります。

●研究者の数だけ映写機が誕生
  とにかく1895M28)年というこの1年は、「映画誕生」に向けての研究が、欧米においてほとんど同じレベルで仕上がっていたという大変な年でした。
  それはヨーロッパにおいて特に顕著でした。原因の一つは、エディスンの「キネトスコープ」の特許がアメリカ限定で、ヨーロッパに及んでいなかったことが挙げられます。

  ヨーロッパの研究者たちは、エディスンに任されてラフとギャモン★4が独占販売を許されている「キネトスコープ」が法外に高価だと知ると、自分で作り上げようとしました。そうした動きの中で、いちばんの問題であるフィルムの間欠送りの仕組みも、それぞれがてんでに考えて、いろいろな方法が編み出されました。

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マルタ歯車.JPG IMGP7953.JPG
●いろいろな間欠送り機構が考案された

  これら大勢の研究者のうち<覗き見式>を発展させようと取り組んだ人は一人もおりません。全員が「キネトスコープ」を参考に<上映式>を目指したのです。なんとこの年から翌年に掛けて、数十人におよぶ研究者の数だけ、似たような映写機が誕生したのでした。

  ただその中でドイツの発明家マックス・スクラダノフスキーが考案した2連のフィルムを使う映写機「ビオスコープ」は、ひときわ異彩を放っています。
Max skladanowsky-2.JPGMax Skladanowsky-2 (1).jpg
●動画の研究の権威でもあったマックス・スクラダノフスキー
 彼は最後まで、映画の発明者は自分であると信じて疑いませんでした。

「ビオスコープ」1895.11月初公開 30秒(無音)

●「キネトスコープ」はハードとソフトのパッケージで。
  とにかく困ったのはエディスン側です。大西洋の対岸のヨーロッパで、こんなに追い討ちを掛けられるとは思いもよりませんでした。それまで、特許を侵害されたら待ってましたとばかりにお抱え弁護士たちが動き、お得意の訴訟を起こしてきたエディスン弁護士軍団ですが、今回はそれができません。

4 edison 13.jpg1893 ブラック・マリア.JPG
●トーマス・エディスンと世界初の撮影所「ブラック・マリア」1894

  そこでエディスン側が考えたこと。それはソフトを押さえることでした。エディスン側は、「キネトスコープを買わなければ、フィルムは売れません」ということにしたのです。一種の抱き合わせ販売です。フィルムベースは他から手に入れることはできても、エディスン社がウェスト・オレンジの「ブラック・マリア」★5から生み出しているあの内容と同レベルのフィルムは真似できまい。これがエディスン側が考えた第一段階の市場戦略でした。

  さあ、思いもよらない対抗策に、ヨーロッパの研究者たちは困ってしまいました。機械は作れても、ソフトとしてのフィルムはどのように作ればいいのかわかりません。何を題材に、どう撮ればいいのか、ノウ・ハウというべきものは誰も持っていないのです。まさに映画以前の問題に突き当たらざるを得ませんでした。

  このような混沌を背景にして、1895(M28)年も押し詰まった1228日、いよいよリュミエール兄弟の「シネマトグラフ」初公開の日を迎えることになります。 

             ★次回はようやくリュミエール兄弟と「シネマトグラフ」のお話です。

P1110645.JPG
●この日がのちに映画誕生の日となる
 リュミエール兄弟の「シネマトグラフ」初公開のポスターの1種 1895

■関連記事
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「マジックランタン」      http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/2009-04-06    
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「テアトル・オプティーク」  http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/2009-04-30
★3 
「キネトスコープパーラー」 http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/2009-08-19 
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 ラフとギャモン        http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/2009-08-19
★5 「ブラック・マリア」      http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/2009-08-16

        
    
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032 リュミエール兄弟の「シネマトグラフ」とは [技術の功労者]

