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044 19世紀末、日本映画事始め-1 [日本映画事始め]

044 AHIMOTUVWXY・・・?        
    19世紀末、日本映画事始め-1

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●明治期末、活動写真が上映されていた歌舞伎座(この建物ではありませんが
)2009.10.14 高層ビル着工直前撮影

歌舞伎座GP8139.JPG●明治後期の歌舞伎座 木挽町(現在の銀座
)

 これまでは、リュミエール兄弟による1895年12月28日の映画誕生以後、19世紀末までの主としてフランスとアメリカの動向を見てきましたが、今回は日本の様子に簡単に触れておくことにしましょう。

●一挙に3機種揃った1896年(M29)
 日本における映画の発祥は、機材の輸入時点とするか、初上映の日(特別上映、試写会等)とするか、一般に向けての初公開の日とするかによって、日にちと場所に多少のずれがあるかもしれません。
 手元資料、文化出版局「日本映画史大鑑・松浦幸三編著」によれば、日本に「動画」の機械が最初に輸入されたのは1896年(M29)。神戸商館十四番館・リネル商館によるもので、9月にエディスンの「キネトスコープ」が輸入され、覗き見式であるところから「写真活動眼鏡」と呼ばれました。

キネトスコープ2.jpg●エディスン社「キネトスコープ

 「写真活動眼鏡」はその後神戸の鉄砲輸入商の手に渡り、11月、来神中の皇族にご覧いただいた際の新聞記事で初めて「活動写真」という言葉が使われ、同月25日から12月1日まで、神戸市の神港倶楽部で一般に初公開されました。

 上映されたフィルムは5種類で、「西洋人スペンセール(スペンサー)銃をもって射撃の図」「西洋人・縄使い分けの図(投げ縄芸)」「旅館(ホテル)にてトランプ遊戯の図」など。そのうち1本は3人の祇園芸妓による晒布舞で、これは1826年のシカゴ万博出場の際、エディスン社のカメラマンが撮影したものと伝えられています。

 「キネトスコープ」1892年末にアメリカで誕生してから日本に輸入されるまでに4年近くもかかっていますが、実は「キネトスコープパーラー」が人気を集め始めた1894(M27)年頃にそれを知った日本人がエディスン社に輸入を申し入れたところ、断られたという記録があるようです。輸入が実現した1896年(M29)頃は、アメリカでは「キネトスコープパーラー」の人気が落ちた頃で、その後にエディスン社は「キネトスコープ」の海外輸出を解禁したと推測されます。

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●デトロイトの「キネトスコープパーラー」1894

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●左/リュミエール社「シネマトグラフ」1895              ●エディスン社「ヴァイタスコープ」 1896

 このように「キネトスコープ」の輸入が遅れたこともあって、その月には早くも、前年にフランスで公開されたばかりのリュミエール兄弟の映写機「シネマトグラフ」が12本のフィルムとともに輸入され、後を追うように12月には、大阪心斎橋通りの雑貨輸入商と東京京橋の薬品輸入商により、エディスン社の新鋭機「ヴァイタスコープ」が数本のフィルといっしょに輸入されました。辰野金吾設計の日本銀行本店が完成し、歌舞伎座が落成した時代です。

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●1896年完成当時の日本銀行 梅堂国貞・画


●リュミエール社の世界紀行撮影技師といっしょに渡来
 「シネマトグラフ」を輸入したのは現在の稲畑産業㈱の創業者、稲畑勝太郎です。稲畑は京都府の使節として合成染料や染色技術を学ぶために1877(M10)年渡仏。リヨン工業学校~リヨン大学と8年間の留学生活を送る中で、父の写真乾板工場を手伝うリュミエール兄弟の兄、オーギュスト・リュミエールと同窓になりました。

稲畑勝太郎.JPG          コンスタン・ジレル GIREL.JPG
●フランスとの産業・文化の架け橋となった稲畑勝太郎 ●コンスタン・ジレル

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●シネマトグラフに記録された稲畑勝太郎とその家族

 そのつながりで稲畑は1896(M29)の渡欧の際に、公開されたばかりの「シネマトグラフ」の機械とフィルムを購入し、リュミエール社が始めた「シネマトグラフ世界紀行取材班」の技師コンスタン・ジレルとともに帰朝しました。


