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045 それは美女の変身から始まった。日本映画の発祥-2 [日本映画事始め]

045 トリックではなかった、美女の変身
   19世紀末、日本映画事始め-2


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●歌舞伎座 2009.10.1 撮影

前回からの続きです。

●「活動写真」の出発点も日本橋だった
 1897年(M30)9月になると、日本橋の写真材料輸入商・小西本店(後の小西六~コニカ~現コニカミノルタ)に、バクスター&レイと称する撮影機と映写機が、数本のフィルムといっしょにイギリスから届きました。これはヨーロッパで人気急上昇の「映画」というものの情報をつかみ、将来性を読んでいち早く発注しておいたものと思われます。
 
「シネマトグラフ」でも「ヴァイタスコープ」でもないこの機械は、イギリスで独自に開発されたものでしょう。またフィルムもリュミエール社、メリエスのスター・フィルム社、あるいはエディスン社で製作されたオリジナルではなく、当時欧米でたくさん出回っていた複製品か、剽窃して作られたものだった可能性もあります。

 
小西本店では早速撮影してみることになり、当時20歳の店員浅野四郎(のちに大塚と改姓)が起用されました。マニュアルがあるわけではなく、教えを請う人もおらず、ちょうど私たちが始めてパソコンに触れたときのようだったのではないでしょうか。恐る恐る触っているうちに映写機の使い方はすぐに分かったと思います。なにしろ手回しですからね。フィルムは映写機に掛ければすぐに見ることができますからちょろいものです。

 
けれども撮影機はそうはいきません。フィルムを入れてカメラは回せても、撮影には写真の知識と技術が必要です。また撮影したフィルムは現像しなくては見られません。
 そこで、取引先の日本橋三越写真部の柴田常吉に協力を頼むことになりました。
二人は勇んで撮影機を抱えて街に繰り出しました。そして外光の下では「日本橋の鉄道馬車」「上野の汽車」、室内では「浅草江川一座の足芸」などを試験的に撮影。自社で現像し、プリントにも成功しました。この二人が日本で最初の映画カメラマンということになります。

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●日本初の映画とされる大塚四郎撮影「日本橋」1897

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●左/浅草公園六区に立つ凌雲郭(浅草十二階)1890(M23)
 右/日本で最初の映画カメラマン・柴田常吉



●早くも宣伝映画登場
 
1898(M31)年に入ると小西本店はいよいよ映画機材に本腰を入れ、フランス、ゴーモン社の撮影機(「クロノ・ゴーモン」と思われる)を輸入しました。
それを神戸のお金持ちが購入し、映画を撮ることになりました。そこで経験者として柴田常吉が再び起用され、「京都芸者の潮来出島」「車屋の水喧嘩」などを制作。落成2年目の歌舞伎座で公開されました。

 
この年、京橋で開業していた今で言う広告代理店の「広目屋」が活動写真のPR効果に着目。小西本店に「三井呉服店」「沢之鶴」「岩谷天狗(たばこ)」の映画制作を依頼してきました。いわば日本で最初のPR映画。これを撮影したのも柴田常吉です。


●旧と新。歌舞伎と活動写真のコラボレーション
 
1899(M32)年になると「広目屋」の駒田好洋という人が独立して、「日本率先活動大写真」という大層な名前で「ヴァイタスコープ」を使った映画制作を始めました。
 彼はすでに知己の間柄の浅野四郎、柴田常吉を起用して、銀座、日本橋、浅草仲見世の様子や、日本を代表する風俗として柳橋、新橋、祇園芸者の踊りなどを撮影し、広目屋の提供で歌舞伎座で上映しました。


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●歌舞伎座 1896(M29)

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●歌舞伎座における「日本率先活動大写真」公開 1899.6

 
当時歌舞伎は文明開化の延長線上で新しいかたちを模索しており、政財界、文化人の後援による「活歴」(史実に即した作劇)という活動を展開したり、坪内逍遥を主唱者とする新歌舞伎の動きなど、近代歌舞伎への試行錯誤が続けられていました。到来して間もないニューメディア・活動写真は、ちょうどフランスのジョルジュ・メリエスが自分のマジックのステージにいち早く動く写真を導入したように、歌舞伎座も新機軸のテストケースとして舞台に活動写真を導入することを考えたものと思われます。