032  ようやく真打登場! リュミエール兄弟。

          「シネマトグラフ」


IMGP7862.JPG
●「シネマトグラフ」による撮影風景 1巻約1分を1カットで回し続けて撮影

  は1895(M28)年。「映画の誕生」が秒読み段階に入っている中で、トーマス・エディスンは、頼りにしていた技師のウィリアム・ディクスンに去られた上、ヨーロッパでは亜流の「キネトスコープ」が出回って苦慮していました。
  そんな中で
フランスのリュミエール兄弟は、〈動く写真〉の仕組みを決定づけるための難題をすばらしいアイディアによって解消したことにより、トーマス・エディスンよりも後発でありながら最初の映画と言われるものを撮影。テスト上映を経て
この年の暮れ、後に映画誕生とみなされる一大エポックが訪れることになります。今回はリュミエール兄弟が作り上げたその装置について見てみましょう。

●リュミエール兄弟の才能と恵まれた環境。

 リュミエール兄弟・・・兄はオーギュスト。弟はルイ。二人はフランスのリヨンで、父アントワーヌが興した乾板写真用の乾板や印画紙の製造工場を引き継いで経営していました。
  父の時代には一時経営危機に陥ったこともあったのですが、兄弟が開発した「エチケットブルー」と名付けた新しい製造法による写真乾板が大好評で業績を盛り返し、今では1日50,000枚もの乾板と4,000メートルもの印画紙を生産するほどでした。

1894リュミエール工場感光材調合.JPG
●リュミエールの写真工場における感光乳剤の調合 1894

 
悠々自適の生活に転身した父アントワーヌが、1894(M27)年の夏にフランスに持ち帰ったエディスンの「キネトスコープ」。リュミエール兄弟は、欧米で話題の動画装置に初めて接する興味はあっても、自分たちが向かう〈上映式〉とは異なる方式に、それほど期待していなかったようです。

アントワーヌ・リュミエール1882.JPG lumieres2.JPG  
●アントワーヌ・リュミエール              ●リュミエール兄弟                     

1894 キネトスコープ.JPG  
●エジソンの「キネトスコープ」                      
     


 リュミエール兄弟も、話では「キネトスコープ」のことは知っていました。「キネトスコープ」を開発したとされるエディスンが、時代は<上映式>に向かっているにもかかわらず<覗き見式>にこだわっていること。そしてその真意が、フィルムの間欠送り装置が未熟で画面が安定しない上、シャッターの開角度が狭いために画面が暗くて上映に適さず<覗き見式>に甘んじていなければならないことも推測できました。

『問題はフィルム送りの仕組みにある…。それさえうまく行けば<上映式>は完成だ。広い部屋で大勢がいっしょに楽しむことが出来るようになるんだ。』兄弟の考えは一致しました。

●そのヒントはミシンのカムにあった。

 ここで、後に書かれた兄オーギュストの記述を要約してみましょう。
「ある朝、気分が優れなくて弟の部屋へ行くと、弟はベッドで一睡もしないでそのことを考えていたらしく、ようやくその仕組みを思いついた、と言いました。

 ルイの説明では、それはミシンの布送りだというのです。なるほど。それを聞いて、私が考えていた一時的な解決法は不要なものとなりました。ルイは一夜にしてシネマトグラフを発明してしまったのです」

 「シネマトグラフ」とは、あとで彼らが名づけ、これが「映画誕生」として評価されることになる機械の名称なのですが、その仕掛けはこうです。
 ミシンを踏むと針が下りる時に布は一瞬停止し、針が上がった瞬間に布が送られます。この連続で布が縫われていくわけですが、これは偏心カムの作用によるもので、1877(M10)年にフランツ・リューローが発明し、機械工業では周知の技術でした。ルイはそれを縦位置にすることで、正確なフィルム間欠送り機構に応用できることを思いついたのでした。


間欠.gif
●偏心カムを応用した間欠コマ送りの仕組み
 Eが左回りに回転すると、ABの爪がフィルムのパーフォレーション(穴)にかかって、フィルムを1
コマ掻き落とす。爪が外れた瞬間、コマは停止し、回転シャッターの開口部が通過してスクリーンに投影される。この運動が1秒間に16コマのスピードで継続し、動きとして認識される。