●AHIMOTUVWXY

 稲畑は京都四条河原でテストした後、1897年2月15日、大阪南地(難波)の演芸場で公開しました。その際稲畑は、新京極の大道で弁舌さわやかに物売りをしていた坂田という男を雇い、上映したフィルムの画面に合わせて即興の解説をさせたということです。これはその後に映画の場面に合わせて解説と台詞の声色を使う「弁士」という日本独自の職業に発展します。

 
「シネマトグラフ」は一坪(1.8㎡)の広さに映写され、例によって1本約1分のフィルムが10本程度上映されました。日本初の映画上映の様子を、翌16日の大阪毎日新聞は次のように伝えています。

 「事物の時々刻々に変化する有様を詳細に描写し、更に電気燈の力を借りて幻燈の如く之を白幕の上に反映せしむるにありて、其の精細なるものに至りては、一分時間内に生ずる活動の有様を九十回に分かちて描写することを得ると云ふ。(中略)欧米諸国の人情風俗、続々として幕上に活躍し来る一幅の活画(くゎつぐゎ)とは之をや云うならん。兎に角未見の人には一顧の価値あるべし」

 1分を90回に…というのは間違いで、正しくは1秒16コマですから60秒は960コマとなります。それを記者が90と聞き間違えたのでしょうが、本当の数字を知ったら飛び上がってしまったでしょう。
 また当時は日本人にとって初めてのメディアですから呼び方がなく、「活画」と記されています。この言葉を考えるのも大変だったことでしょう。

 なお、この時の上映は「映画」の仕掛けを隠すためもあって、「シネマトグラフ」は白幕の後ろに設置して上映したそうです。今で言うリア・スクリーン上映方式です。白幕は単なる白布で、風にはためかないように鉄棒で重石をしただけのものですから、アルファベットの文字は裏文字で鑑賞されたのでしょうか。そうだとしても当時の大方の日本人には分からなかったかもしれません。それにアルファベットは26文字中、裏返しにしても同じ文字が11個もあるのです。実際はフィルムを裏返しに巻きなおして上映したのだと思いますが。(それよりも、看板文字はともかく、まずタイトル自体が付いていないのでした。)


●「活動写真」という言葉が定着
 
2月の「シネマトグラフ」公開に続いて、同月、「ヴァイタスコープ」が大阪新町演舞場で初公開。その後は「キネトスコープ」「シネマトグラフ」「ヴァイタスコープ」の3機種三つ巴の興行合戦となりましたが、当然のことながら覗き見式の「キネトスコープ」は早々に駆逐され、「シネマトグラフ」と「ヴァイタスコープ」のせめぎ合いとなりました。この時の「ヴァイタスコープ」の新聞広告によると、

 「この活動写真の原動機は十文字商会が率先販売の石油発動機を使用し、発電機は三吉工場のダイナモーを用い、大装置によりて大写真を活動す。機械の運転者は米国費府ダニエル・クロース氏、外に説明者有りて1枚毎に説明の労をとる。伏して請う、千客万来あらんことを」

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●左/「ヴァイタスコープ」ポスター  エディスン、この時50歳のはず。若すぎ。
 右/同、発明者米国理学博士エジソン氏、技師クロース氏とある  皇室御用達?


 この広告でも「活動写真」という言葉が出てきます。アメリカでモーションピクチャー、ムービングピクチャーと呼ばれていたものの直訳だと思います。それまでは「写真活動」に始まり「自動幻燈」「電気作用自動写真」「蓄動射影」「飛動活画」などという言葉が考えられましたが、この記事により「活動写真」という言葉が定着していきます。(当時は「かつどう」ではなく「くゎつどう」と発音)

横田永之助.JPG●日活創始者・横田永之助

 3月になると稲畑勝太郎は本業が多忙となり、「シネマトグラフ」の権利を横田永之助に譲り、活動写真事業から手を引きます。この横田永之助こそ、後に日本活動写真株式会社(日活)の創始者として日本映画界のリーダーシップをとる人です。
 
                       つづく







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045 それは美女の変身から始まった。日本映画の発祥-2 [日本映画事始め]