 駒田好洋はその後「ヴァイタスコープ」をもって地方を巡業して回り、フィルムの解説も行いました。「すこぶる非常に…」という強調語がトレードマークになり、「頗(すこぶる)」の文字を染め抜いた衣装で演壇に登り、活動弁士第1号となりました。


坪内逍遥.JPG●坪内逍遥

 
このような動きの中で歌舞伎座の井上竹次郎は、九代目市川団十郎、五代目尾上菊五郎による新歌舞伎十八番「紅葉狩」を活動写真にすることにしました。美女に紅葉狩りの宴に誘い込まれた平維茂(たいらのこれもち)が、本性を現した鬼と戦って成敗する、という有名な能の題材を歌舞伎に仕立てたものです。
 
撮影者は柴田常吉。舞台上では暗くて撮れないので、裏の空き地に背景をしつらえて、外光で撮影されたものです。

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●現存する日本最古の映画フィルム「紅葉狩」1899(M32)


 フィルムは200フィート、5分弱。美女から鬼への変身はジョルジュ・メリエスのようにトリックを使ったものではなく、あくまでも撮影機を固定したまま、演技の進行をそのまま撮影したものに過ぎません。現在そのフィルムの一部が残っていますが、この現存する日本最古の映画は、2009年7月、映画フィルム初の重要文化財に指定されました。


●劇映画第1作は、捕り物活劇だった
 
日本における劇映画の第1作とされるのは、やはりこの年に広目屋が製作した「稲妻強盗捕縛の場」です。撮影は柴田常吉。この映画は関東地方を荒らしまわった強盗の実話に基づいて、その逮捕の状況をドラマ形式で再現したもので、新演劇の俳優・横山運平が刑事に扮して出演しました。日本における劇映画第1号。映画俳優第1号というわけです。

横山運平.JPG●日本映画の俳優第1号 横山運平

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●神田・錦輝館における活動写真の上映 1897 スクリーンの後ろから上映

 
また1899(M32)年にはリュミエール社から2度目の技師派遣としてガブリエル・ヴェールが来日し、日本の生活習慣や農村風景、歌舞伎の舞踊や芝居の情景などを撮影しています。

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●リュミエール社からの派遣技師ガブリエル・ヴェールと撮影フィルム


●日本映画事始めにおける私の思い入れ
 
なお1899(M32)年の4月には、書生芝居の川上音次郎と貞奴の一座19名がアメリカ、フランス巡業に旅立っています。私としては、この二人こそ日本における映画スター第1号の名誉と重鎮の栄誉を担って欲しかったと思うのですが、この19世紀末から20世紀初頭にかけては活動写真のほとんどが歌舞伎の出し物や時代劇で、音次郎の目指す新派演劇にそぐわない方向性を示していたこと。また1909年からはその中心を「目玉の松ちゃん」こと尾上松之助という人気俳優が固めていたこと。更に言えば、活動写真がまだ本格的な映画俳優を求めるほどに成長していなかったということ…つまり二人の活躍の場が無かったからではないかと思っています。

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●上/後に新派女優第1号となる貞奴と座頭・川上音次郎
 下/川上音次郎一座の書生芝居 中村座 1891


 20世紀に入り、
川上音次郎一座は1907年にもヨーロッパ巡業を行いましたが、1908(M41)年1月に落成した吉沢商店の目黒行人坂下の撮影所でその第1作として、一座総出演の「和洋折衷結婚式」と題する喜劇を撮っています。二人が出演したこの映画を観てみたいものです。川上貞奴が帝国女優養成所を開設したのはこの年の9月でした。
 なお、川上音次郎は活動写真全盛の1911(M44)年11月、大阪帝国座出演中に死去。48歳でした。

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●牧野省三監督「怪鼠傳」1915 の尾上松之助(左)        ●尾上松之助

 
日本の活動写真界も20世紀に入ると、フランスのパテ社、ゴーモン社、アメリカのエディスン社などからのフィルム輸入と並行して、本格的な映画製作を始める会社が出てきます。監督という職業が生まれ、俳優が生まれ、名作が生まれ、活弁の名士も登場します。そこにはまた面白い展開があるのですが、残念ながらそれはこのブログの方向ではありません。