●「シネマトグラフ」は撮影・映写・プリンターの複合機
  リュミエール兄弟は早速ハードの開発に取り組みました。前提として、すでに発表されていたエチエンヌ・ジュール・マレーの「フィルム式クロノフォトグラフ」3やウィリアム・フリーズ・グリーンの「立体映画撮影・再生機」4の仕組みのように1台で撮影と映写の両方ができるものとし、更にプリントも行える機能を付け加えることにしました。

 つまり、撮影機、映写機、プリンタと三拍子揃った複合機です。ネガフィルムで撮影し、ポジフィルムに焼き増しできるプリント機能は写真業であるリュミエール兄弟ならではのアイディアで、少なくともここには何本ものフィルムを複製して活用する、という考えが反映されていた訳です。


IMGP7855.JPG●左は撮影機(カメラ)として使う場合IMGP7857.JPG
●撮影機を開けたところ。17m(50ft)の生フィルムは箱の中で巻き取られる。
 撮影時には、ハンドルは裏ぶたを閉めた外から差し込んで操作する。
 映写機として使う場合は、この状態の背後にランプハウスを設定し、フィルムはそのまま下に流す。
 

●複合機ならではの数々の新機構
 ところで、撮影・映写兼用機として使う場合に大事な問題はシャッター羽根です。撮影時にはクリアな画像を得るために切り込み(スリット)は狭く、映写時には明るい光量を維持するために広い方が良いのです。リュミエール兄弟はその両方を使い分けられるように回転シャッターを2枚合わせにして、スライドさせることによって開角度を変えられるようにしました。シャッター羽根の開角度はもちろん、撮影時における露出の調整にも役立ちました。

IMGP7854.JPG●2枚組回転シャッター羽根

 次にフィルムです。リュミエール兄弟はニューヨークのセルロイド会社から生地原反を購入すると、フィルム幅を35ミリとしました。フイルム送りのためのパーフォレーション(フィルム両脇の穴)は、最初、1コマに付き1つでした。けれどもフィルム走行の安定性を考慮して、すぐに1コマにつき4つずつにしました。フィルム1本の長さは17メートル(50フィート)とし、すべて自社で作り上げましたが、その品質を決める感光乳剤は、当時のイーストマン社のコダックフィルムの質をしのぐものだったようです。

 なお、上記のフィルム規格は意図的か偶然か、エディスン研究所に在籍していたウィリアム・ディクスンが考案し、「キネトスコープ」で使用されている規格と全く同じものでした。
 この点について、のちのリュミエール兄弟は、「フィルムの仕様はたまたまそうなったこと。長さは巻いたフィルムがそれまでしか収容できなかったから」と言ったことが伝えられていますが、このあたりもエディスン側からの特許関連の横槍を憂慮した答えのように思えます。
 ただ、ウィリアム・ディクスンが開発したフィルム規格を、のちに映画の発明者と認定されるリュミエール兄弟も用いたということが、「映画フィルムは幅35ミリ/1コマ4パーフォレーション」という国際規格を決定的なものにしたと考えられるのではないでしょうか。

35ミリフィルム ディクスン.JPG
●ウィリアム・ディクスンが考えた35ミリフィルム規格
 リュミエール兄弟もこの規格に習い、今日まで映画フィルムの国際規格として通用。


●撮影スピードは
1秒間に16コマ

次は撮影スピードです。「動く写真」の研究者たちはそれぞれいろいろなスピードでテストしていましたが、リュミエール兄弟も彼らと同じテストを繰り返さなければなりませんでした。当時はまだ小型モーターが開発されていませんから、撮影は手回しのハンドル操作です。(撮影機にモーターが搭載されるのは1910年代に入ってからです)

エディスンの「キネトスコープ」は1秒46コマ。それは間欠送り機構を備えていないため、画面のチラ付きをㇱャッターの回転スピードで視覚的にごまかすためのスピードでした。「シネマトグラフ」はもっと遅くていいはず。そこで110コマまで下げてみましたが、これでは遅すぎ。結局1秒16コマのスピードで落ち着きました。
 これは結果的に、「視覚の残存時間は1/101/20秒」とするタンドールの実験結果を支持するものでした。「シネマトグラフ」のハンドル操作は、1秒2回転で設計されました。