045 トリックではなかった、美女の変身
   19世紀末、日本映画事始め-2


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歌舞伎座 2009.10.1 撮影

前回からの続きです。

●「活動写真」の出発点も日本橋だった
 1897年(M30)9月になると、日本橋の写真材料輸入商・小西本店(後の小西六~コニカ~現コニカミノルタ)に、バクスター&レイと称する撮影機と映写機が、数本のフィルムといっしょにイギリスから届きました。これはヨーロッパで人気急上昇の「映画」というものの情報をつかみ、将来性を読んでいち早く発注しておいたものと思われます。
 
「シネマトグラフ」でも「ヴァイタスコープ」でもないこの機械は、イギリスで独自に開発されたものでしょう。またフィルムもリュミエール社、メリエスのスター・フィルム社、あるいはエディスン社で製作されたオリジナルではなく、当時欧米でたくさん出回っていた複製品か、剽窃して作られたものだった可能性もあります。

 
小西本店では早速撮影してみることになり、当時20歳の店員浅野四郎(のちに大塚と改姓)が起用されました。マニュアルがあるわけではなく、教えを請う人もおらず、ちょうど私たちが始めてパソコンに触れたときのようだったのではないでしょうか。恐る恐る触っているうちに映写機の使い方はすぐに分かったと思います。なにしろ手回しですからね。フィルムは映写機に掛ければすぐに見ることができますからちょろいものです。

 
けれども撮影機はそうはいきません。フィルムを入れてカメラは回せても、撮影には写真の知識と技術が必要です。また撮影したフィルムは現像しなくては見られません。
 そこで、取引先の日本橋三越写真部の柴田常吉に協力を頼むことになりました。
二人は勇んで撮影機を抱えて街に繰り出しました。そして外光の下では「日本橋の鉄道馬車」「上野の汽車」、室内では「浅草江川一座の足芸」などを試験的に撮影。自社で現像し、プリントにも成功しました。この二人が日本で最初の映画カメラマンということになります。

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●日本初の映画とされる大塚四郎撮影「日本橋」1897

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●左/浅草公園六区に立つ凌雲郭(浅草十二階)1890(M23)
 右/日本で最初の映画カメラマン・柴田常吉



●早くも宣伝映画登場
 
1898(M31)年に入ると小西本店はいよいよ映画機材に本腰を入れ、フランスゴーモン社の撮影機(「クロノ・ゴーモン」と思われる)を輸入しました。
それを神戸のお金持ちが購入し、映画を撮ることになりました。そこで経験者として柴田常吉が再び起用され、「京都芸者の潮来出島」「車屋の水喧嘩」などを制作。落成2年目の歌舞伎座で公開されました。

 
この年、京橋で開業していた今で言う広告代理店の「広目屋」が活動写真のPR効果に着目。小西本店に「三井呉服店」「沢之鶴」「岩谷天狗(たばこ)」の映画制作を依頼してきました。いわば日本で最初のPR映画。これを撮影したのも柴田常吉です。


●旧と新。歌舞伎と活動写真のコラボレーション
 
1899(M32)年になると「広目屋」の駒田好洋という人が独立して、「日本率先活動大写真」という大層な名前で「ヴァイタスコープ」を使った映画制作を始めました。
 彼はすでに知己の間柄の浅野四郎、柴田常吉を起用して、銀座、日本橋、浅草仲見世の様子や、日本を代表する風俗として柳橋、新橋、祇園芸者の踊りなどを撮影し、広目屋の提供で歌舞伎座で上映しました。


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●歌舞伎座 1896(M29)

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●歌舞伎座における「日本率先活動大写真」公開 1899.6

 
当時歌舞伎は文明開化の延長線上で新しいかたちを模索しており、政財界、文化人の後援による「活歴」(史実に即した作劇)という活動を展開したり、坪内逍遥を主唱者とする新歌舞伎の動きなど、近代歌舞伎への試行錯誤が続けられていました。到来して間もないニューメディア・活動写真は、ちょうどフランスのジョルジュ・メリエスが自分のマジックのステージにいち早く動く写真を導入したように、歌舞伎座も新機軸のテストケースとして舞台に活動写真を導入することを考えたものと思われます。

 駒田好洋はその後「ヴァイタスコープ」をもって地方を巡業して回り、フィルムの解説も行いました。「すこぶる非常に…」という強調語がトレードマークになり、「頗(すこぶる)」の文字を染め抜いた衣装で演壇に登り、活動弁士第1号となりました。