★次回はフランスに戻って、1900年に華々しく開かれた「第5回パリ国際万国博覧会」が舞台です。








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コメント 10

響

日本にも映画の波がやってきましたね。
コニカミノルタはSONYのカメラを使ってるわたしには
馴染みがあって嬉しいです。
試行錯誤して撮ってる時代に携わってた人は大変だけど
楽しかったででしょうね。
by (2015-05-19 01:05) 

sig

響さん、こんにちは。
いつも元気で楽しい記事をありがとうございます。写真がすばらしくて、さすがと思います。
日本では江戸末期に飛行機を考えた人がいたのに、映画を考えていた人がいなかったらしいのが、むしろ意外です。居たとすれば平賀源内でしょうか。こうして映画の発祥を展望していると、アジア圏ではゼロなんですね。影絵やいろいろな芸があったからなのかもしれませんね。
とにかく、新しいものを考え出す時はウキウキですよね。映画は欧米では開発競争でしたから、ハラハラもあったことでしょう。
by sig (2015-05-19 08:09) 

OMOOMO

へええ…の連続です、明治32年、きっと父の生きてた時代、そう遠くはない昔に、これほどの試行錯誤があって映画が育ってきたのですね。
初めての、カメラマン。初めての俳優。先駆者はいつの時代にも。
川上音二郎が48歳で死去、若かったのですね。
by OMOOMO (2015-05-19 09:04) 

sig

OMOOMOさん、こんにちは。
今、私たちが観ている映画が生まれて今年で120年。これを永かったと見るか、早いと見るかはそれぞれの人の主観になりますが、私はこれだけいろいろな分野の技術や才能がよく撚り合わさったものだと思います。それはみんなが求める共通の願いを、映画と言うメディアが備えていたからだと思います。それはなんなのだろう。それが私のテーマなんです。
by sig (2015-05-19 14:00) 

森田惠子

芸者さんの手踊りを上映したのが、「歌舞伎座」の上映の一番最初らしいですね。
by 森田惠子 (2015-05-19 18:42) 

駅員3

映画フィルム初の重文とは凄いですね!
それに比べて煉瓦は・・・
by 駅員3 (2015-05-19 18:50) 

sig

森田惠子さん、こんばんは。実際に歌舞伎座に取材されてのコメント、ありがとうございます。
歌舞伎座で最初の映画上映については、1899年の記事の最初の部分がそれに当たる積りです。期間は6/20~7/5まで。作品名はたくさんあるのであえて列記しませんでしたが、手元資料には柳橋芸妓おなつ、やほ他による「松崩し五枚扇」をはじめ「元禄踊り」「鶴亀」「紅葉の橋」「潮来出島」「道成寺」など、とあります。
なお、この記事の記述レベルでは、日本で初めて撮影されたフィルムと言うことで「日本橋」の1カットを掲出するだけでよしと考えておりますが、いかがでしょうか。
by sig (2015-05-19 19:50) 

sig

駅員3さん、こんばんは。
このフィルムの重文指定はまだ6年前でしかありません。昔のフィルムが無くなってきて、あわてて保存の必要性が浮上した例ですね。
その点から考えますと、劣化による味わいが深まりこそすれ、煉瓦はまだ各地にありますし、フィルムのように化学変化を起こして消滅するような危惧は無いようなので、煉瓦の保護はちょっと・・・笑
でも、歴史的な建造物はぜひぜひ文化財に指定して保存に尽力してほしいものですね。
by sig (2015-05-19 19:58) 

路渡カッパ

日本における映画の黎明期、意外と知らないです。
活動写真、弁士といっても見たことは無いし。(^_^ゞ
でも良い時代に入って来たものですね、海外の技術などをどん欲に吸収しようとしていた時代ですものね。
鎖国が続いてなくて良かった・・・♪
by 路渡カッパ (2015-05-20 00:44) 

sig

路渡カッパさん、こんばんは。お互いに夜更かしですね。笑
私はすれすれで、おそらく最後の活動弁士・松田春翠さんの活弁で、かの有名な阪東妻三郎の「雄呂血(おろち)」1925年製作を観ました。沢登翠さんのお師匠さんですね。その弁舌のすばらしかったこと。当時の人たちが、映画よりも弁士の語りを聞きに行ったものだという言葉がよく分かりました。日本の無声映画時代は、伝統芸能の浪曲、講談、落語を聞きに行くように、まさに活弁の話術を聞きに行くものだったようですよ。
強調された独特の節回しをじっくりと聞いていると、本当に涙が出ました。
by sig (2015-05-20 01:33) 

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