●光源はアーク灯。集光レンズに絶妙のアイディア

 次に、映写機として使用する場合です。フィルムの後ろに光源を設置する必要がありますので、映写の時にはカメラ部の裏ぶたを開いて、その後ろにランプハウスを配置します。

 大勢に一度に見せるための高い照度を得るためにアーク灯を使うことにしましたが、集光レンズの役割を、なんと、水を入れたフラスコに担わせたのです。これによって発火しやすいフィルムに当たる熱を和らげるという一挙両得の構造を実現したのでした。

1895 シネマトグラフ図解2.JPG1895 シネマトグラフ レプリカ1.JPG
●このレプリカではフラスコより進化した大型凸レンズが採用されている。
IMGP7866-2.JPG

 映写には技師が当たり、撮影時と同じ12回転の速さでハンドルを回します。50フィートのフィルムの上映時間はおよそ1分足らずです。機械には巻き取りリールは無く、レンズ前を通過したフィルムはそのまま下の箱にとぐろを巻き、上映後にリワインダーを使って巻き戻すという原始的な仕組みでした。

 「シネマトグラフ」はここに、1秒に2回転というハンドル操作をよどみなく1分間継続できる特技を擁する撮影技師(カメラマン)と映写技師という新しい職業を、将来的に生み出すことになります。(当初は同一人物の役割でしたが)

IMGP7859.JPG 1895 シネマトグラフ レプリカ4.JPG
●左/「シネマトグラフ」と映写技師 
   手回しで上映スピードを一定に保つ熟練者。フィルムはそのまま下へ。
 右/「シネマトグラフ」のフィルム通過部

   

●移動可能なカメラで野外ロケのフィルムメーキング

リュミエール兄弟と父アントワーヌには、機械の開発と並行して準備しなければならないことが山積していました。1895年3月22日、パリの科学振興協会で最初の公開を行った後も何回かの小規模な公開を行って話題を高めながら、何とか年内(1895年中)に初めての一般上映会を、それも興行という有料の形で行いたいと考え、多忙な中で会場探しやポスター作りの手配なども進めていました。

 その一方でソフト、つまりフィルムメーキングもしなければなりません。リュミエール兄弟の開発した「シネマトグラフ」は、エジソンが「ブラック・マリア」★5の床にデンと据え付けている1トンもの撮影機とちがって小型軽量でしたから、木組みの三脚をつけて容易に外でロケをすることが出来ました。
 初めて完成した「シネマトグラフ」でリュミエール兄弟が撮影した風景。それは、いちばん身近な自分たちの工場の出口であり、父アントワーヌの別荘がある最寄り駅のホームであり、自宅の庭などでした。

こうして年内ぎりぎりの1895M28)年1228日を目標に、リュミエール兄弟はハード、ソフトともに万全の体制を整えて臨めるよう、その準備に余念がありませんでした。

1895 シネマト ポスター2.JPG
●「シネマトグラフ」公開に向けたポスター
 
 その頃アメリカでは、エディスンと袂を分かったウィリアム・ディクスンが、転職先のレイサム父子★6がその後の映画発展に不可欠な画期的な方法を編み出すのを助け、彼らといっしょに新しい会社を興す準備を着々と進めていました。
 その会社は<覗き見式>の「キネトスコープ」一辺倒で進んでいるエディスン社を圧倒する、強力なライバルとなって立ちはだかってくるのです。エディスンとディクスンの確執はまだまだ続きます。
             
                                                 つづく

4 edison 13.jpg    ウィリアム・ディクスン.JPGウッドヴィル・レイサム 1831-1911.jpg
●トーマス・エディスン             ●ウィリアム・ディクスン          ●ウッドヴィル・レイサム

■関連記事

1「キネトスコープパーラー」http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/index/2
2「キネトスコープ」http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/index/3                               

3「フィルム式クロノフォトグラフ」 http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/2009-08-04    
4「立体映画撮影・再生機」http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/2009-07-25
5「ブラック・マリア」 http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/2009-08-16
★6
レイサム父子http://moviechronicle.blog.so-net.ne.jp/archive/20150419            

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