坪内逍遥.JPG●坪内逍遥

 
このような動きの中で歌舞伎座の井上竹次郎は、九代目市川団十郎、五代目尾上菊五郎による新歌舞伎十八番「紅葉狩」を活動写真にすることにしました。美女に紅葉狩りの宴に誘い込まれた平維茂(たいらのこれもち)が、本性を現した鬼と戦って成敗する、という有名な能の題材を歌舞伎に仕立てたものです。
 
撮影者は柴田常吉。舞台上では暗くて撮れないので、裏の空き地に背景をしつらえて、外光で撮影されたものです。

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●現存する日本最古の映画フィルム「紅葉狩」1899(M32)


 フィルムは200フィート、5分弱。美女から鬼への変身はジョルジュ・メリエスのようにトリックを使ったものではなく、あくまでも撮影機を固定したまま、演技の進行をそのまま撮影したものに過ぎません。現在そのフィルムの一部が残っていますが、この現存する日本最古の映画は、2009年7月、映画フィルム初の重要文化財に指定されました。


●劇映画第1作は、捕り物活劇だった
 
日本における劇映画の第1作とされるのは、やはりこの年に広目屋が製作した「稲妻強盗捕縛の場」です。撮影は柴田常吉。この映画は関東地方を荒らしまわった強盗の実話に基づいて、その逮捕の状況をドラマ形式で再現したもので、新演劇の俳優・横山運平が刑事に扮して出演しました。日本における劇映画第1号。映画俳優第1号というわけです。

横山運平.JPG●日本映画の俳優第1号 横山運平

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●神田・錦輝館における活動写真の上映 1897 スクリーンの後ろから上映

 
また1899(M32)年にはリュミエール社から2度目の技師派遣としてガブリエル・ヴェールが来日し、日本の生活習慣や農村風景、歌舞伎の舞踊や芝居の情景などを撮影しています。

ガブリエル・ヴェール.jpgIMGP8159.JPG
●リュミエール社からの派遣技師ガブリエル・ヴェールと撮影フィルム


●日本映画事始めにおける私の思い入れ
 
なお1899(M32)年の4月には、書生芝居の川上音次郎と貞奴の一座19名がアメリカ、フランス巡業に旅立っています。私としては、この二人こそ日本における映画スター第1号の名誉と重鎮の栄誉を担って欲しかったと思うのですが、この19世紀末から20世紀初頭にかけては活動写真のほとんどが歌舞伎の出し物や時代劇で、音次郎の目指す新派演劇にそぐわない方向性を示していたこと。また1909年からはその中心を「目玉の松ちゃん」こと尾上松之助という人気俳優が固めていたこと。更に言えば、活動写真がまだ本格的な映画俳優を求めるほどに成長していなかったということ…つまり二人の活躍の場が無かったからではないかと思っています。

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●上/後に新派女優第1号となる貞奴と座頭・川上音次郎
 下/川上音次郎一座の書生芝居 中村座 1891


 20世紀に入り、
川上音次郎一座は1907年にもヨーロッパ巡業を行いましたが、1908(M41)年1月に落成した吉沢商店の目黒行人坂下の撮影所でその第1作として、一座総出演の「和洋折衷結婚式」と題する喜劇を撮っています。二人が出演したこの映画を観てみたいものです。川上貞奴が帝国女優養成所を開設したのはこの年の9月でした。
 なお、川上音次郎は活動写真全盛の1911(M44)年11月、大阪帝国座出演中に死去。48歳でした。

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●牧野省三監督「怪鼠傳」1915 の尾上松之助(左)        ●尾上松之助

 
日本の活動写真界も20世紀に入ると、フランスのパテ社、ゴーモン社、アメリカのエディスン社などからのフィルム輸入と並行して、本格的な映画製作を始める会社が出てきます。監督という職業が生まれ、俳優が生まれ、名作が生まれ、活弁の名士も登場します。そこにはまた面白い展開があるのですが、残念ながらそれはこのブログの方向ではありません。

★次回はフランスに戻って、1900年に華々しく開かれた「第5回パリ国際万国博覧会」が舞台です。








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